第116話 遥けき遠く、我が桃園よ

――趙雲


 数多くの侠徒を引き連れ、黄巾賊相手にところ狭しと暴れまわった勇の者。

 その落日が近づいていることを、趙雲は肌に紫電が走るほどに感じていた。


 負傷しているとはいえ、袁家の中でも抜きんでた武を持つ張郃。

 呂布と共に各地を転戦し、並み居る敵を文字通り蹴散らしてきた男、張遼。

 

 援軍には左右より、河北の二枚看板である顔良・文醜将軍が迫ってきている。また、後背より魏延が寄せてきているとのことだ。


「数を揃えて勝利を掴んだつもりか、趙子龍。我ら三兄弟、乱を鎮めるためには泥水を啜ってでも生きる。さあ、我が偃月の錆になりたい者はかかって参られよ!」

「髭殿……いえ、関雲長殿、もうおやめくだされ。貴方方の大義は、寝食を共にしたこの趙子龍がよく分かっております。ですが――」


 何かが違う。

 彼らの志は崇高で、気高く、仁の光に満ちていたはずだ。

 なのに、なぜ曇ってしまったのか。


 破損した偃月刀は再びその威容を放ち、対する龍槍も新品同様の輝きを放っている。物品は修理できるが、人の心は戻せないのかもしれない。


「関雲長殿、重ねて降伏を勧告いたします。お命はこの趙子龍が必ず守って見せます故、どうか、どうか!」

「くどいぞ子龍。上党の城を――我らが新たなる故郷を踏みにじるのであれば、誰であろうと容赦はせぬ。意志あらば、我が屍を越えて参れ!」

「……く、どうして、どうしてご理解いただけぬのか! 貴方は今の玄徳公が正しいと、胸を張って天下に叫べますや? 彼の者は羊の皮を被った狼でございます。お気づきになられていないはずがない!」

「言葉は無用。押し通れぃっ!!」


 一瞬の汀。

 関羽の目に潤んだものがあふれたのを、趙雲は見逃さなかった。

 さりとて関羽の構えは不動であり、近寄る者全てを地に叩き伏せると気炎を上げている。


 澪と焔。

 感情と理性の二律背反は、かの名将にして軍神を苦しめていることだろう。


「……左様でござるか。ならばもはや道はなし」

「さあ、死合おうぞ。誰でも良い、この関雲長を打倒してみせよ!」


 短戟が飛んだ。一直線に飛翔する銀の線は、関羽の首に吸い込まれそうになり。

 鉄風。

 守る偃月は真っ二つに白刃を切り裂いた。


「流石雲長殿。そのおしるしは張文遠が頂戴しようぞ」

「余計なことを……するなッピ。関羽はこの張儁乂が討つッピよ」


 傷に布を巻いた張郃と、黙視していた張遼が動く。

 この河北で。否、この中華で、勇・驍・猛を兼ね備えた三将を相手にし、勝利を得られるものがいるのだろうか。いや、いない。


「か、関将軍! 後方より敵軍が接近しているとの報が!」

「ふむ、慌てるでない。誰が来ようとも、我が牙門旗を降ろすことは出来ぬ。持ち場を堅守せよ」

「ハッ!」


 三将の圧を受けながら、兵士を鼓舞しつつ防御態勢をとる。通常の戦では考えられぬほどの胆力を求められる場面だ。同時に冷静で凪めいた平静さも。


「ふむ、勝敗は決したッピね」

「そのようだな。あれなる旗印は――顔、そして文か」


 遠方より挟み込むように関羽の軍を攻め続ける二柱がいた。

 烈火のような気性と、貪欲に勝利を欲する顔良。そして淡々と己を磨き、高みを目指す文醜。ついでに言えば、亡者たちの長でもある。


 いくら関羽の部隊の士気が高まったとしても、限界点は訪れる。

 馬防柵が破壊され、陣に現れる巨躯の馬たち。言わずもがな、顔良・文醜の二枚看板の到着であった。


「へっ、やっぱりてめぇは俺が殺ってやらんとなぁ!」

「侮るなよ、顔良。殿に確実な勝利を捧げることが目的だ。御館様もそう望んでおいでである」

「わーってるよ。それに、もうこの盤面、詰んでるしな」


「ふ、ふははははははは。よい、良いぞ! 中華広しとはいえ、これほどの英雄豪傑が一か所に集まるとはな! この関雲長の首、かくも価値があったとは」

「なーにぶっこいてんだか、この髭ナシ野郎。この布陣を前にイカれちまったかぁ?」


「全員だ」

「あん?」

「全員かかって参れ。さぁさ、何人が拙者の黄泉路を共にしてくれるかな。命果てるまで武勇を示さん!」


 雄叫び、そして落雷。

 遠方に天の意志が着弾したのを合図に、五将は一斉に躍りかかった。


「ピッ!」

 槍。それを回避。


「邪魔だァァァッ!!」

 薙刀。これも空虚。


「……セイッ!」

 龍槍。偃月の前に停止。


「死んどけや、ボケがっ!」

 大薙刀。石突で迎撃。


「往くぞッ!」

 戦斧。再び空蝉。


 よもやこれほどとは、趙雲自身も思っていなかった。

 今集っている猛者たちは、一騎打ちで戦っても、自分が勝てるかどうかわからない。それほどの将星が束になっているのだ。


「どうした、この関雲長の目はまだ黒々であるぞ!」

 

 青龍偃月刀。

 弾け飛ぶ槍。軋む鎧。怯える馬。


 人の住まう領域にふらりと現れた、武の神のようだ。趙雲はその掌で戯れているだけなのかと錯覚してしまうほどに。

 決死の覚悟を舐めていた。それは自認するほかない。

 それ以上に、武侠の極みを侮っていたと認めざるを得なかった。


「ふむ、仕方ないッピね」

「考えは同じのようだな、儁乂殿」


 龍槍を構えなおす趙雲を隠すように、折れた得物を手にした二人が並ぶ。

「張郃殿、張遼殿、何をっ?」

「貴殿に任せるッピ。敵が屍を踏み越えろとのたもうている故、我らも屍を用意しよう」

「客将として流れ、共に過ごした時間は少なかったな。しかし居心地は良かったぞ」


「いけない! お二人とも、ご自重なされよ!」


 張郃と張遼は互いに呆けたように趙雲を見やる。

 そしてどちらともなく、くつくつと笑うのであった。


「殿は袁家の……否、天下の至宝だッピ。決してその玉を割ることなかれ……ッピ」

「お嬢様をお任せするに足る御仁であった。もはやこの身を惜しむ必要なし」


「「命の捨てどころは、今なり!」」


 二将が走る。

 恐怖に竦んで動けぬ馬から降り、破損した武器を手に駆けた。

 いくら誉れ高き武人と言えど、決死の覚悟を持った者同士がぶつかれば、必ずどちらかが落命するだろう。


「――任されました」


 趙雲は溢れる感情を抑え込み、右腕に全神経を集中させる。

 一撃。この一撃で全てを決める。

 

 ふとした瞬間に足元が崩れそうになるような恐怖を飲み込み、仲間を盾にした己の恥を噛み締め、身体を弓のようにしならせる。


「我が身は鏡なり。徳には徳を。仁には仁を。そして……血風には血風を!」



 爆ぜた。

 関羽の偃月刀が二将を刈り取ろうと、鎌首をもたげた刹那に輝く。


「飛べ、龍よ!」

 

 陽光を翳す一陣の槍は、そのまま関羽に吸い込まれていき――


「甘いぞ、子龍よ!!」


 偃月は凛として、そこにある。

 ただし、その佳人ぶりは、きっと最後の火花だったのかもしれない。


「ぬぅ……これは……」

 趙雲の龍槍は、寸分違わず関羽の胸を狙った。急遽防御姿勢を取らざるを得なかった関羽は、無理な形で武器を受けることになったのである。


 故に合い討ち。

 矛と盾ならぬ、龍と月は河北の地に散らばることになった。


「張郃殿! 張遼殿!」

「ピョッ!」

「参るッ!」


 二将は武器を捨て、関羽の両腕に組み付いた。

 袁煕がやっていた謎の武術である、関節技を真似たのである。


「顔! 文! 今だッピ!」


 怒号のような馬蹄と共に、鮮血が地に鮮やかな花を咲かせた。


「敵将、関羽。この顔良と」

「文醜が討ち取ったり」


 巨体が崩れていく。


「あに……じゃ……嗚呼、我が桃園は遥けき遠く、か……」

 魂の抜けるとき、人は何を思うのだろうか。趙雲はどのような形であれ、それには意味があると信じていたかった

 故に焼き付ける。偉大なる義侠の化身の最期を。


「……我が生涯で、貴方ほど大きい人は居なかった。安らかにお眠りください」

「敵ながら見事ッピ。この張郃、今日を忘れないと誓うッピよ」

「また死に損ねたか。さらばだ、中華の英雄よ。この張文遠、語り継ぐとしよう」


 関羽、字を雲長。

 五将を相手に獅子奮迅の戦を繰り広げ、討ち死に。


 斯くして、仁の世という一つの夢。

 あるいは、一つの邪念は潰えることになった。


 鬨の声が天地を揺るがし、全てを喜色に染め上げようとも忘れはしないだろう。

 趙雲はこの日、大きな決別を果たした。


「……我が槍と共に、桃園は仙境へと去った。現世に生きる我々は、恥じることのない武勇を見せなくてはいけないか」


 秋はまだ遠い。

 だが吹き抜ける風は、少し冷たいように感じた。

 きっとそれは、英雄たちの涙で出来ていたのかもしれない。


 闘志を胸に、趙雲は再び馬を駆る。

 主君たる袁煕のもとへ、この歴史的な事実を届けるために。

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