第87話 トラウマスイッチって怖いね

――魏延


 眼前に敵陣が迫る。旗印は『楽』、一文官から前線を任される長にまで昇りつめた、根っからのたたき上げ系軍人である。

 魏延は一件乱雑に潰走している体を装っているが、兵科ごとに区分しており、瞬時に陣組みを成せるよう気を配っていた。


「うむ! 当然警戒はしておるな! では各々油断めされるな!!」

「うるっさ……はいはい、それじゃあ一発かましてやりましょうかね」

 副官の王威は耳栓を取り、まだキーンとする耳朶に活を入れなおした。


「前衛の歩兵を下げ、盾兵と長槍兵を前進させる。左右両翼の騎兵に合図を送れ」

「はっ!」

 手旗が旋回され、戦鐘が鳴らされた。

 隠し立てする必要はない。魏延たちは正面からぶつかり、敵兵と膠着状態を作るのが目的だからだ。


 されど楽進隊は動揺した様子を見せない。既に魏延の偽投降は見抜かれていたのだ。だがそれも策のうちである。


「各々、北平での戦を思い出せ! その後の練兵を……れん、ぺい? うっ、頭がっ」

 兵士たちも魏延と同じく、封印されし記憶が現世に顕現しようとしていた。

 北平で我らは何を見た? 何をした? 否、何をされた?


「も……け……」

 誰ともなく、声が漏れた。

 途端、魏延軍の目の色が変わる。今までは理性的に、されど慎重に行動していたのだが、敵陣に当たる直前に魂が変貌したのだった。


「ぎぎぎぎ魏延様まままま、ああああれ、ててて、てきてきてき」

「我肉斬 血浴身 臓物撒 射爆了」

「あーたーらしーい肉が来た。非業ーのあーさーだー」

「許可する。殺れぃ!!」


 あびゃぁっ、という奇声を上げ、魏延軍の前衛は『盾兵』であるにも関わらず、突撃していく。その後ろには槍兵が涎を垂らし、失禁しながら飛び掛かった。


「んんんんっ、人肉ですぞ。これは大変良質ですなぁ」

 先ほどまで魏延を抑える側であった王威は、首を横に振りながら、最前線で槍を奮っていた。

「いっぽんでーもにんじんっ!」

 突き刺しては空中に放り投げ、その死体に魏延兵が群がっていく。

 雁木毬。

 文醜軍の薫陶は表層状には決して出てこないのだが、いざ命の奪い合いになると、兵士を一匹のクリーチャーへと変えるのであった。

 

「にほんっさんぼんっ! そぅら、釣れたぞうっ」

「うきゃきゃきゃきゃ、王威様ぁぁぁあああっ、これ、俺が食うっ!」


 犠牲を厭わず、損害を度外視した猛攻だった。

 さしもの猛将楽進も、目の前で繰り広げられる饗宴には度肝を抜かれたことだろう。楽進は攻撃や攻城特化の武将だが、その彼が鉄壁に守りを固めに入った。

 逃げ遅れた兵士たちは寸断され、裁断されていく。

 自分の命を天秤に乗せまくり、何度突き刺しても前進してくる狂人の群れ。それは却って魏延軍の損害を抑えるという結果につながった。


「魏延将軍んんんっ、我々も行きましょう、すぐ行きましょう!」

「うむ! 突撃である!!」


 愛馬の腹を蹴り、魏延は愛用の薙刀を持って楽進軍に切り込む。

 良く言えば獅子奮迅。悪く言えば地獄絵図。

 痛みを感じないように訓練された精鋭たちは、何をされても動じない。

 

「敵将楽進、何処におるっ! 儂を斬れる者はおるかっ!」

 魏延とその麾下の兵士たちの雄叫びが戦場に木霊した。



――楽進

「まぁ、もう隠す必要ねえよな。へ、こんな拮抗した状態での降伏なんぞ、罠以外の何物でもねーだろっての」

「然り。ですが将軍、于将軍が捕縛され、李将軍はお命を……侮るべき相手ではございませぬ」

 副官に諭され、楽進は血が昇りかけた頭を冷やすよう努めた。

 

「そうだな。ふぅーっ、俺たちの役目は敵の釘付けだ。どうせ魏延だけじゃねえんだろうしな、敵さんは。ここは軽く受けつつ、両翼の将が包囲をする時間を稼ぐとしようか」

「それがよろしゅうございます」


 副官に王粲、前衛には張繍から引き抜いて来た胡車児がついている。

 楽進軍の目指す先は遥か高みだ。同姓だが、かの高名な楽毅を理想としていた。

 あらゆる局面に対応し、並み居る将兵を指揮して戦場を駆ける。

 楽進は男の子の浪漫を全身に詰め込んでいる将軍の一人であった。


「……おや、敵の様子が」

「どした王軍師。って、おい、なんだあの突撃は!?」

 つい先ほどまで盾を構え、にじり寄ってきていた魏延の部隊。しかし彼らは全てを放棄し、武器を手に猿のように襲い掛かって来たのだ。


 あまりの突進力により、前衛の兵士が宙を舞う。一か所だけではない、接敵したすべての箇所でありえない空中浮遊が起きていたのだ。

 

「おいおいおい、なーに考えてんだあいつら。馬鹿正直に突っ込んで来たら、防陣の餌食ってのがわかんねーのかね」

「こ、これ……は……」


 王粲の顔色が土気色にまで悪化していた。

 彼は聞き及んでいた事実がある。それは北方の二枚看板、文醜の話だ。

 曰く、彼らは人外であり、決して白兵戦を挑んではならない。

 曰く、彼らは既知の外であり、決して会話してはいけない。

 曰く、彼らは魔窟の住人であり、決して目を合わせてはいけない。


 まさか、奴らは……。

 王粲は流れる不愉快な汗をぬぐうことも出来ず、怪異の暴走を眼に焼き付ける。

 疫病が……広がっていく……。

 噂に聞いていた文醜軍の戦いと同じだ。つまりは、今後このような命を度外視した軍隊が現れ、臓物酒宴を開催するということだろう。

 

「が、楽将軍、直ちに延津の陣内へ撤退を! 奴らは危険です!」

「いやー、まだ戦は始まったばかりだぜ? 敵も若いのがイキってるだけだろ。ここは勢いを殺し、包み込んで始末するのが上策だと思うけどな」

「あの光景を見て、まだそのようなことが言えるのですか!」


 王粲が指し示した方向には、丁度『魏』の戦旗を掲げた部隊が突入して来ている。

 それは戦と言うには大雑把過ぎた……それは正しく魑魅魍魎の諧謔であった。

 

「うそだろ、おい……」

 時折空中に放り投げられる肉片。弾ける身体。転がる首。

 死骸に群がり、愉悦の笑みを浮かべる悪鬼の集団がそこにいる。


「ひええっ、ば、化け物じゃ! 逃げろおっ!」

「助けてくれえっ!! おいて行かないでっ、ぐあっ……」


 兵士たちの悲痛極まる怯懦が延津の前線に響き渡った。

 前衛部隊はほぼ壊滅し、防衛線には大きな穴があけられていた。


「楽将軍、後退の合図をば! お早く!」

「お、おう……全軍撤退! 延津にて態勢を整えるぞ!」


 戦太鼓が鳴らされる。それは楽進軍の兵士にとって慈雨に等しい助けの合図でもあった。

 無論無事に逃げられる保証はない。それでも、目の前にいる悪夢の具現と対峙するよりは遥かにマシな選択であっただろう。


「王軍師、兵をまとめて延津に行ってくれ。俺はしんがりを勤める」

「死にまするぞ? あれは全軍で一斉に当たるべき相手です」

「それでもだ。一兵でも多く助けねば、孟徳公の名が地に落ちてしまう」


 迷いはなかった。

 楽進の目はいつもの通り真っすぐであり、戦功に飢えているままである。

 王粲はそれがとても悲しく見えてしまったのだ。


「しからば、これにて御免。将軍、ご武運を」

「これでも旗揚げ時からの男だ。簡単に死んでたまるかよ」


 愛用の双剣を手に、楽進は馬を走らせて後方へと向かう。

 逃げ遅れた兵士や、捕まっている者を助けつつ、一路魏延のもとへ。この状況を打開するには敵将を抑えなくてはならないという、戦の直感だった。


「大丈夫か、今のうちに逃げるんだ!」

「が、楽将軍……かたじけない」

「お気をつけください、奴らは異常者の群れですぞ……」


 言われなくても見ればわかるさと、楽進は敵の中へと身を捻じ込む。

 数々の暴威を見てきたが、これほどまでに酷い合戦は初めての経験だった。


 気が付けば全身に返り血と己の血にまみれ、息絶え絶えに。手にした剣は既に折れ、拾った槍を使用しているが、心もとない。

 馬の怪我も限界に来ているようだ。


「ここが……死に場所か。クソ、防衛していたはずが、どうして」

 乱戦への覚悟が足りていなかったのが敗因と、楽進は知る由がない。

 まさか自分の命をゴミのように捨て去るような戦法を執ってくるとは、楽進の想定外に尽きたのだ。


「そこもとが敵将、楽進殿かな」

「……てめえが魏延か。よくもこんないかれた集団を作りやがったな。俺が死んでも、てめえだけは生かしておかん。覚悟!」

「…………へけ」


 一瞬の交錯。

 古錆びた槍は、白目を剥いて絶叫する魏延に届かず。

 薙刀が振るわれ、楽進は己の首が地に落ちる音を最後に聞いた。


(こいつらは……バケモンだ……子桓様、お逃げ……)


 魏延の高らかな戦勝の声は遠く。

 深い闇が楽進を包み込んだ。

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