第100話 邯鄲の夢 甄姫の夢
――龐統
乱世において、善良なる為政者は、必ずしも生き残れるわけではない。
結果として自らが愛する民に、多大なる負担を強いる可能性すらある。
「複数とはいえ、坑道策で旧都が落ちるとはな。袁家の力を過信していたか」
「なぁに黄昏てるんだよ、士元。ほら、お前も飲め飲め!」
「これからの方針を固めるのに忙しい……いや、まあそうだな。飲もうか」
「っしゃ、そうこなくちゃな。おーし兄弟共! 士元を邯鄲の夢に沈めるぞ!」
大喝采の中、張燕と共に盃を交わす。
作戦行動中において、首脳部が酔いつぶれるなどあってはならないことだろう。
だが今宵くらいはいい。そうだろう、孔明。
龐統士元は机を並べて学んだ、生真面目な友の名を紡ぐ。
彼ならばきっと、執務室に籠って延々と仕事に没頭してるに違いないからだ。
「……こういう生き方もあるのだな」
「なぁにいってんだぁ、士元よぅ。俺はまらまらよってないぞぅ」
「そうだな。おい、誰かお頭を寝台に放りこんでこい。俺は他にも仕事が残ってる」
「へい。ほら、お頭、こっちですぜ」
賊軍三人がかりで張燕を運んでいく。
水ガメと木の桶を用意し、これから起きるであろう大惨状に備えていた。
龐統は彼らを見送ると、そっと席を離れる。未だに邯鄲城を守備し、四方の門を守っている戎狄軍に物資を運ぶ予定であった。
「我らが友軍には礼を尽くして接するように……と言っても、無理があるか」
「そうですぜ士元先生。俺らなんせ、バカだけが取り柄ですからね」
「そうか。まあ、俺が喋ってる横で変なことを言うなよ。戎狄とは事を構えたくはなかろう?」
微かに震える賊軍を尻目に、龐統は糧秣や補給品を積載した荷馬車を四方へ送る。
龐統自身と言えば、邯鄲城に入らず、警戒を怠っていない戎狄の長のもとへ向かうのであった。
ここでの労いと方便、そして同盟関係の締結こそが黒山賊の命運を握る。
「この不細工な俺が特使とはな。世も末とはこのことを言うんだろうよ」
一人ごちて、龐統は馬を走らせる。破壊活動が行われただろう、邯鄲の外郭部分を出て、焦げ臭い空気を振り払う。
「どこまで信じていいのやらわからんが、あまり住民を襲撃してはいない。調練と訓戒を課したためか、それとも俺の目が届かないところでは……か」
結論は後者だ。
賊徒と異民族が、煌びやかな城塞都市を目の前にして略奪をしないわけがない。
龐統は自分が『見聞き』したものや『報告』されたものは適切に対処した。だが、それ以上でも以下でもないのが事実である。
筵がかけられた死体の前で泣く幼子を見て、龐統は折れそうになるほど奥歯を噛み締めた。
「戦に犠牲はつきもの。そうだろう、士元。水鏡先生の塾から逃げたあの日、こうなることを予測していたじゃないか」
自分は乱世を広げているだけではないか。そう、一つの疑念が生まれた。
龐統は卓越した知恵者であり、優れた戦術指揮官でもある。しかし心はまだ若者のそれであった。
これは違う。何かが違う。
自分が求めていた光景は、こんなはずではなかった、と。
諸手を挙げて喜ぶの戎狄兵を見ても、龐統の心は鉛を飲みこんだように重かった。
――袁煕
「撤退だ」
「と、殿、今何と?」
「この戦場を畳む。白馬と延津に守りをつけ、御父上の本隊と合流。そのうえで全軍で鄴に入ろう」
「敵は濮陽を放棄し、陳留にまで戻ったのですぞ。ここが攻め時では……」
許攸の言ってることも分かる。敵の先鋒部隊をことごとく撃破し、非常に優勢な状況であることは承知の上だ。
だが、後方が脅かされている今、敵の蠢動を叩き潰しておかなくてはならないのも事実だ。
「勝ちて引くこそ兵法の極意。西に玄徳、北には張燕。この二者を放置すれば、おのずと結託する未来になろう。ならば余裕がある今こそ撤退なのだ。そうですな、殿?」
兵卒の衣装から、軍師の衣服に着替えた賈詡が冷厳に述べる。
「その通りです。俺たちの予定では河北が一丸となって曹操と対峙し、持久戦にて抵抗するはずだった。なぜなら、曹操は周辺に敵を多く抱えており、短期決戦に持ち込む以外袁家に対して勝利できないんだ」
「むぅ……しかし、余勢を殺してしまうのは、御館様のお怒りを買うやもしれませぬ」
「ははは、そうかもな。大丈夫ですよ許先生、御父上の落雷は、この顕奕にのみ当たるように説得しますよ」
「それでは殿が……ぬぅ」
勝ちて引くよりも、負けて引く方が激烈に難しいんだけどな。
それを難なくやってのけた曹操ってのは、マジでやべー奴だよ。
こいつとガチンコするには、河北ワンダーランドの総力を結集せんといかん。
「鳥巣に向かった将軍たちを早急に帰還させるよう、命令書を届けてほしい」
「は、確かに承りました」
ふーっ。
やることが多すぎる。
日々情勢が変わり、人材が増減し、支配地が消える。
この時代の武将ってのは、本当にタフな精神を持ってたんだな。前世のブラック企業程度なんぞ、まるで相手になってないよ。
人死にが普通の世界で、令和ジャパンの悪しき慣習を説いてもしゃーないが、それでも文句を誰ぞに言わざるを得ない。
俺は近衛に囲まれている帷幕兼寝所に入り、鎧を脱ぐ。
最初はマオに着けてもらわなければ、にっちもさっちもいかなかったのだが、今では手慣れたものだ。
初めてネクタイを結ぶのに、格闘していたころってあるよね。
「蘭、綾、マオに明兎。皆無事であろうか。南皮にはまだ戻れんしな。クソ、なんだよ、寂しいじゃねえかよ……」
たまには一個人に戻って、家族を案じてもいいじゃないか。
だから今は枕を濡らそう。そして明日からはきちんと大将になろう。
多くの将兵を預かる身として、決して選択を後悔してはいけない。
だから、今夜だけは自分のために泣く。
――甄姫
「お、奥方様! 馬車にお戻りくださいませ! あああ、顕奕様に見つかったら、猫は激しくお叱りを受けるのですよ」
マオの痛切な声だが、甄姫――蘭は耳に届いていない振りをして、乗馬を楽しんでいた。蘭と郭嘉が作り上げた公司において、鞍と鐙は大いに人気を博したのである。
河北の各地に支社を立て、軍部の要請に応えようとすべく、今立ち上げ作業にかかっている。
「何もおひいさま自ら鄴に赴かれるのは……危険にすぎますぅぅぅぅ」
忠実な侍女である明兎の抗議も置き去りにして、蘭は凍り付くような河北の荒野を走っていく。
名族の嫡男としては異常なほどの緩さを持っているのが、夫である袁煕の屋敷だ。警備が手抜きされているのかと言えばそうではなく、寧ろどんな罠があるかわからない怖さまである。
蘭は子を産み、乳母と侍女に育児を任せるのだと思っていた。
だが、袁煕は自らの手で抱いて育てたほうが綾も喜ぶだろうと言う。
良家の子女は奥方を取り仕切り、我が子と言えども厳しく接しなければならない。だがその印象は一気に崩壊し、まるで一般家庭であるかのように子と接する時間を持てている。
「不思議なお方……ああ、本当に、悔しい限りですわ。この私がここまで燃え上がるなんて、想像もできなかったというのに」
甄家の私兵が四方をがっちりと守っているものの、不慮の事故は想定しうる事態であろう。故にマオと明兎は生きた心地がしなかった。
主の心の中にある、強い愛情の炎。秘めやかに燃える思いは、ついぞ侍女たちも汲み取ることが出来なかったに違いない。
「御館様に一喝されてしまうかと思ってましたが、言ってみるものですね」
袁紹には当然許可を得ての行動だ。
流石に本家嫡男の嫁が出奔したら、国を揺るがすほどの大問題になるだろう。
「ふふ……住み慣れた鄴の都にて顕奕様を待つ。いない、誰もいないわよね」
周囲を確認し、蘭は心の奥底にあるものを解放した。
「ふったり目、二人目っ! ああ、戦に疲れた夫を迎える健気な妻、それで夜はお互いの愛情を……うふふふふふふ」
寂しい生活を送る中、若干蘭の脳が袁煕に感化されていたのかもしれない。
『袁家では煩悩を解放していいのだ』
新しい規律が蘭の頭脳に刻まれたのだ。
「さんにん目っ、三人目っ! まだまだっ! よっにん目っ! 四人目っ!」
見る人が見れば、そっと子供を隠し、遠ざかっていくであろう、異様な麗人の姿がそこにはあった。
蘭は今、常識を保っていた全ての螺子を外してしまったらしい。
――甄家近衛兵
「おい、どうすんだよあれ」
「見るな、言うな、聞くな。いいか、ここで得た情報を外に漏らせば斬る」
「言っても誰も信じねぇですよ……」
「お嬢様、おいたわしや……」
遠巻きに蘭を守っていた兵士たちは、のちにこう述懐する。
『あの日のおひいさまは、恐らく山の神が乗り移ったのでしょう』
蘭は自由に馬を走らせ、大声で歌い、笛を吹いている。
近衛兵たちは、自分が運搬している『袁煕宛』の秘密兵器の存在を忘れるほど、心理的に追い詰められていた。
この日、鄴に近い村落では噂がたった。
山の神――もののけの姫が現れ、この世のものとは思えぬ歌唱と笛で、人々を誘うと。そして子を成した後は食われてしまうのだと。
黙れ小僧!
そんなものはいるわけないだろう! 後に村は強い統制が図られ、甄家の拠点となって栄えていくのは、まだ先の未来のお話だ。
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