第106話 陰の極み
――簡雍
「実に間抜けな一党よな。おっと、そろそろ上党、我が都が見えて来るぞい」
「左様でございますな。玄徳公の大徳の前では、袁家の者など霞も同然」
側近と楽し気に会話を刻んでいると、簡雍の幼馴染であり、親友、
そして君主である劉備が城門から現れたのだった。
「やあ、玄ちゃん。今戻ったぞぅ」
「うむ、憲和殿――いや憲ちゃん、無事で何よりだ」
「留守中は平和であったかい? またぞろ翼徳が酒乱でも発症してなければいいんだが」
「よいのだよいのだ。万事恙なく進んでいる。多少の騒ぎは涼風と同義だ」
含み笑いをしつつ、馬先を揃えて二人は本陣である城郭へと進む。
兵士に馬を預け、談笑しつつ。その足取りは自信に満ち溢れていた。
「おお、兄者、憲和、戻られたか」
「うむ、雲長、守備ご苦労だ。いつも助かるぞ」
「何、兄者の至宝たるこの上党、関雲長の目が黒いうちは、決して侵させはしませぬ」
さて、と、劉備は君主の御座所に着くと、なし崩しに軍議を始めた。
夜盗同然の身であった経験から、貴人の作法が身についていない。
風通しの良い軍隊であり、上意下達にならないのが劉備軍の強みでもある。しかして、間者の存在は関羽や張飛の武勇頼みの排除法であり、注意深く人を遠ざけることはない。
「では、先ずは憲和の戦果を労おう。その後に、北の張燕との同盟について話そうか――」
「御意」
――??
なん……だと。
まさか既に両勢力が手を組んでいたとは。この事実、一刻も早く知らせねば、邯鄲から鄴へと敵が雪崩れ込んでくるに違いない。
守備を劉備が。攻勢を張燕が担うことになれば、負けぬとはしても被害甚大。その期を南の曹操が見逃すとも思えない。
そう、かつての我が主君ならば、必ずや動く。
もしかしたら既に動いているのやも……。
「曲者っ! 出てきやがれっ!」
雷鳴のような怒号が響き、直後に人が倒れ伏す音が聞こえる。
どうやら潜んでいた仲間が一人見つかり、張飛に斬り倒されたようだ。
身元が分かるような物品は所持していないはず。更に小汚い盗賊風の装いをしている。運がよければ張燕の手の者と誤認されるかもしれない。
「兄者、こいつは……」
「うむ、間違いない」
心臓が激しく脈動する。
頼む、気づくな……!
「このような稚拙な行いは、名乗らずとも見え見えですぞ、兄者」
「雲長の言う通りだ。こいつらは『えん』」
くそ、ここまでか……。
せっかく拾ってもらった恩義を返せぬとは、不忠の至り。
ここに至れば、せめて手傷だけでも!
「遠方より紛れ込み、疲労で気配を殺しきれなかった。つまり張燕の手の者でしょうな、兄者」
「うむ。身なりの粗野なこと。そして何より、城郭での動きを理解していないこと。つまり正体は夜盗上がりというわけだな。よいよい」
「張燕の野郎、折角兄者が手を差し伸べているのに。仇で返しやがって」
た、助かった……。
貧民上がりの者を選りすぐって送り込んだことが吉と出た。
なるべく袁家の匂いを消したのが奏功したか。危ないところだったな。
「しかし憲ちゃん、やけに運搬が早かったようだな。険路続く上党への道を、死人を出さずに達成するとは見事という他にない」
「いやはや、褒めてくれるのは嬉しいんだけどね。袁家の人たちもほれ、おつむが弱いんだろうな。熟練した人夫を貸してくれたんだよ。おかげで楽なもんだったさ」
「ほほぅ……熟練した、とな?」
まずい。
運搬者を一人ひとり調べられれば、やがて間諜の存在に気づく。
ええい、次から次へと荒探しをしおってからに。
「人夫の代表に後で会おうか。ちといくつか質問をしてだな」
「ほう、何か気になることでも」
胃が痛い。今度こそダメか?
「なに、金一封を与え、我が陣営に入らぬかと勧誘をしてみたい。機動力のある人材はこれから先も必要になってくるだろう」
「玄ちゃんの誘いを断る奴はいないだろうね。そういうことなら、いっそ一席用意しようかね。よかったな翼徳、酒が飲めるぞ」
がっはっは、と笑う一行。
もう殺意しかわかない。
頑張れ、この身。全ては命を助けてくださった袁顕奕様のために。
何度も身の竦むような思いをしながらも、致命的な言質は出てこない。
どうやら我らの急所は無事に逸れたようだ。
「よし、ではそろそろ動くか。まずは上党の物資保管庫、および兵糧庫を調べねば」
袁家随一の陰キャにして、元曹操軍武将の男。
名前は史渙、字を公劉という。
第一次官渡の戦いにて、于禁の部隊で勇を奮ったが、あえなく返り討ちに会う。
そして部隊全滅の憂き目に接するが、気絶していた史渙だけが生き残った。
その後曹操軍本隊に合流しようと歩き続けたのだが、誰にも気づかれずに行き倒れにあっていた。
同じ陰の属性を持つ袁煕に発見され、厚く遇されたことを恩義に感じ、そのステルス性能を駆使して隠密の任務を受け持つことになったのである。
「史渙様、細作の生き残り、集合いたしました」
「任務大儀だ。流石は逢紀殿の暗殺部隊、生存率が違うな」
「それが生業なれば……して、今後の行動は如何に?」
「三点重要な任務がある」
史渙に授けられた策は次の通りである。
①敵性勢力の分析、並びに物資焼却の段取りをつけておくこと。
②劉備軍の頭脳たる、麋竺・簡雍の暗殺。
③麋芳に対し、調略を進めること。
「――暗殺は我らの手管なれば、文官相手には容易でしょう。しかし、麋芳は敵の譜代の臣。寝返ることはありえぬのではないでしょうか」
「うむ、それはこの身も思っているところだ。しかし顕奕様は必ず寝返ると確信されているようであった。恐らく我らには知らされていない、重要な情報を手に入れているのやもしれぬ」
「左様ですな……では、手勢を分散させて事に当たります。現状把握と暗殺はお任せくださいませ」
「よろしい。それではこの身が麋芳と相対しよう」
史渙が背を向けると、寄り従っていた影がすっと消える。
そして史渙自身も闇夜に溶け込むように、その陰キャぶりを発揮するのであった。
――麋竺
妙な寝汗をかき、麋竺は寝台から起き上がる。傍らの机に置いてある水差しから一杯注ぎ、一気にあおった。
寝苦しいわけではないが、空気に濃密な不穏の塊を感じていた。
「ううむ、まるで合戦前夜のような夜だわい。親父殿の倉庫を襲撃し、弟と共に全財産を奪取してきた日に似ておる」
親の財を全て劉備にお布施し、天下の親不孝者として郷里では有名な兄弟だ。
故郷に錦を飾るには、何としても劉備が天を掴んでくれなくては困る。
「これ、誰かおらぬか。少々酒を持ってまいれ」
「はい、承知致しました。少々お待ちくださいませ」
「少しでよいぞ。まったく、ウワバミどもの相手で臓腑が参っているからの。ふふ、それでも飲みたがるのは、彼奴等のクセが移ってしまったのやもな……」
苦笑した麋竺は起き上がると、すだれのかかっている窓に近寄り、そっと持ち上げて夜の月を眺める。
思えば遠くまで来たものだ、と感慨深く思えども、走ることを止めるわけにはいかない。
身が燃え尽きるまで、人徳の世を創り上げる大業に従事せねばならないのだ。
「旦那様、お持ちいたしました」
「うむ、そこな机に置いておいてくれ。月見酒を楽しむ故な」
「かしこまりました、ごゆるりと」
酒杯を片手に、月に見守られて酒を。
途端、焼けるような痛みが麋竺を覆った。
「ぐあっ、がほっ、ぐぼぁっ……っ!」
やられた。まさか毒酒とは……。
麋竺とていっぱしの将星である。指を喉に突っ込んで吐き戻し、懐に忍ばせていた解毒の粉を口に含む。
「ぐぅ、頼む、効いてくれ……」
朦朧とする意識の中、誰かが駆け寄って来た。
「これは、ご、ご主人様。お気を確かに!」
「ぐ……げ、玄徳公に……注意を……呼びかけ……」
「ご主人様、しっかりなさいませ。まずは御身の回復を」
解毒の粉を何度も噛み、嚥下する。
意識が若干明確になるも、荒々しい息は収まる気配がない。
「よ、よいか……曲者が、紛れておる。諸将に警戒を……」
「承知いたしました。ご主人様、水でございます。どうぞお体をお休めくださいますよう」
「うむ……ぐ、ごはっ! うぐあっ!!」
大輪の花を咲かせるがごとく、麋竺は大きく吐血し、やがてゆっくりとその中心に倒れ込む。
「解毒剤を全て出しきらせて、その後第二の毒で仕留める。予定通りだ」
従僕に扮した逢紀配下の者は、執務用の机に偽造した遺書を置き、そっと姿を消した。次の狙いである簡雍のもとへと向かったのである。
真実は夜空に輝く月のみが知りうるのみ。
謀略の夜は始まったばかりだ。
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