第115話 歴史の転換点

――袁煕


 曇天。

 俄かに湿気を孕んだ空気が支配し、空模様が漆黒になって来た。


 敵意が凝縮している。燕人張飛は、己の不明を恥じ、そして殺意へと塗り替えていった。側で見ているだけなのだが、同じ空気を吸ってるという事実だけで、絶叫モンの恐ろしさだよ。


「翼徳、おお、翼徳。さぞ辛い思いをしたであろう。ささ、兄に顔を見せてくれ」

「――せぇ」

「なんと申した? なに、一時の縄目など気にしなくても――」


「うるせえってんだよ、この詐欺師野郎!!」

「ッ!?」


 竜神の咆哮とも称するべきか。

 近くにいる馬が一斉に暴れ始め、気力の弱い者はそのままぺたりと地面に腰を下ろしてしまう。

 これが豪傑。これが万人敵……か。


「てめえ、よくも今まで俺らを騙してやがったな」

「何か誤解をしておらぬか、翼徳。まさかお前は袁家に取り入ろうとしているのではなかろうな」

「んなはずあるかってんだ。見たぞ、俺は。諫言しようとした兵士を無慈悲に斬り倒したよな」


 劉備の顔が苦虫を噛み潰したようにしかめられた。だがそれも一瞬。次にはもう、仏のような柔和な表情へと戻っていた。


「それになんだ、この軍は。怪我人、病人、老人、女子供……」

「翼徳、これは戦争なのだ。それに彼らの意志でもある」


 劉備の言もあながち間違いではないだろう。

 自らの勢力が消滅しようとしているとき、なりふり構っていられない。

 持ちうる全ての手段を使って、滅びの未来に抗おうとするだろう。


 だがよ、そういうのは『やっちゃいけねぇ』んだわ。

 絶滅戦なんぞ、下策も下策。外道の戦術なんよ。

 張飛も同じことを感じ入ってくれたのか、益々憎しみの目を劉備に向ける。


「あの誓いはなんだったんだよ、兄者……俺たちは、乱世の終焉を目指して戦おうとしてたじゃねえか。アレはなんだったんだよ……」

「現にこうして乱世の終結を目的にしているではないか。この戦は翼徳の武が欠かせぬ故、問答は後にしないか」


 それは悪手だぞ、劉備。


「今なんだよ! 今、民は前線で死んでいる! 今、女子供が弓で撃たれている! 怪我人も病人も、野っぱらで命を落としてるんだよ!」

「戦争なんだぞ、翼徳。今までそうしてきたではないか」


「違う。断じて違うぞ、兄者――いや、

「翼徳……お前……」


「今この場で消えていく命こそ、俺たちが救う命だったはずだッ!!」


 その言葉は俺にも刺さるね。

 為政者側には常に突きつけられる命題だ。

 けどな、劉備クンよ。幕引きってのは大事なんだよ。使えるモンは使うっていうのはある意味正しいが、それは実行しちゃいけない作戦なんだよな。


「翼徳……そうか、お前が私を裏切るとはな。残念だ、実に、実に残念だ」

「先に俺様の心を裏切ったのはお前だ。あの誓いは無かったことにさせてもらうぜ」


「まさかここまでおつむの弱い男であったか。本当に残念だよ、張飛翼徳」

「覚悟しやがれ。今俺様がここで楽にしてやる。せめてもの情けってやつだ」


「陳到ッ!」

 

 劉備はとある武将の名前を大声で呼ぶ。

 陳到。確か趙雲と並び称されるほどの名将で、演義の影に隠れてしまったが、数々の武勲を上げたという。


 劉備の付近にある物資の影より、黒装束に身を包んだ男たちが現れた。

 そりゃいるよな。

 袁家でも逢紀という一軍師ですらお抱えの隠密を持っているんだ。ならば一国の長が持っていないはずがない。


「待たせたな、張飛。そして袁顕奕殿。元兄弟同士の喧嘩を聞かせてしまって恐縮ですぞ」

「お気になさらず。それよりも、ここで投降して欲しいのですが。俺も無用な殺生は避けたいんですよ」


「はっはっは、よいのですよ。どうせ躯となるのはそちらですので。死に行くものと何を約束しても無意味。では、影とともに魂を散らしてくださいな」

「よくねえっての。まあ、説得は出来ないって俺も思ってたんですよね。そこは心配してないです。どっちかっていうと、別のコトが気になるっていうか」


 俺も言葉遣いが荒々しく、というか下品になっていたようだ。

 邪気に当てられると、人間どんどん品質が劣化していくんだろうかね。


「殺れ、陳到。生かして帰すな」

「御意――」


 影たちが円陣を組み、俺たちの周囲を走る。

 その輪を徐々に狭めていき、やがて長物であれば首に届くであろう距離にまで達する。


「滅ッ!!」

 烈火のような気合の声と共に、一斉に槍が繰り出された。

 俺がさばけるのはせいぜい二本くらい、か。

 これ、まずい……か?


「伏せてろ、袁の字」

「ん、お、おう」


「ぶるぁぁあぁっぁぁぁぁぁっぁぁあああああっ!!!」

 身を地に投げ出した瞬間、鼓膜が破れそうなほどの轟音が鳴り響いた。


 そして飛び散る赤い液体と、なんかのモツ。

 恐る恐る顔をあげると、そこには現代アートのように、綺麗に上半身だけ吹き飛ばされた『影』達の姿があった。


 一斉に槍を繰り出そうと死。

 名づけるなら、こんな有様だろうか。


「で、劉玄徳よ。どいつが陳到とかいう野郎なんだ? 俺様には将と雑魚の区別がつかねえんだがな」

「く、おのれ……」


 劉備は馬に飛び乗り、他の兵士を吹き飛ばしながら逃げようとする。

 脱兎のスキルは伊達じゃないってことか。

 じゃあ、おにいさんがいいことしてあげよう。


 強力編集――起動。

 ▷劉備玄徳

 ▷固有能力 脱兎

 ▷削除


 途端、一陣の風が吹いた。

 果たしてその突風は付近の兵士の目に砂を運び、よろけた男がうっかりと倒れてしまう。

 倒れた先は天幕。男はもがきにもがいて脱出しようとするが、かえって周囲にある天幕を巻き込んで、連鎖的に倒壊を起こした。


 その結果、劉備の乗っていた馬は流れてきた布に足を取られ、主を投げ出してしまう。さらに運が悪いことに、近くにあった荷物が劉備の背に落ち、身動きを完全に封じてしまった。


 なんというヒトコロスイッチ。

 ピタゴラスもあの世で大爆笑してるかもしれんね。


「おう、劉備!」

「んぐ、くそぅ……く、来るな! あっちへ行け!」


 知ってたかね、劉備君。

 ボスキャラからは逃げられない。これ令和まで通じる鉄則なんですわ。


「張飛殿、どうなさるおつもりか」

「袁の字、俺様が全てを終わらせる。そしてもう一人の兄者……関羽雲長ともナシをつけてくる。そうさせてくれや」

「わかりました。ご随意に」


 張飛が蛇矛を手に、動けない劉備ににじり寄っていく。


「どいつもこいつも私の邪魔ばかりしやがって! 貴様らなんぞ、私の踏み台であるべきなんだよ! 私は成功するべき人間なんだ。下賤な貴様らとは――」

「最後の最後までがっかりだぜ、劉玄徳。俺様が今、その悪夢を消してやるからよ」

「や、やめっ……」


 ドン、と鈍い音が聞こえた。

 騒ぎ立てていた声は一瞬で収まり、静寂が周囲を包み込む。


「あばよ、元兄者。むこうでも達者でな……うぐ、くっ……うおおおおおん、おおおおおおおっ!」

「あびゅ、ぐぶ……よく、とく……」


 劉備は背中から前に向かって、蛇矛で貫かれていた。

 それでもなお、動こうとがさごそと動き……そして、天意が降る。


 張飛が離れた瞬間、劉備から突き出ている蛇矛に落雷が落ちた。

 耳をつんざくような音と、目が消えそうになるほどの光。

 残されたのは、真っ黒く焦げ果てた、夢の残骸であった。

 


 鬼神は泣く。非業の最期にか、それとも夢の散華にか。

 苦楽を共にし、理想を追いかけた兄弟は世を去った。

 同日に死なんと誓った日は、久遠の果てに仕舞われることだろう。


「この場の兵士に告ぐ。劉玄徳は討ち取られた! この袁顕奕の命令によってだ!」


 せめて荷物の片端程度は持ってやるよ、張飛。気休めにもならんだろうけどな。


「上党城は袁家の手の者によって制圧されている。諸君らに逃げ場はない。今降れば命だけは助けよう!」

「ひ、ひいいっ、玄徳様が!」

「も、もう駄目だ……」


 泣き続ける張飛の大声にかき消されて、怨嗟の声も少なく聞こえた。

 袁家の嫡男である袁顕奕の責任において、この戦争を終わらせる。一人でも多く、無辜の民衆を戦場から帰さなければな……。


 劉備の牙門旗が倒れる。

 それは人によって引きずり倒されたのではなく、強風によってボッキリ折れたのだった。

 この時代は迷信が横行しているという。ならばこのシーンは一つの天啓とも受け取られるのではなかろうか。



 劉備玄徳。

 筵売りから皇帝にまで成りあがるはずだった男。


 上党付近の戦いにて戦死。


 とうとう俺は、取り返しのつかないほどの歴史の歪みを生み出してしまった。

 今後の展開はまったく予測できない。

 それでも、今はこれが最善だったと言い聞かせるしかないのだろう。


 そして、俺が劉備玄徳のように、邪な心に支配されないように、そっと祈るのだった。

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