第90話 邪悪というには生易しい
――郭嘉
猛追せよ。
郭嘉が袁煕から命じられたのは、その一言だった。
郭嘉自身も、実際に目で見て、人となりを感じたうえで危険だと結論している。
劉備玄徳を野に放ってはいけない。
呂布や袁術以上に貪欲で、自己の欲求を満たすだけの餓狼であると思えたのだ。
合流した張郃と共に、騎兵のみの編成でひたすらに平野を駆け抜ける。
新型馬具の効能もあり、離脱する兵士は少ない。
「いやー参ったッスね。壺関も素通しとは……まあ、味方っちゃ味方でしからねえ」
「反乱の芽を摘むのは家臣の責だッピ。かの大徳を称する男、拙者も気にしていたッピ」
「そうッスよねえ。殿も懐中にマムシを入れて大丈夫かって心配していたとこなんスけどね。この有様とは」
携帯食料と水のみを持った強行軍だ。
壺関で馬を変え、移動しながら食事を口に運ぶ。袁煕の言によれば、上党に入られればそこで流れが変わってしまうというから、郭嘉も眉根を寄せて真剣にならざるを得ない。
「奉孝殿、これを見るッピ」
「なんスか、って、おいおい、これはやべーでしょ」
劉備に付き従っていた兵士の遺体が、道すがらに転がっている。全て自らの剣で自害をした形跡があり、彼らは喜んで殉死したのだと伺わせた。
「普通ここまで心酔するもんッスかね……足の遅い歩兵は邪魔だってことなんでしょうが」
「生かしてはおけないッピ。兵士にも家族がいて、彼らは我々将が護るべき仲間だッピ。斯様な死にざまを良しとする男に、天下の舵取りを任せるは、是危険ッピよ」
「まちげーねーッス。どんな手段を使ってでも排除しなくちゃいけないッスね」
胃の奥からせりあがる猛烈な不快感が、両将を襲った。
はた目には『自分はここまでです、先に行ってください』と、自ら志願して捨てがまりを演じたようである。
形を得ず、証拠もない。物的な事実も不明だ。
しかし、場に残された状況は、両将に一つの感情を想起させるに十分だ。
『悪意』
理想の旗を掲げ、人の希望を募り、屍で舗装された道を歩いていく。
しかも土足でだ。
張郃は怒りのあまり、唇を噛み切って血を流していた。天が死んだ兵士たちの行いを良しとしても、袁家の治める土地でこのような無法は許されていいはずがない。
郭嘉も張郃も、袁煕がどことなく頼りない人物であるのは知っている。
しかし、彼は他の人物と比較して一点だけ譲らない者を持っているのだ。
「殿が見たらブチ切れるでしょうね。某は報告したくねーッスわ」
「拙者が任を受けるッピ。顕奕様のお嘆きはいかばかりであろうか……ッピ」
袁煕の知恵は郭嘉に及ばず。武も張郃に大きく劣る。
しかし彼は『真摯』なのだ
真摯に人と向き合い、全てをぶつけて関係性を持とうとする。
真摯に民を思い、できうる限り心地よくなる統治を行う。
真摯に兵を励まし、まるで一族のように気さくに接する。
危うさを感じる場面も多々あるが、袁煕の性質は『善』である。
故に多くの壮士が彼に付き従い、能力以上の成果を上げようとする。
郭嘉も張郃も、自らの主君である袁紹と同等、もしくは次代にはそれ以上の名君が誕生すると信じて疑わない。
乱世の忠かにおいて、誠実さは時には命取りになる。
その激流の中において、正々堂々と前を向いて歩く姿に、人は惹きつけられるのだろう。
しかして劉備はどうか。
自らを慕う部下たちをこのように切り捨てて、平然と歩んでいるのだ。
彼の男は『邪』である。
真理の光が存在するのであれば。正義を測る天秤があるとしたら。
恐らくは袁煕に神仙は祝福を授けるだろう。
「張将軍、行くッスよ。某、久しぶりに血管切れそうになりましたわ」
「委細承知ッピ。問答無用で首級を上げるのみッピ」
埋葬出来ぬ自分たちを許してくれ。
乾いた大地に眠る躯にそっと囁き、郭嘉たちは上党へ走りだす。
ハナから迷いはない。
しかし、更に殺意は強まった。
彼の邪知暴虐は、中華に存在していてはならぬのだと。
――劉備
「おお、翼徳! 無事であったか!」
「玄徳にい、雲長にい、よくぞ、よくぞ……」
「うむ。まさかお主が上党を手に入れているとはな。まさにこれは天の配剤よ」
劉備・張飛・関羽の三兄弟が再び結集した。
北の土地である上党にて、新たな拠点を得たのである。
「雲長にい、その顎はどうしたんだ? まさか曹操の野郎に」
「いや、気が付いたらこうなっていてな。美髭などと持て囃されてきたが、所詮は体の一部よ。気にするな」
「そうか、まあ元気だったらそれでいいぜ!」
山賊と見まがうばかりの集団が、張飛の後ろから溢れてくる。事実彼らは黄巾賊の残党や、周辺の賊徒で構成されているのだ。
誰もが生きる道を失い、道に惑い、道を外した。
ここで天下の大徳の庇護下に入ることは、生存率にも直結することである。歓迎しないはずがない。
また張飛の武力を知っている者からすれば、彼が敬愛する二人が凡人であるわけがないと妄信していた。
兄者たちが来れば、南の曹操なんぞ一捻りよ。張飛が嘯いた言葉を誰もが信じているのであった。
事実上党は非常に微妙な位置にある都市だ。
真北には黒山賊が跋扈し、南下せんとしている。
南には曹操の勢力圏であり、中華の心臓部である洛陽。
西は川を挟んで羌族の住む大地である。また、西涼は馬一門もいる。
袁家から上党を攻める場合、南北からの挟撃を警戒せねばならず、山間の険路であるため、大軍を動員出来ないという不利があった。
「我らはここで劉旗を立てる。周辺を統合し、孟徳殿と雌雄を決さねばならん」
「おお、それでは兄者」
「うむ。雲長、旗揚げだ」
新緑の劉旗が上党に翻る。
三兄弟は斯くして、同じ土地で天下を狙う態勢に入った。
「兄者、申し上げにくいのですが、奥方様は……」
「雲長、其方は天命を尽くした。戦には女子供はついてこれぬ」
「……この咎は戦場でお返しするとお誓いいたします」
よいよい。
劉備は関羽の肩を抱き、背中を叩く。
天下を徳で包む日が来れば、自然と奥は増えよう。故に、現在の人物に拘る必要性はない。尊い犠牲であると劉備は割り切ってしまうのだった。
「で、玄徳にい、最初はどうする? 北の賊どもがうろちょろしてて、頭に来てんだよな、俺」
「ふむ、撃滅に向かいたいところではあるが、手勢が少ないな。雲長、上党の民から兵を募り、調練するとしよう」
「して、数はどの程度を?」
張飛の問いに劉備が答え、関羽に投げる。一見なんの変哲もないやり取りだった。
「無論動ける男は全員に決まっている。なに、これも天下のため。私が話せばわかってくれるだろう」
「袁家から追手が来ると思いますが、如何なさいますか」
「へっ、御曹司のトコの軟な武将じゃ俺の相手にならねえって。なあ、俺を出撃させてくれよ」
ざんばら髪に、野人のような瞳。相貌怪異の男が吼える。
「うむ。それでは翼徳に任せよう。兵を率いて丁重にお帰りいただくのだ」
「全員挽肉にしてやらぁ。おい、周倉、裴元紹、俺の馬を引いてこい!」
劉備の許可が出るや否や、張飛は鼻息荒く出陣の準備に取り掛かった。
本来は民を慰撫し、民心を落ち着かせてからの軍事行動であるべきである。
誰もが劉備の行動を疑わない。これは聖戦であると。
太平要術の書。
それは南華老仙が残した人心掌握の道術である。
もって生まれた、天性の人たらしの才能に不可思議な力が加わった。
結果、死をも厭わぬ、洗脳に近い兵士たちの群れが誕生するのだ。
「よいのです、よいのです」
万雷の拍手に迎えられ、劉備は上党の城郭に向かう。
荒れている都市とはいえ、そこに生きる民たちは救いを求めているのだった。
現れた男は稀代の世渡り人である。窮状を訴える民草に取り入るなど、赤子の手をひねるようなものである。
「行け、翼徳。我らがここに新たなる王朝の礎を打ち立てたこと、万民に知らせるのだ!」
「おうよ、木端微塵にしてきてやるぜ。兄者たちはゆっくり茶でもすすっててくれ」
万人敵とも、万夫不当とも称される、大徳の矛。
張飛翼徳が手勢を率いて迎撃に出た。
対するは名将張郃と郭嘉。
後の世に語られる、河北三国志の始まりでもあった。
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