第98話 助けて、尚ちゃんが息してないの!
――袁尚
邯鄲、かつて戦国七国の雄であり、名将李牧を輩出した趙の首都である。
袁尚は兄である袁煕に性癖を魔改造され、穏当で健全な統治に興奮する体質になっていた。
善政を敷く、民が喜ぶ、税が増える、邯鄲が発展する、袁尚がイク。
絶え間ない仁政は無限の快楽を得る永久機関であるかのようだった。
袁尚は以前袁煕が討伐に出た黒山賊の残党――張燕の軍勢と相対している。
敵性勢力を徐々に削り、本拠地である晋陽はじきに手中に収まるはずであった。
だが、優勢であった状況が一気に覆った。
賊徒の動きに一貫性や粘り強さが生まれた。広大な戦場や戦域においては微々たる変化であるのだが、日々統制されていく動きに、袁尚は不信感を抱く。
「なんなんですか、あの動きは。明らかに陽動と伏兵じゃないですか。誰か説明してくれません?」
「ほっほっほ、お嬢様、この逢紀めが見まするに、敵にも知恵者がついたのでしょう。どこの在野の破落戸を雇用したのかわかりませんが、お嬢様の軍にかかれば大した相手ではありませんわぁ」
「そうなんですか。けど、何か引っかかります。こう、何かを待っているような……」
「気のせいでございますよぉ。ウフフフ、ご心配とあらば配下の影を送り込みましょうか。きっとお喜び頂ける結果が得られるかと」
「……そうですね、そうしてください。ああ、こんな有様、お兄様に知られたらきっと、ハァ、顕甫をいじめて……ハァ」
また発作が始まったと、逢紀はそっと主のもとを去り、間諜を滑りこませる手はずを整える。盤上の戦においては田豊・沮授に及ばず、作戦司令官としては審配に届かない。
その彼が重要な参謀役を担っているのは、逢紀が擁する密偵集団によるところが大きかった。
「龍眼、龍賢、いますかぁ?」
「我ら影、常に逢紀様のお側に」
「いかなるご用命でしょうか」
満足げに頷き、唇に引いた紅を小指でなぞって色を付ける。
壁に一文字。
燕、と書かれた字を見て、龍兄弟は主の意図を察した。敵軍の変化は聞き及んでいいるが、隠密たる自分たちにはできうることが限られている。
「寝首はかかなくてもよろしいですわぁ。ただ、どなたが軍を動かしているか調べてくださいねぇ。おほほ、この逢紀、顕甫様に大功を立てていただかなくては出世できませんから」
分かりやすい自己栄達の欲求。女性のように化粧をし、しゃなりしゃなりとあるく逢紀は、袁家のなかでも異様な風体である。
しかし常に機会を逃さず、知力と暴力によって袁尚の参謀にまでのし上がったのだ。
「いいですかぁ。張燕は残しておきなさいね。殿の手で斬首していただくのが最善の武功ですから。ただし参謀役を発見し、危険と断じたらその場で始末なさい。今の軍の流れは良くないのよぉ」
「かしこまりました。我ら兄弟に万事お任せを」
「必ずや殿に最高の結果をお約束しましょう」
「頼みましたわぁ」
おほほと笑い、逢紀は自らの部屋に戻っていく。
彼は身なりにも最大限気遣うが、仕事の手を抜いたことはない。
袁家でも生え抜きの処理能力を持ち、袁尚の事務方を一手にまとめているのだ。
「行きましたか。困ったことになりましたわねぇ……百万賊徒と号しているのも今や昔と侮っていましたが、中々どうして」
黒山賊の実数は確実に減っている。袁尚による攻撃は毎度戦果を挙げ、多くの敵を撃破してきた。だが、妙に敵が頑強に抵抗するようになってきているのである。
「私だったらぁ……防備に徹するときは、そうねぇ……」
つつ、と冷や汗が逢紀の顔をつたう。高い鼻にとまり、そして一滴机に落ちた。
「まずいわよねぇ……これって」
とある確信、あるいは予見を持ち、逢紀は順次書類を処理していく。自らが描く最悪の映像が、主である袁尚に被らないようにと願いながら。
――??
策成れり。
連日繰り広げられる劣勢な戦をいなし、どうにか期日に到達した。
学舎を出て、連日酒浸りの日々。仕官した場所からは悉く嫌悪され、流れに流れて河北にまでやってきた。
生地である襄陽とは趣の異なる様式の生活は、案外彼の身に合っていたらしい。
袁家、公孫氏、そして張燕。
これらの部族、あえて言うと部族たちが跋扈し、覇を競い合っている現状に、彼は大いに失望を禁じえなかった。
そうこうしている間に公孫氏は消滅し、河北の統一は目前と思われる状況になったが、彼は袁家の支配をやすやすと受け入れるのは早計と考えていた。
「南皮を治める、袁紹嫡男は名君の器と聞いていたのだが。取り巻く佞臣が膿塗れだ。それに長姉、次女も凡庸で人の上にたつ才ではなかろうな」
竹簡をまとめながら、彼は一人河北の新しい図面を描く。
黒山賊には一宿一飯の恩義がある。野垂れ死ぬしかなかった身を救ってくれたのは、彼にとって返さねばならない課題だ。
「しかしなぁ……」
そっと目をつむる。
容貌醜悪とされ、どこに出ても忌み嫌われた己の素顔は、賊徒の間では些細な問題であった。
彼らは陽気で、荒々しいく暴力的だが、見た目で人を差別しない。
「河北を一枚絵にしてしまうのは、行き場のない人々の生活を奪うことになる。この俺がやくざ者の住処を守らねばならんか」
顔を手でなぞる。
袁煕の参謀とほざいた男、郭公則と言ったか。
「俺の顔を見るなり鼻を摘まんで、犬でも追い払うように扱いやがったな。おまけに小銭を投げられたか。まあいい、人の才覚とは容貌以外にも発揮されるものであると、その魂魄に刻んでくれよう」
短くむくれた鼻は、まるで豚のようである。
ぎょろりとした三白眼は魚のごとし。
彼は自分の存在意義を見出すために、頭脳一本で乱世を駆けると決めたのだ。
「軍師殿、お頭がお呼びですぜ」
「あいわかった。今参る」
張燕は粗にして野卑。強盗、殺人、放火など、悪行をあげつらえばキリがない。
しかし、彼は慕う者全てを自らの子だと考えている。
根城にしている廃城の廊下を歩き、張燕の前で拱手して挨拶を述べた。
「おお、来てくれたか軍師殿。さあさあ、馬乳酒でかけつけ一杯だ」
「ふふ、ありがたく」
盃を交わし、張燕は今後の展望を聞くべく口を湿らせてから臨もうとしていた。
先手を取り、男は結果を語る。
「戎狄の援軍十万、明日に布陣を終えるとの報があります。ここは一気呵成に袁尚の首を狙うべきかと」
「そうか! よしよしよし、流れは来ている! 北部の境界を侵した我々だが、戎狄が味方に付いてくれるとは驚きだぞ」
晋陽は度々北方民族の襲撃を受ける地だ。やがて人々は争いに疲れ、徐々に交易や親交を結ぶようになる。しかし決して互いの防衛線には踏み込まないのが、暗黙の了解として敷かれていた。
張燕が晋陽に入った時は、既に袁家の軍が戎狄と争っており、決して容認されぬ線を踏み越えてしまっていた。
張燕は速やかに袁軍を討ち、戎狄からの信頼を得るための行動をいくつかおこしていたのだが、どうにも決め手がない状況でもあった。
「まさかあの頑固な戎狄の爺さん共を手懐けるとはなぁ。俺たちがいくらでも奪ってこれるもので満足してくれるんだから、幸運だったぜ」
「河北では袁家の小倅が新型の穀物を広げているようです。ならば彼の領地から拝借して、横流ししても我らの懐は痛みますまい」
戎狄を喜ばせたのは『米』だった。
北方の厳しい環境では、遊牧暮らしが通常のことである。だが飢えに苦しみ、乾きに悩むのも同じようにつきものだ。
甘みがあり、保存がきく。そして大量に出回っている。
盗賊を本業としている張燕が、この穀物を狙わないという選択肢はない。
「嫁を勧められたんだっけ? へっ、やるじゃねえか」
「お断りしました。俺のような不細工には勿体ない女性だったので」
「よし、それじゃあ袁家のお嬢ちゃんをブチ転がしに行くとするか。精鋭は温存してあるしな、敵の本丸を直撃するには十分だろう」
「勝算は十分かと。戎狄と袁尚を争わせ、我らは邯鄲を突く。夷を以て夷を制すは、戦の常道なり」
口笛を吹き、張燕は機嫌よく男の肩を叩く。
同じ戦場で槍を持ち、知恵を絞った者は家族である。張燕という一盗賊が、大きく成り上がれたのは、その親身になる性格故であった。
「それじゃあ、作戦の詳細を頼むぜ……なぁ、龐士元」
「承知した。一撃で喉元を切り裂いてやろう」
――袁尚
敵軍到来との報を受け、ただちに出撃。
これまで張燕軍の凡戦を見てきたので、どこか弛緩した空気が流れていた。
「何度も何度もしつこい男。そんなに顕甫に折檻されたいのかしら」
邯鄲から出て、雁門という地に踏み入ろうとしたときであった。
翻る旗印は『戎』
大地を埋め尽くす蛮族の群れに、袁尚は命の灯火が揺らぐのを感じた。
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