第108話 屋台骨は引っこ抜くもの
――袁煕
討伐軍は総勢六万。
鄴にはそれ以上の兵士がいるが、邯鄲失陥の報に接し、残しておくしか方法が無かったのが台所事情である。
一騎当千、万夫不当のフリークス共の相手をするには、ちょいと首元が涼しい数ではあるが、仕方がない。
対する劉備軍は兵数と呼べるものは二万程度だという。
普通なら余裕な気持ちも生まれてきそうなんだが、そうもいかないね。
「殿、出撃準備、整いましてございます」
「よし、それじゃあ行こうか。ここから上党城まで一気に駆ける。小さな関は全て破壊せよ」
「はっ!」
すっかり相方が板についてきた許攸が、全て承知と言わんばかりに傅く。
史実では裏切者の代名詞だったのだが、今世では有能な知将だ。
郭図は無駄に位が上がったので、余計な嘴を突っ込んでくる機会が減った。だが肝心要のところでは彼の意見を聞くことにしている。
なんせ地雷探知機として世界の誇れる人材だしな。
「先鋒は趙雲・張遼・呂玲綺に任せる。中軍に俺と張郃で支えよう。先の戦いで武功のあった顔良・文醜は遊軍として待機。魏延は後ろに備えよ」
「殿のご命令通り、陣形は整っております」
ここから先は修羅道に入る時だ。
速度によって、敵の態勢が整う前に、一気に勝負を決める。
「全軍、出撃!」
――史渙
麋竺の暗殺は成功したとの知らせが、史渙の耳に届いた。
彼の遺書には収賄と横領の罪状告白が書いてあり、その責を感じて自害したとしたためてある。
史渙は麋竺の死を知った上党の将たちが、蜂の巣を突いたように慌てふためく様を覗いていた。
「うーん、やはりこの身は影が落ち着く。天井裏の何と心地よいことか」
史渙の眼下では、劉備が盃を投げつけて怒り狂っている。
関羽と張飛はそれぞれ剣を抜き、今にも斬りかかりそうだ。
さもありなん。
横領の罪は『麋兄弟』で行ったこと、と書かれているからだ。
信頼していた麋竺の裏切りと死が、劉備一党から冷静さを奪っていく。残された麋芳といえば、急に呼び出されて状況を掴めず、あたふたしているのみ。
「麋芳、貴様よくもおめおめと生きてここに参ったな」
「お、お待ちください玄徳様。一体何が起こっているのでしょうか。某は今まで兵糧の確認をしておりましたので……」
「おうおうおう、兵糧庫でくすねる糧秣を値踏みしてたってことか。まったくふてぇ野郎だぜ」
「潔く罪を白状せよ。それが先に逝った麋竺への弔いでもある」
張飛と関羽からも鬼の形相で詰められる。しかし一つ聞き逃すことが出来ない内容があった。
「逝った……兄とは……? まさか、玄徳公、兄は……」
「子仲は己の横領罪を恥じ、毒酒をあおって自害した。まさか貴様、兄に全ての罪をなすりつけるわけではあるまいな?」
「そんな……馬鹿な……」
麋竺は内政官として有能であるだけではない。実はもう一つ簡雍と似たような能力を持っていた。
それは弁舌の巧みさである。
劉備を不快に、あるいは疑問を抱かせないような、軽妙な受け答えを得意としていたのである。
逆に弟の麋芳は残念な子であった。
軍才なく、政務の実力もない。武では霞み、馬も下手だ。
財布の中身がいつも重いということを抜きにすれば、なぜ重用されているのか不思議なほどの凡人である。
そして麋芳には致命的な弱点があった。
それは喋る内容が劉備の勘に障るということだ。
「兄はチンケな物資など盗みませぬ!」
劉備が眉根を寄せる。
「チンケで悪かったのぅ、麋芳。これでも兵士と民を養う大切な物資なのだがなぁ」
「い、いえ、そういう意味で申したのでは……」
「やい麋芳。てめぇ正直に言いやがれ。盗んだ物資はどんぐれぇで、誰に売りやがったんだ!」
「お待ちください、某は粗末な物資を丁寧に数えていただけです。どうしてこんなものを売れましょうか」
張飛の額に青筋が浮かぶ。
「野郎……そんなに死にてえとは思わなかったぜ」
「ご、誤解でございます!」
「麋芳よ、お主の兄が遺書で兄弟の関与を示しておるのだ。これから兄者の大望を遂げるための大事な策がある。張燕と結ぶ前に、身辺整理をしたかったのだろうよ」
「ば、馬鹿なっ! これは濡れ衣だ! 兄も某も、何一つやましいところはございませぬ! 髭を失った雲長殿にはわかりますまい!」
関羽の目に炎が灯る。
「面白い発想だ、麋芳。最後の言葉はそれでよいのだな?」
「某は無罪です。どうか徹底的に調べてください。何の証拠も出てきませんぞ!」
各自怒りゲージが破裂寸前であったが、なんの確証も無しに断罪は出来ぬと、一時麋芳を牢へと監禁することにした。
文官たちが精査すると、僅かではあるが、物資が減少していたのである。
これをもって劉備は麋芳の処刑を決め、日取りは翌々日と相成った。
史渙はそんな麋芳に手を差し伸べたのである。
「間違いだ。こんなのは間違いだ……」
壁に頭を打ち付ける麋芳の声は弱々しい。
結論から言うと、横領は存在した。しかしそれは麋兄弟の手によってなされたものではなく、正体不明の何者かによって奪取されていたのだ。
麋芳が自ら物資を調査していたのは、犯人に対する牽制と、犯行予防であったのである。
「おのれ……これほどに忠を尽くしたというのに……兄上、おいたわしや」
涙が溢れ、声に雑音が混じる。
そんな麋芳に蜘蛛の糸が一本垂らされた。
「麋子方殿でいらっしゃいますかな」
「なななな、何奴! どこだ、姿を見せよ!」
まるで軟体生物のように、ぬるりと屋根裏から人が這い出てきた。
「ひぃっ、ば、化け物……ん?」
「落ち着いてくだされ。劉備玄徳に聞かれますぞ。牢で騒いだとあれば、刑の執行が早まってしまいます」
「……(わかった)」
急いで塞いだ麋芳の口から、そっと手を放す。史渙はゆっくりとあたりを伺い、人気の無いことを確認した後、彼に告げた。
「この身は袁顕奕様に仕える者で、史渙と申す。時間が惜しいので単刀直入にお誘いしましょう。劉備軍を捨て、袁家へ参りませぬか?」
「な、馬鹿な!」
「しーっ、お静かに。返答は是か否かでお願いします。このままでは明後日には首が晒され、末代まで悪名が鳴り響きましょう。麋家の名誉を回復するには、この方法しかないと存じますが」
「是だ」
「大変結構です。それでは早速脱出いたしましょう。屋根裏に人が通れる程度の道は作ってあります故」
麋芳の目には怒りと復讐の涙が宿っていた。
凡才ながらも、王道を支えんと欲し、仕事に忠実であった。
恐らく絵面を描いたのは袁家だろう。
兄は謀殺され、その死を離間の計に使われた。その恨みは深い。
しかし、それ以上に麋芳は悔しかった。
「某は、信に値しない男であったか……もはや、どこに鞍替えするも同じだな」
「そう卑下なさいますな。存分に活躍する場所をご提供すると、殿が仰ってましたので」
「そうか……」
これでいい、と史渙はほくそ笑む。
妙にやる気を出されても困るし、忠義一徹の頑固者であっても厄介だ。
腑抜けているまま、重要な情報を喋ってくれる便利な存在であってくれればいい。
「城外に馬を伏せてあります。じき上党は戦火に包まれましょう。手の者と一緒に脱出してくだされ」
「史渙殿は如何なさるおつもりか。任務は果たされたのでは?」
「――麋竺殿の遺品を取ってまいります。ご兄弟の縁は大事でしょうから」
「……かたじけない」
お早く、と声をかけ、史渙は次なる任務を果たしに行く。
「隠密に身を投じたとはいえ、情につけこんでいくのは心労がたたるなぁ。だが、これも袁顕奕様のため、挫けているわけにはいかん」
麋兄弟の信を奪え。
与えられた任務の一つは達成した。
逢紀の策は『信頼している者をこそ、裏切者に仕立てる』というものだ。
明日が見えぬ籠城戦になった場合、周囲が団結していては、攻め手の犠牲が増える。故に相手の結束を崩すことから始める寸法だった。
「次は……周倉・裴元紹か。恨みはないが、殿のために泥水を啜っていただこう」
陰の極みが発動し、史渙の姿は常人には認識されなくなる。
剛柔両面において、袁煕の軍団による攻勢が火蓋を切るのであった。
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