第102話 針の筵、バーゲンセール
――袁煕
膝が笑ってる。
それは初陣の時にも感じたものだが、今は別格の重力を受けているから。
甄姫と呂玲綺が鉢合わせした。
賢明なる儒者たちには理解出来るだろうが、デーモンコアを「あっ」って言った瞬間にくっつけちゃった感満載なのよな。
チェレンコフ光が周囲を焼く。この場合はシベリアもかくやと言わんばかりの冷気なのだがね。
少し時間はさかのぼる。
「奥方様、ご入場でございます」
文官の宣言に従い、重厚な扉が開く。一斉に傅く諸氏を横目に、音もたてずに蘭は楚々と歩み来るのだった。
雲雀と梅の枝をモチーフとして描かれた木製の飾り屏風を目に、くすりと満足げに口元をほころばせている。
涙黒子が今日も麗しい、麗しいのだが。
「は?」
常夏のパラダイス気候が一気に反転した。
蘭が凝視しているのは、完全武装して俺の横に侍る呂玲綺ちゃんだ。
呂玲綺は心なしか俺のパーソナルスペースを侵略するように、ぐいっと接近してみたりと挑発行為を試みている。
「殿」
「ハイ」
「今、蘭めの脳裏には、百億の言の葉が浮かんでおります。しかし、どのように用いてよいのかわかりません。出来ますれば殿のお口より、蘭の心が静まるようご説明を頂きたいのですが」
「う、うむ。実は……だな」
「ふっ、年増はもう物忘れが始まったか。これでは立派な世継ぎを育てることなど夢のまた夢。その点我はまだ十分な資質を持っていると自負するが、いかがか」
いかがか、じゃねーよ。
なんでこの時代の人々は、敵対関係の人を遠慮なくブチのめそうとするんですかね。これじゃあ親切設計ならぬ、心折設計だよ。
「ふ、ふふふふふ。面白いことをほざく小娘ですこと。そこの下女、名を名乗りなさいな。人品卑しさを醸し出す言動、この誉ある袁家には不要ですわ」
「目で見よ、音に聞け。我が名は呂玲綺。天下の飛将軍・呂布奉先の一の姫なり」
「あら、あの粗暴な……。ふぅ、合点が行きましたわ。道理で傍若無人な振る舞いが目立つというもの。正妻として殿のお側に、斯様な災いの種を植えるわけにはまいりませんわね」
「言毒を用いても無駄だ。我が意志を砕きたくば矛を執れ。飛将軍の娘がどのような武を持つか、その身に刻んで進ぜよう」
「下品な発想ですわね。殿の御前で武装し、あまつさえ正妻たるわたくしに武器を向けるとは。その罪、死罪をもってしても贖えないと知りなさい」
こういうときね、男に発言権ねーんだわ。
やることは一つ。致命的な決裂が起きる前に割り込んで、双方から寄ってたかって責められることだ。そして俺が悪かったと謝罪し、機嫌を取るのが賢明か……。
「殿」
「我が君」
御鉢が飛んできた。
まあレールガン並みの剛速球なんだがね。
「蘭と息子をお捨てになられるのでしょうか。そこまでの落ち度がありましょうや。ご返答は如何に」
「側室として正妻殿との調和を望まれたが、ものには限度がある。我が君はもっと躾を成さるべきだ」
方や群臣を味方につけ、世継ぎを設けた堂々たる正妻にして、名門の蘭。
方や亡き呂布の残党を率い、血の結束をもって集った呂玲綺軍団。
どっちを取っても鄴都ボルケーノになることは必定だ。
くそ、やるか……。
俺には器用な優男の真似は出来ない。可能なことは一つ、至誠を尽くして双方に語り掛けることだけだ。
しかし、家臣団が揃う前で痴話喧嘩を繰り広げるのは体裁が作れないね。
戦争は有利な土地に誘い込み、そして各個撃破することで勝率は上がるもの。ならば個別説得によって強引にでも納得してもらうしかない。
「この儀は一時、この袁顕奕が預かる。まずは蘭、私の執務室まで来て欲しい。夫婦水入らずで語らおう」
「……承知いたしましたわ」
見たぞ。
今毒蛇の壺を用意するように、従者の明兎にアイコンタクト送ったな。
「蘭との協議が終わり次第、呂玲綺殿と膝を突き合わせて語ろうと思う。互いにすれ違いがあると袁家は不和で包まれる故にな」
「それが我が君の意向であるならば」
見たぞ。
今張遼に『隙あらば、分かるな?』的なアイコンタクトを送ったな。
人の命が軽すぎるこの時代において、もっとも死に近づいてるのが俺の御座所だった。多分戦場よりもあぶねーんじゃないかな。
――
執務室に戻った俺は、形式的に纏っていた鎧を脱ぎ、肉桂の香を焚いて妻の到来を待った。
よくよく考えれば、蘭には随分寂しい思いをさせてしまったに違いない。
乱世の定めとはいえ、転戦につぐ転戦だった。夫婦の時間なんてスズメの涙ほどしか無かったように思える。
「殿、蘭でございます」
「うん、待ってたよ」
バチクソ毒蛇の壺持ってるが、今のところ表情は柔和だ。
なんだか婚礼の時を思い出してしまうね。
「蘭、かけてくれ。そして顔を見せてくれ」
「殿……この怒り皺が刻まれたかんばせは、お見せ出来ませぬ」
「どの感情を抱いていても、蘭は愛しい俺の蘭だ。それはこれからも変わらない」
「殿……ああ、殿……」
気が付けば俺は蘭を強く抱きしめていた。
鼻孔をくすぐるのは、優しい梅の匂い。蘭はきっと俺に知られぬよう、そして礼を失することがないよう、数えきれないほどの準備をしてきてくれたのだろう。
それがたまらなく嬉しかった。
やや長い口づけが終わり、俺は蘭の手をしっかりと握る。
「綾は息災か? あまり叱ってやるでないぞ」
「まあ殿、蘭はそこまで鬼婆ではございませぬよ」
「ははは、出会った頃を思い出してな。つい軽口が出てしまった」
肩を寄せ、互いの温もりを確かめる。
帰って来た。
俺は心の中で造られていた、棘付きの鉄球のようなストレスが溶けていくのを感じている。
「何の相談もせず、蘭には申し訳ないと思っている」
「怒って見せるのも正室の義務ですわ。想像以上にお若い娘でしたが、奥のしきたりがわかれば良き側室となりましょう」
「許してくれるのか」
「河北の頭領たる袁家のご嫡男。その傍らに室が無いのは却って不自然と言うものでございますわ。であれば、有用な人材で固めるのが吉であるかと」
そっと菓子を摘まむように、蘭は呂玲綺の側室入りを認めた。
女性の機微は未だに俺にはわからんが、どうも上下関係が存在するということを、呂玲綺に理解させたかったらしい。
「今後の教育に骨が折れそうですわ」
ちりん、と鈴の音のような声で、俺の耳をそよぐ。
窓の外からは鳥のチチチという朗らかな声も重なっていて。
「気苦労をかけて、本当にごめん」
「言い訳や御託を並べないだけ、殿は誠実な人でございますわ。女人に素直に頭を下げられるなど、とてもではないですが、群臣には見せられませんわね」
「それを言われると辛いなぁ」
またそっと口をふさがれる。
「殿――」
「蘭、俺は、俺は……」
「蘭を滅茶苦茶にしてくださいませ。この身は殿の、殿だけのものであると、蘭に刻んでくださいませ」
「任せてくれ。蘭の一生は俺が護って見せる」
微かに耳に銅鑼の音が聞こえた気がした。
後々に確認したところによると、甄姫のステータスが若干変わっていたのである。
――
親愛武将:袁煕すきぴ&ちゅきちゅき
眩暈がしそうなワードだったが、俺は一つの大発見をして安堵の息をついた覚えがある。
親愛武将から、曹丕の名前が消えていた。
これは……まさか……。
NTRという悪しき文化が一つ消滅したのだろうか。
全中華が泣いた、というキャッチコピーを付けたくなる大成果だ。まさか、修羅場を乗り越えたご褒美に、こんな果実が待っているとは。
横で静かに眠る蘭の頭をそっと撫で、俺は衣冠を正して別室に移動する。
そこには既に殺気を通り越して、亜空の瘴気を振りまいている呂玲綺が待っていた。
一つ言葉を間違えれば、即暴れそうなこのお嬢さんを、どういなそうか。
鼻をヒクヒクさせ、歯噛みしているれーちゃんと、目玉ガン開きの張遼。
『出来ないって言うのはね、嘘つきの言葉なんですよ』
漆黒の文字列が俺の頭に浮かんでくる。信じるぞ、その名言。
「さて……我が君。随分と時間がかかったようだが」
「言葉だけでは表現できないこともあるからね」
行くぞ。
ラウンド2、ファイッ!
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