第89話 南華老仙の大失態 お前ちょっと体育館裏こいよ

――劉備

 あまり記憶がない。そう感じた劉備だが、吹き抜ける風の前に思考の羽は飛び去って行った。

 今の自分がいて、隣に関羽がいる。いつも通りであると認識するのに、そう時間はかからなかった。


「雲長、これより少数で上党を落とす。内部の様子は酸鼻を極めるそうだが、覚悟はよいな」

「今更ですぞ、兄者。欲を言えば翼徳がいれば百人……いや万人力なのですが」

「ははは、よいのだ。では『救世』のために兵を動かすとしよう」


 致命的なシステムエラーにて、なぜか強力編集の縛りを抜け出した劉備。

 袁煕はまだ知らない。実は劉備には一つの絡繰りが隠されているのだ。


「中華全土に徳治を広め、多くの民の眼を開こう。我が求道、留まることを知らず」

「随意に、兄者。この雲長、どこまでもお供しますぞ」

「うむ。時に雲長、髭はいかがいたした?」

「それが、気が付きましたらこのように抜け落ちておりまして……酒に酔って自ら切り落としたのでしょうか。不覚に過ぎました」


 記憶の改竄は強引に行われる。

 そも強力編集は運命改変の能力だ。

「かくあるべき」世界を捻じ曲げ、「こうなるべき」道へと誘う。

 その対価である金銭は人の欲望が詰まった物品だ。念の力が民衆を動かすのと同様に、様々な願いが貨幣に宿っている。

 南華老仙の力は貨幣を通じて、人の想いを具現化することだ。


「かの大賢良師はやはり凄いな、雲長。真贋不明の妖術まがいで、あれほどの大衆を動かしたのだ。やはり幻の力は心に響くのだろう」

「兄者の徳をもってすれば、多くの民が立ち上がりましょう」


 懐から一冊の本を取り出す。

 劉備はその粗い表紙を撫で、満足げに微笑んだ。

『太平要術の書』

 南華老仙が張角に授けたという一品だ。戦火の中に焼失したと思われていた貴重な冊子は、今劉備玄徳の手の中にある。


 捻じ曲げる力は、捻じ曲げる力と相殺される。

 袁煕の編集能力を退けたのは、この本の守りがあってこそであった。


「ふむ、上党に守備兵が上がっているな。粗末だが旗もある。力攻めはもとより難しいと思っていたが、これは意外にも難いやもしれぬなぁ」

「む、兄者、ご覧ください。旗印は『張』。新緑の張旗ですぞ!」

「おお、真か。ならば話は早い。このまま悠々と進軍し、中で翼徳と再会するとしよう」


 新緑の旗は劉備のバナーカラーである。

 袁家は黄色、曹操は青、呂布軍は黒。

 それぞれがトレードマーク的に使用している。


「うむ? おお、あれは翼徳か。おーい、翼徳! 私だ!」

 劉備が城壁に上がって来た人物に声をかける。

 大柄で無精髭、熊のような体形の男は、身の丈以上に長い曲がりくねった矛を持っている。

 劉備の到来に気づいたのか、壁上の男――張飛翼徳はその場で何度も飛び跳ね、大きな喜びを示していた。


―—袁煕

 強力編集の画面が急に立ち上がったと思ったら、レッドアラートとクソうるせえ警告音が鳴り響いた。

 敵襲間近で一刻を争うときだが、確認しないわけにはいかない。


「なん……だと……」

 まず目に入ったのは『運営からの払い戻し』のメッセージだ。

 今まで課金したであろう金銭が、ストックにぎっちりと戻っていた。

 その数約五十万。

 

 ん、待て。

 この金額、最近使った覚えがあるぞ。

 確か流浪の大徳にお灸を据えたときにぶっ放したような……。


「まさか、な。普通チート能力が破られるっていうのは、お約束外のことだぞ」

 自分で言っていて情けなくなるが仕方ない。

 人間ってのは今まで学習してきたものを基準として物事を考える。つまり思考の下地はインプットされてきたものに比例するのだ。

 日本人であった俺が摂取してきたフィクションものでは、この手のチート能力ってのは絶対の力に等しい。故に埒外の出来事が起きるってのは今まで想定外だった。


『劉備玄徳のステータスが初期化されました』

『ステータス改変.exeが無効化されました』

『劉備玄徳の所有するアイテム補正により、ウイルスを検出』


 脳内に反響するえぐい音のアラート。クソ、一体どうなってやがる。

 あの大徳、マジで何しやがったんだ。

 次々と吐き続けるエラーメッセージを消していきつつも、俺はステータス変更を受け付けなくなった劉備を前に、無力さを感じていた。


『太平要術.gifにより、変更の無効化を確認しました』

 

 なんでgif画像如きでウイルス引っかかってるんだよ。

 つか、それって張角の持ち物だったはず。あの野郎、どこでそんな異物を手に入れたんだ。

 いや、待て。

 おい、確か著者は……。


 南華老仙君さぁ……。互いに対消滅するようなイベントフラグ立てないでくれるかなぁ。割と俺にとって致命的な出来事だよ、これ。

 頭をかきむしりたくなるが、ここで嘆いていても仕方がない、か。

 あのジジイ、次に会ったら鋸引きにしてやろうとかいう、物騒な考えまで浮かんでしまう。この時代に慣れすぎたかね。


 はたと気づいた。

 なぜ南華老仙は俺を選んだ?

 時代の寵児に転生させず、わざわざ袁煕だなんていうドマイナーな武将にしたのはどうしてだ。

 確か出会ったときには、あるべき輪から外れた不幸な世界が云々かんぬん言ってたな。何故俺は異なる歴史に飛ばされてしまったんだ。


 いや、よそう。

 今それは考えるべきことではない。

 俺の指示によって今のこの世界で生きる人々の生死がかかっている。

 全てを解明するのは河北に平和を築いてからだ。それまでは深く考えず、突っ走るしかないだろう。


「左翼より砂塵が立ち込めております。殿、敵襲ですぞ!」

「よし、迎撃するぞ。白馬から顔良将軍が、延津より魏延将軍が来るまで持ちこたえるぞ」

「御意!」


 本陣に詰める将は俺と許攸、そして郭図。

 絶望的な面子だが、やるしかねンだわ。


 やがて黒一色のヤベー旗が見えてくる。もうマジで毒々しいのなんの。

 道端でサソリを見つけたときくらいの絶叫モンだわ。


「黒色の呂旗……マジかよ、呂布、生きてたん?」

「いえ、この許攸が聞き及ぶ限りでは、刑死したとのことですが……」

「だよね。じゃあアレはなんぞ」


 盾兵を並べ、密集体形。ガッチガチの方陣を敷いて待ち受ける。

 損害度外視で突撃されるとちと困るが、そこまでのバーサーカーでは無いと信じたい。あ、でもウチの軍にもいたか、異次元の狂人が。じゃあ無理臭いかな。


「弓兵、構え。放てーっ!」

 各部隊長の命令により、斉射が行われる。幾人もの兵を射倒すものの、突進力を減衰すること能わず。

 河北ウマ娘はよそでやってくれ。ここはダートじゃねえんだぞ。

 心で文句を垂れつつも、斉射の命令は継続する。この敵はヤベエ。俺の中でゴーストが囁いているからだ。


「黒色の呂旗……え、その……先頭には女武将が」

「……誰ぞ。あっ」


 いたね、そういえば。

 俺てっきり架空の人物か、袁術君のところに嫁入り失敗して、婚約破棄からの追放令嬢かと思ってたよ。

 

 戦場に轟く名乗り。一騎当千にして、天下無双の豪傑の血は途絶えずと、雄叫びを上げる。


「我が名は呂玲綺! 父より受け継いだ方天戟の重み、とくと思い知るがいい!」

 え、割とガチで何でこの子が襲ってくるん?

 俺そこまで悪いことしてないと思うんだけど、何か複雑な理由でもあんのかね

 仕方ねえ。行きたくないけど、流石に相手が相手だ。一応言葉で戦っておくか。


「あいや、矛を一旦おさめられよ。我が名は袁煕、字を顕奕という。そこもとは無双の武人である呂奉先殿の遺児でお間違えないだろうか」

「いかにも。呂の旗を守る最後の砦なり。この呂玲綺に大人しくその首を差し出すがいい。苦しまずに葬ってやろう」

「……一つ聞いてもいいだろうか」


 鷹揚に頷く呂玲綺サン。いや、どうしても気になってしょうがなくて。


「なぜ、私と戦うのだろうか」

「孟徳公に命を助けられたからだ!」

 

 まあ、うん。それは分かる。だけどさ。


「呂布殿を滅したのは曹操殿では? 何故お味方するのか」

「……なんでだろう」

「えぇ……」


 OK、理解した。

 この子、少し頭が不自由な子だ。


「本来であれば、父上の仇である曹操殿を狙うのが筋ではなかろうか?」

「……そうとも言うな」

「お、おう。であれば、我らが争う理由は何処に?」


「……えっと、うんと」

「無いのでは?」

「どうしよう、文遠。こんなの聞いてない……」


 あ、やべっ。なんか半べそかきはじめた。

 呂玲綺の兜に着いた羽飾りが、弱々しく揺れている。


「私は、死に場所が欲しかっただけで、別に……その、誰でもいいってわけじゃ……」

「そっすか……」


 方天戟、もう売っぱらってもいいんじゃないかな。

 この脳筋お馬鹿系、マジでどうしてくれようか。

 次から次に湧いてくる不測の事態に、俺の脳は壊死寸前だ。

 もう、ゴールしてもいいよね?

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