第119話 泥をかぶってもいい。それが弟を利するなら。
――袁譚
「なんだと、辛評を寄越せだと!?」
「は、いえ、そのような理不尽な申し出ではなく、お力添えを頂けないかということでして……」
「俺の幕僚から人材を引っこ抜くんだろう。同じことじゃねえかっ!」
袁譚は目下北海攻めを目論んでいる最中だった。
しかし状況は芳しくなく、文人の孔融相手に一進一退を繰り広げる有様だ。
理由として、敵方には巧みに騎兵を操り、自らは巨大な鉄鞭を奮って戦う一人の勇将がいたのが原因である。
名を太史慈、字を子義という。
袁譚の将である呂曠・呂翔はあえなく敗退を繰り広げ、厭戦気分が漂っていた頃、袁煕より使者が現れたのだ。
「ったく、お姉ちゃんに頼みごとをするなら、直接顔を見せてくれればいいのによぅ……」
「流石にそれは……今は袁尚様への対応が急務ですので」
「殺すぞ、てめぇ。顕甫の話はするんじゃねえ」
言うや否や剣を抜き放ち、使者に向ける。この粗野で性急、そして短慮な行動が袁譚派の人間を減らす要因でもあるのだが。
それでも健気に部下たちが従っているのは、偏に袁家の威光によるのかもしれない。
「ったく、顕奕はいつもお姉ちゃんを困らせるんだから……クソ、どうすっかなぁ」
「辛毗殿は既に顕奕様のもとへ向かっておりまする」
「俺も行く! もう青州は飽きた! お姉ちゃんも顕奕の顔が見たいぞ!」
駄目だ、この長女。
使者の顔には疲労の色が深く浮かんでいたのだが、当然袁譚が気づくはずもなく。
彼女のパフォーマンスは一層の低下を見せているのだが、周囲の人間は「またか……」で終わってしまうのが悲しいところでもある。
守護する平原城から南下し、幾度となく小競り合いをしてきたのだが、流石にそろそろ成果が欲しい。
袁譚の中では、跡目は溺愛する袁煕で決まっているので、立場の優位性は問題としてはいない。だが、妹の袁尚が邯鄲を失った今、これ以上メンツを失うわけにはいかないのだった。
「顕甫め、あんだけ堅牢な城に籠っていて、何やったら負けるんだよ」
一人愚痴るが回答は得られない。よしんば誰かが答えても、きっと納得は出来ないだろう。
「親父は何か言ってたか? 北平に構いっきりで、最近顔見てねえな」
「私は何も……ただ顕奕様からのご報告をお届けしたまででして」
「だよなぁ。ふむ……」
遠近感のバグった胸の下で、そっと腕を組む。袁譚は短気と弟愛で汚染された脳を駆使し、最適解を導こうとしていた。
「北海を攻略しねぇとやがて曹操に取られちまう。すると河北は長い範囲で敵と面することになるのか。ちと面倒だな」
陣営が違っている敵と相対するのは、兵力が分散しているのであまり脅威ではない。一致した行動をとったとしても、指揮系統が異なるので必ずほころびは出る。
だが邯鄲の失陥は次元が違う。
孔融が曹操に降るのは避けられず、ある意味想定内に近い。可能であれば切り取れると踏んでいただけだ。
いわば皮膚病のようなものである。
しかし邯鄲は首都たる鄴の近隣であり、袁家の中でも重要拠点だ。
これは臓腑の病と言える。
どちらがより致命的なのかは自明の理だ。
「親父に伝令を飛ばす。現時点をもって北海攻略は一時中止。平原には防衛戦力を残し、余剰部隊は鄴へ向かう」
「よろしいのでしょうか? 長きにわたり戦い、戦果が出ぬと……」
「構わねぇ。鄴が落とされたらそれこそ目も当てられないからな」
「……かしこまりました。ではそのようにお返事を戻させていただきます」
伝令は踵を返し、袁譚の前を辞した。
目元が隠れた長い髪をわしゃわしゃと掻き、嘆息する。弟の顔を見るだけにしておきたかったが、どうやら大事に巻き込まれそうだと。
「顕奕は無事だろうか。早く匂いを嗅ぎたい。おっぱいに埋めたい。はぁ……」
袁譚は煩悩を口にするが、内心は不安でいっぱいであった。
せっかく仲が戻ってきた袁尚を、不意に失うことが無いようにと祈る他にない。
三姉弟揃ってこそ袁家だ。誰にも欠けてほしくないと思うのは、無理からぬことだろう。
「辛評を呼べ。必要な戦力を抽出し、すぐに出るぞ」
「はっ」
侍っていた兵士に声をかけ、袁譚は平原城から北海方面を睥睨する。
数多くの犠牲を出して、結局は落とすことが出来なかった、忌々しい土地だ。
「まったく……俺には軍才が無いんだよなぁ」
気だるげな表情で、宙に息を吐く。
「殿、お呼びでしょうか?」
「ああ、辛評。方針変更するから、お前の意見を聞きたくてな」
「城壁で話されてもよろしいので? 間者が潜んでいるやもしれませぬ」
「そうだな、周辺を少し掃除させるか」
半刻後、ネズミ一匹通さぬ鉄壁の態勢で、袁譚と辛評は論議を始めた。議題は当然、鄴への派兵と北海攻略の無期限中止である。
「――なるほど、顕奕様が某を招集すると。して、その通りにすると平原に幕僚がいなくなり、ひいては北海攻略に支障が出る。さりとて無視をすると、鄴が危機に陥る可能性があり……と」
「そういうことだ。辛評、どうする」
「論じるまでもありませんな。北海攻略を断念し、鄴へと向かいましょう」
即答ぶりに目をひん剥くが、辛評はどこ吹く風だ。寧ろやっとその気になったかと言わんばかりである。
「そも、北海を奪取しても我らに旨味がありませぬ。黄河を渡り、前線拠点とするには僻地に過ぎますし、収穫物もあまり期待できません。曹操にでも取らせて、時間を稼ぐ駒とした方がよろしいでしょう」
「孔融のことだ。即降伏して時間的猶予がなくなるかもしれんぞ。どうすんだ」
「その場合も考えられますが、問題ないでしょう。いずれにせよ、曹操が河北に攻め入るには大規模な水軍を用いる必要がありまする。侵攻の気配があれば、兵力の大移動と造船所の最大出力での稼働が必須です」
袁家相手に散発的な攻撃では、屋台骨を揺るがすことは出来ない。
曹操軍は全力で軍を準備し、兵站を整え、造船しなくてはいけないのだ。
対して袁家は上陸してきた相手を、水際で撃破すればいい。少数の部隊は見逃してしまうかもしれないが、大城を落とすことは出来ないだろう。
「じゃあ辛評、俺たちは鄴に向かうぞ」
「些か防備が気になりますが、仕方ありませんな。南皮におられる御館様にご助力を願いましょう」
「……そうだな。親父の兵を回してもらうか。チ、かっこわりぃぜ」
「そう発奮されますな。平原を守り、鄴を救う。これこそが上策ですぞ」
そうだよな。実利を取るのが顕奕のためだな。
袁譚は一時のメンツを捨て、袁紹に助力を得るための書状を送ることにした。
今は一丸となって敵に当たるときである。己の小さな満足のために、大局を見失ってはならない。
「万事その通りにしよう。俺が泥をかぶることで、袁家を守れるならそれでいい」
「……成長されましたな、顕思様。以前は功名に目を奪われておいででしたが。今はまるで歴戦の名将のようですぞ」
「よせやい。俺は己の分を弁えようとしてるだけだ。でしゃばってもいいことねえしな」
「まったく、いつの間にやら、雛鳥が鶯になられたのか。この辛評、顕思様の手足となって、益々の働きをお誓いしますぞ」
「ああ、頼りにしてるからよ」
斯くして袁譚は主力部隊を袁紹の援軍と入れ替え、一路鄴を目指して出発した。
逸る気持ちはあれど、長い行程である。ひたすらに馬上の人になる以外にない。
そう、そのはずだった。
「なあ辛評」
「はい、お呼びでしょうか顕思様」
「暇だよな、俺ら」
「ま、まあそうですな。斥候や工兵は忙しいようですが、我々は今のところ時間が余っておりますな」
次の言葉に、辛評は落雷に打たれたような衝撃を覚える。
まさか、あの袁譚が……と、目を見張るものがあったのだ」
「これ、鄴に行く振りして、邯鄲の背後にいけねえかな。聞けば顕甫のやつ、善政を敷いていたらしいじゃねえか。各村々を回り、再び味方に出来ねえかな」
「……ッ、け、顕思様。つまり敵中に敵を作られるおつもりか」
「や、策の名前とかはわからんっての。けど、そうした方が有利なんじゃねーかなって思っただけだ」
辛評は額から汗が一滴落ちるのを無視した。
鉄壁の邯鄲を落とした相手に、正面から決戦を挑むのは危険極まる愚策だ。
故に搦め手で相手の戦力を割き、徐々に包囲を狭めていくのが望ましい。
「……では、早速人選を行います。各村に送り込み、あわよくば蜂起できるよう浸透しておきましょう」
「ああ、頼むぜ」
そして袁譚は知らなかった。
張燕軍の軍師たる龐統が、同盟の提案を持って来訪していることを。
偶然の思い付きではあるのだが、袁譚の行動は張燕軍に潜在的な不安を植え付け、袁家が有利な立場を確保できるようになるのであったという。
運命の邂逅は近づく。
鄴において、袁煕は三人の論客と相対するだろう。
一人は曹操に工作活動をしていた郭嘉。
一人は上党への偽撃計を提案した賈詡。
そして敵軍の軍師、龐統。
知恵者同士の戦いが始まろうとしていた。
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