第117話 上党城謀略戦

――簡雍


 時は少し遡る。


 劉備が出撃して久しい。

 本来であれば城壁を守る予定であった、守将たる関羽も戦場へと駆けた。

 簡雍はこれで一安心と胸をなでおろす。かの三兄弟が猛攻を繰り広げ、撃退できなかったものは呂布唯一人。その呂布も既に墓の下にある。


「これ、城壁に一応岩を集めておくのだ。どうせ破壊された壁故、守るには遅すぎるのだがな。体裁だけは整えておかんといかん」

「はっ。しかし守備兵は三百にも満たない数ですが、本当に大丈夫でしょうか」

「問題ないわい。あの雲長と翼徳が、玄徳を筆頭に突撃しておるのだぞ。かの孟徳公でも裸足で逃げ出す布陣じゃ」

「それもそうですな。では、私はこれで」

「うむ」


 簡雍は気づいていなかった。

 今目の前で話した男は、既に『入れ替わっている』ことに。

 逢紀直属の暗殺部隊。その頂点に立つ双子のうちの一人・龍目りゅうもくであった。

 弟の龍賢は現在陸兄弟と共に、物資の倉庫で仕掛けの準備をしている最中だ。


「龍目様、賢様より首尾は良しとの言伝です」

「よし、ではこちらも動くとしようか」


 文官の服装をした間者が、逐一情報を届けてくる。既に上党城の情報網は手中にあることを証明していた。

 暗闇で包まれた城中の通路より、一人の男がぬるりと現れる。

 その眼は血走っており、顔は憤怒の形相に染まっていた。


「よくぞお越し下さった、麋将軍。我らの調べでは、麋竺殿に罪を着せ、讒言を成したのはかの簡雍なる人物です」

「おのれ……前々からあの男は気に入らなかったのだ。玄徳公の親友か何か知らんが、碌に能力もない癖にでしゃばりおってからに」

「左様でございますな。ですがこうして害があるとわかった今、もはや看過できませんなぁ」

「見ておれ。同じ旗を仰いだ者として、内々の処理は拙者が行うぞ」


 幽鬼のようにふらりと歩みより、壁上で酒杯を持つ簡雍に近寄っていく。


「うむ? 麋の小僧か。お主も手伝いにきたのかな」

「よくそのように酒を飲んでいられますな。この一大事に」

「なればこそよ。上に立つ者が余裕を見せておかねば、下の者が動揺する。兵法の基本中の基本じゃぞ」

「そんなことを言っているのではない!!」


 あまりの大声に、作業中の兵士たちも何事かと彼らを注視する。

 すわ、一触即発の何かがあったのかと、奇異の視線が注がれるが、簡雍は動じない。


「麋の小僧、前からお主は性急で粗忽と噂されておる。兵も見ておる、ここは自重せよ」

「黙れ! この腐れ外道めが。兄の仇、ここで取らせてもらうぞ!」


 剣を抜くや否や、優柔不断とされる麋芳とは思えぬ迷いの無さで斬りつける。


「うぬおっ! 小僧、乱心したか!?」

「やかましい、貴様が兄を殺したことは分かっているんだ。大人しくあの世で詫びるがいい!」

「これはこれは、そうか、貴様……袁家と通じておるんだな? 麋竺殿の件は外に漏らさぬよう徹底したはず。言うがいい、誰に焚きつけられた?」


 震える手で、麋芳は剣を握りなおす。もはや彼の耳には誰の声も届いていない。

 脳裏にあるのは、変わり果てた兄の姿。そして犯人を教えてくれた龍目の言葉のみ。口角から泡を吹き、麋芳は裂帛の気合を込めて躍りかかった。


「覚悟ッ!」

「舐めるな、小僧!」


 簡雍とて劉備軍の将だ。身に寸鉄ならぬ、短刀程度は持っている。

 しかし、残念ながら強度が違った。


 麋芳が持っているのは、豪商たる実家から持ち出した名剣だ。翻って簡雍の短剣は数打ちの安物である。

 パキリ、と乾いた音が鳴り響く。

 勝利を確信した麋芳は、狂気の表情で簡雍に剣を振り下ろした。


「ぬぐあっ!」

「死ね! 死んで兄上に跪け、この畜生が!」

「馬鹿たれめが……まんまと……まあいい、後事は玄徳に委ねようか」


 簡雍は目の前の愚物が、歓喜の笑みをこぼしているのを見て、最後にふっと自分も笑ってみせた。

 もとより、果ての無い夢を追いかけていた自分たちだ。その半ばで潰えるのは覚悟していたことである。


「玄徳……いい夢を……」


 簡雍は正座するように身をすとんと落とすと、それきり呼吸を停止したのだった。

 勝ち誇った麋芳は、大声で自らの正当性を主張し、兵士に煙たがられている。気づかぬは本人ばかりなり。


「麋芳殿、お疲れさまでした」

「おお、龍目よ。どうだ、この通り拙者一人でも悪漢を成敗できたぞ。これで兄上も喜んでくれることだろう」

「ええ、きっと。斯くなる事態になった由、麋芳殿が将軍として守備の指揮に当たるのがよろしいかと」

「そ、そうだな。よし、まずは何をすればよいか……」


 むむむ、と考え込む麋芳を冷たい目が刺す。

 とんだ道化よと、龍目は任務の容易さに、寧ろ疑いまで出てくる始末であった。


「麋芳将軍、そういえばお耳に入れておくべき案件がございまして」

「なに、それは緊急か?」

「はい、何でも物資の備蓄倉庫付近で怪しげな影を見たと……」

「いかん、それは敵の細作であろう。よし、案内してくれ、拙者自ら討伐してくれよう」


 それでこそ、守備の責任者。玄徳公の将軍です。

 龍目は優しく微笑み、麋芳と共に漆黒の廊下へと消えていく。


 以後、麋芳の姿を見たものは誰もいなかった。



――陸遜・陸瑁


「民から得たはずの物資を焼き払うのは、少々気が引けますね」

「兄上、躊躇している暇はありませぬ。こうしている間にもお味方の命が失われているのですぞ」

「分かっています。ですが、公則先生の教えを思い出してみると、戦果だけが重要ではないとあります」

「……確かに。兄上、これはもしや、先生が我らを試しておいでなのでしょうか」


 頷き合う兄弟と、早くしろよとジト目を向ける暗殺者・龍賢がいた。

 龍賢からすれば、たかが火を用いることにどんな教示があるのかわからない。ましてや自分の主である逢紀と敵対している男、郭図の弟子たちだ。

 好感度は最初から低いままである。


「お二人さん、そろそろ決めてくれません?」

「これは失礼しました。この陸伯言、一つご提案をさせていただきたく」

「私はただの暗殺者ですよ。許可など取る必要はありません」


 左様でございますか、と陸遜は語る。

 少女のようなかんばせ。紅をさしたような唇。白い肌。

 町を歩けば誰もが振り返るほどの美しさを持ちながら、発した言葉は容赦が無かった。


「史渙殿から、周倉・裴元紹という賊徒を捕縛した旨、届いています。故に最初は彼らを下手人に仕立て上げようとも思いました。ですが、それは下策」

「ふむ、ではどうされるおつもりか」


「彼らと賊上がりの者たちを解放します。火をつけるべきは倉庫ではなく、その周辺設備に限定しましょう」

「解放する意味がわかりません。そのまま殺してしまえばよいのでは?」


 首を大きく横に振る陸遜と、何かを察した弟の陸瑁。彼らは目を合わせあい、作戦を述べる。


「仲間の賊徒が誤って火をつけた。このままでは責任者である二人が処罰されることになると伝えます」

「合点が行きました、兄上。つまり、将と物資の両方を得るのですな!」

「ええ。彼らも知っての通り、関雲長なる人物は厳格な将だと聞き及んでいます。失火などという事態に、激怒することは必定でしょう」


 こいつら、思ったよりもえげつないね。そう龍賢は目を細める。

 悪くない。一切合切総取りしてしまうのは、自分も好むところであると。


「龍賢殿、申し訳ありませんが、二将をこちらへ連れて来ていただけませんか? 私自ら説得いたします」

「では、兄上。私は周辺に火をつけてまいりますぞ!」

「ええ、お願いします」


 やがて巻き起こった火災の赤。引き立てられた周倉と裴元紹は、取り返しのつかない事態であることを告げられる。


「本当ならば、既にお二人を斬っている予定でした。ですが、殿が是非とも幕下に招きたいと仰せでして」


「おい、周。どうすんだよこれ。雲長の旦那が戻ってきたら、俺たちゃ晒し首になっちまう」

「てやんでぃ! 打ち首が怖くて雲長様の露払いが務まるかってんだ! おうおう、この周倉、この世に雲長様ある限り、決しておめぇらの言う通りには動かねえぜ!」


 胡坐をかいて座り込み、ガンとして説得を受け受けない周倉だった。

 裴元紹は既に逃げ腰で、一押しせずとも自ずから降るだろと予測される。


 そこに一羽の鳩が舞い降り、龍賢の肩にとまる。


「陸君。良い情報だ、この伝令文を周倉とやらに聞かせてあげるといいよ」

「拝見します……なるほど、完璧ですね」


 劉備玄徳、関羽雲長戦死。

 張飛翼徳、降る。


 上党を落とすに、最高の情報が得られた瞬間だった。


「あとは陸君の手管を見せてもらおうか。どうぞご随意に」

「ありがとうございます。貴女にも感謝を」


 見抜かれてたのか、と龍賢は大きく目を見開いた。

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