第111話 燕人ハルヒの憂鬱

――張飛


 身にまとう覇気に、蛇矛を持つ手に汗がにじむ。

 眼前の男はどう見ても一介の文官だ。戦闘になれば視線だけで撃破出来うる存在であるし、そも前線には出てこない類の職種だろう。

 弛み切った顔に、少し出た腹。目は濁り、髭も汚い。


 しかし、張飛はこの男を無視することができなかった。

 

「今宵は風が澄んでおる――こういう日は、人の死で彩られるのが運命じゃろう」

「まだ真昼間だぞ、おっさん。酔っ払ってんのかぁ?」


 張飛の言葉が耳に入っていないのか、小太りの駄中年はそっと腰から二本の剣を抜く。

 黒と白。

 飲まれそうな暗黒と、どこまでも清い白亜が陽光に翳される。


「――死じゃ」

「あん? なんだって?」


「死がお主の頭上に輝いておる。全てを儂に委ねるのじゃ」

「こいつ変なモンでも食ったんか。失せな、狂人。てめえの相手してる暇はねえんだよ」


 本能的に張飛は、この男と戦ってはならないと感じている。

 故に視線は切れない。目で追っていないと、次の瞬間には首が落ちていそうだから。緊張感は周囲にも伝播したのか、兵士たちの生唾を飲み込む音まで鮮明に聞こえてくる。


「我が名は郭、名を図。字を公則と申す。袁家に仇なす相手に厄災を運ぶ使徒なり」

「なーにが厄災だ馬鹿野郎。どうせだったら、白菜でも売ってやがれってんだ!」


 張飛は覚悟を決めて蛇矛を頭上で旋回させた。

「燕人張飛の武、厄災に合わせられるってんなら、やってみやがれってんだ!」

 大喝が木霊した。

 正史を知る者であれば、長坂波での戦いで披露された威風の一つである。


「ミソぶちまけやがれ、この野郎っ!!」


 雷光のような一閃が郭図へ、垂直に落ちる。

 瞬きすら許さない刹那の破撃は、相手の生命を維持させることを許さない。

 そのはずだった。


――つぃ。


 蛇矛が止まる。

 羽毛の様に柔らかく、そして抱擁のように暖かく。

 

 郭図と名乗った男は、指で蛇矛を摘まんでいた。

 先ほどまで抜いていた剣は既に納刀されており、無手での行為である。


「どうした? うむ、これ以上は動かんのか?」

「て、てめぇっ……洒落にならねえ真似しやがって……」

「他にも芸があるならば見せてみよ。この郭公則、遊びに飢えていてな」


 青筋が額に走り、盛り上がった筋肉が締まる。

 張飛は激昂のままに郭図を蹴り上げるが、その姿は月影のように消えた。

 即座に郭図を追い、上下左右と得物で叩きのめす。相手が巨大な岩であっても、張飛の瀑布のような攻撃の前では、砂粒にまで分解されてしまいそうだった。


「はぁ、はぁ、どうだ、こん畜生め」

 砂煙の粒子をすり抜けるように、郭図が這い寄ってくる。息を整える暇もなく、張飛は後ろに飛ぼうとして――


「不味そうな首じゃの」

「うおおおおおおっ!!!」


 まるで鋏のように己の首を裁断しようとする双剣を、寸での距離で躱す。

 首筋には赤い線が二本走っており、命の危機が噴出していたことを示していた。

 

「なんて野郎だ。俺様を、ガキ扱いだとぅ」

「今夜は冷えるのぅ……血煙はさぞ温いじゃろうて」

「まだ夏だっつの。お前、マトモなのかイカれてるのか、はっきりしやがれってんだよ」


 郭図はうむ、と重々しく頷いたあと、そっと身を揺らす。

「殿をお待たせするは臣としてあるまじき暴挙成。故に巨漢の輩よ、疾く朽ちるがいい」

「張飛だ。名乗っただろ」

「うむ」


 揺れは大きくなり、その姿は残像として二重・三重へと増えていく。

 やがて張飛を取り囲むように円の軌道を描き、徐々に輪を狭めるのだった。


「くそがっ、死にやがれバケモンめ!」

 蛇矛は無双の槍なれど、その牙が届かぬ相手には苦しい思いをせざるを得ない。

 常人であれば視認することすら不可能な刺突が、生存領域を削り取っていく。空間を薙ぎ払い、時を誤認させるほどの乱舞。

 だが悉く空を切る。


「手仕舞いにしようぞ」

 郭図の手には陽剣・干将、陰剣・莫邪が握られている。

 後先を考えない、仙人掌のような打突の隙間をかいくぐり、そっと横腹に剣が突き立てられた。


「ぬぐっ、ぐううぅう」


 張飛は自らの損傷を瞬時に理解し、転がるように距離を取った。

「急所は……逸れたか。クソ、世の中広いぜ、ったくよう」

「ふむ、一応血は赤いようじゃな」

「そりゃ赤いに決まってんだろ」


 矛を当てられない。拳や蹴りも掠らない。ついでに話も噛み合わない。

 郭図と名乗った男は、文官のなりをした猛獣の類であり、呂布をも凌駕する武の持ち主であると認識するに至った。


「俺様としたことが、ツイてねぇぜ……」

「覚悟は出来たようじゃな。それではこれで別れになろう」


 迅速なる武断が張飛の首に迫り――


「ぶえっくしょい!」


 急に空気がガバガバになった。


「ん、ふおっ!? き、貴様は誰じゃ!」

「最後までボケんなよ、おっさん。てめぇの勝ちだ、ほら、殺れよ」

「え、え、儂? むむむ、確か殿に呼ばれて天幕へ……駄目だ、思い出せぬ」


 急に怯え始め、狼狽している男に、張飛はどのように反応して良いものかと眉を顰める。逃げようとすれば、先ほどの流水のような斬撃が訪れるだろう。しかし現在、明らかに隙だらけの中年がいる。


(クソ、読めねぇ。これは俺の油断を誘ってるのか? いや、勝負は既についてたしな……今は殺気すらねぇぞ)


「うむ、よし。左様であるか」

「何も言ってねえぞ」


「お主、儂と共に参れ。この戦、既に勝敗は見えておる。しかして、お主は何か執念のようなものに取りつかれていると見た。その憂いを払って進ぜよう」

「執念……だと。てめぇに何が分かるってんだよ! この乱世を見て俺たちは……!」

「ほれ、それじゃ。その凝り固まった考えこそが、案外主の足を引っ張っているかもしれんぞよ。この勝負、儂の勝ちじゃろう? 敗者は大人しく言うことを聞くがいい」


「チッ……わーったよ」


 張飛は蛇矛を投げ捨て、どっかりと大地に座り込む。

「好きにしやがれ。一度は死んだ身だ、言うことの一つや二つ、何でも聞いてやろうじゃねえか」

「ほっほっほ、そうしなされ。では帰陣しようぞ。殿への良き土産が出来たわい」


 虎とも評される張飛に、あえて縛を使わず。

 ゆるりとした足取りで、郭図は袁煕の陣営へと歩いていくのであった。


「変わった……野郎だぜ……」

 張飛の眉間のシワは、いつの間にか取り去られていたのだった。



――郭図

(あんぎゃああああああああああああああああああああああああああっ!!!)


 無理、無理ぞ。

 なんで臣めが、こんなケダモノと同じ戦場に立っておるんじゃわい!

 く、記憶が全くないぞよ。

 燕人張飛とか抜かしておったが、こやつ、本物の戦闘狂って噂じゃし……。

 余計なことを言うと、人に見せられない姿にまで折りたたまれそうじゃ。


「てめぇの勝ちだ」


 ほわっ!?

 臣の勝利とな?


 ふむ、なるほど、そういうことか……。

 臣は答えを得た。

 この乱世、時には賢者のひらめきが局面を征することもあろう。


【臣は忘我の境地のうちに、この頭脳をもって敵を成敗した】


 この状況こそが真実。

 臣に都合のいい解釈こそが真理。


 であればこの猛獣を、殿の配下にするべく引っ立てるのはどうじゃろうか。

 何があったか不明じゃが、相手は萎縮している模様。

 

「お主、儂と共に参れ」


 ククク、これは大金星になりそうな予感ですぞ。

 劉備三兄弟の一角を崩したとあれば、殿からどれほどの褒美を頂戴できるか。

 考えるだけで涎が止まりませんなぁ。


 しかし、忠義は篤いと聞いておる。果たして我が陣営に唯々諾々と従うモノだろうか。まあ、駄目であれば同僚になすりつけてしまおう。

 臣は酒杯より重いものは持たぬ主義なのでな。

 

 この張飛という男、『きっと殿に逆らって、斬られるに違いない』

『劉備から離反することなど、決してないだろう』し、『まさか上党攻めで手引きをする』はずもなかろう。


 ならば使い捨ての褒賞袋として活用するのがよかろう。

 がっはっは、この郭公則、殿の酒蔵に眠る秘蔵のブツを所望しますぞ!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る