第86話 俺は嫌な思いしないから、お前好きにすれば? 

――荀攸


 程昱の進言によれば、現在延津に向かっている脱走兵は本物である確率が高いとの見解だ。

 荊州より出てきたものの、北平攻略にて戦功をあまり認められず、一部隊の隊長として遇されている魏延。彼のものは反骨の相を持っている。


 河北の人間は河南の者を文化的に下劣であると見下す風潮がある。

 件の魏延も河北の礼儀を叩き込まれ、身に沁みて懲りたに違いない。


「程仲徳よ、本陣の備えは盤石か? これで偽装であったのであれば、天下の笑いものになるのだがな」

「ふむ、ご心配めされるな。前面には楽将軍の歩兵部隊が展開済みでございます。文官上がりの小兵なれど、その実力は孟徳公もお認めになられております故」

「ならばよい。あまり俺の手を煩わせるなよ。この一戦、後背の濮陽におられる父が見ているのだ。万に一つも敗北することなぞ許されぬ」

「ご安心くださいませ。この程仲徳、他にも策を擁しておりますれば……」


 程昱は拱手して帷幕を後にする。遅れて荀攸も続き、宵闇の深い空気の中語り始めるのだった。


「仲徳センセ、さっすがに魏延の投降は無理筋なんじゃねーかなー。俺としては許攸の偽手紙の方が信憑性高いと思うんすけどねー」

「前面の魏延に対しては楽進将軍を当てる。無論彼のものの武では魏延に太刀打ちは出来まい。しかし……」

「魏延に叛意があればよし。そうでなければ釘付けにするだけでも是と。まあ、敵の攻撃があからさまになるでしょうし、魏延の一部隊だけでは延津は抜けねーっすからねー」

「その通りだ。魏延を偽と仮定しておくのは悪い考えではない。若の前ではあのように述べたが、某は許攸も偽と見ている」


 意外な言葉に荀攸は目を見開く。それもそのはずで、曹丕の前では全面的に投降w受け入れるような発言をしたのだ。それが帷幕の外に出た途端に変貌した故である。


「魏延も許攸も受け入れろって言ってませんでしたっけか。俺の聞き間違いだったんすかね」

「兵は詭道なり。敵を騙すにはまず味方からだ。敵の前面を抑えているうちに、張遼の騎兵を突撃させる。無論、許攸なにがしには『投降を受け入れる』と称してな」

「ふー。なるほど。袁煕の居場所さえわかれば、こちらの機動戦力で一気に蹂躙可能……と。あの野郎はちょこちょこ居場所を変えてやがるんでねー」

「然り。故に敵の密使を利用し、策に乗った振りをするのだ。若が前のめりになって偽装投降を受け入れる姿勢を見せれば、袁家も油断するだろう」


 荀攸はぶるりと体を一度震わせる。

 味方を置き去りにし、自らの命を助けるために埋伏の兵すら捨てた男だ。もし仮に偽装投降がまがい物だったとしても、張遼を捨てるくらいは無造作にやってのけるだろう。


「仲徳センセ、あんた長生きできねー性格だと思うぜ」

「この乱世で、寿命を全うしようなどと考えたこともない。我が知、我が計を天下に轟かせることこそ誉れである」

「なるほど、文若クンが畏れるはずだわ。まあ、仲徳センセ、味方の有能な将をあんまり磨り潰さんで下さいよ。量より質の戦いになれば、こっちが不利になっちまいますからね」

「承知しておる。なに、某の第二の矢は外れんよ」


 そっと程昱は荀攸に耳打ちをする。

 まだ寒い河北において、荀攸は提案された悪辣な手段に、興奮と不快感の汗を流すことになった。

 

「センセ……そいつをやったらお終いでしょう。え、本気ですかい?」

「河北がいくら不毛な土地になろうが、我らには関係ない。統治するのは孟徳公であって、某ではないのだからな」

「いや、確かにそうですがね。ちょいと行き過ぎではと」


 初めて程昱は笑った。

 この長身の策士は河北の地に新たな戦乱を巻き起こそうとしているのである。


「いやはや、ああはなりたくねえっすな。人の命を数字でしか見ないのは軍師に求められる能力だけど、本当はそんなことしたくねえってのに……」

 荀攸のか細い言葉は闇夜に落ちて消える。

 程昱仲徳。果たしてこの男を自由にさせていて良いものかと、荀攸は深く考えることになった。


――魏延

「進軍じゃあっ!!」

 周囲が一斉に耳を塞ぎ、小さな声で「お、おう」と返す。

 相変わらず魏延の声は出力調整が破壊されているままであった。


「魏将軍、進軍じゃないですよ。脱走、脱走っていう体ですって」

「ん! そうか! それじゃあ脱走じゃああああああっ!!」

「うるせっ」


 荊州より共に逃れてきた仲間で、今は魏延の副官でもある男、王威が叫んだ。

 劉表配下としてつつましく仕えていたのだが、河北でビッグドリームを掴もうぜ! という魏延のクソデカ爆音にほだされ、一緒に逃げてきたという。

 彼は現在、武器である薙刀を握るよりも、耳栓を手にする機会の方が多い。


「うむ! 全軍、整列し、乱れなく脱走せよ!!」

「うっさ……いや、それはダメですってば。南皮から逃げてきたって設定なんですから、もうちょっと陣形を乱しましょうよ」

「そうか!! うむ! ならば、乱すがよい!!」


 朝焼け、木陰で休む鳥たちは、魏延の大声量に驚き一斉に飛び立っていく。

 王威はこの裏表のない男を非常に気に入っていた。

 人相鑑定の士に会うたびに、貴様は反骨の相だと言われ続け、精神を凹ませて帰ってくることしばしば。だが実際の魏延は初志貫徹で忠義一徹の男だった。


 強いて難を挙げれば、名誉欲は非常に強いと言ったところか。

 極端に言葉を選ばずに言えば、褒められたい男なのだ。

 流石、魏延将軍! とおだてられれば、彼は猛火の中でも飛び込んでいく。


 王威も出世欲がないわけではないが、今の河北の生活は気に入っていた。

 特に主である袁煕は柔軟な発想の持ち主で、個人の多様性を認める主義である。

 出身や身分に囚われず、有能な者は重く用い、実力が今一つな者でも、適材適所に仕事を割り振っていた。


「魏将軍、まさか本当に投降しませんよね。ははは」

「……王よ、もう一度言ってみろ」


 魏延の声が極端に小さくなった。

 王威は知っている。これは彼がブチ切れているときの合図だということを。

 知ったうえで軽口を叩いたのだが、まあ本気で怒ってるところを見るに、袁家に尽くしていくという魏延の心は真のものだろうと推察した。


「王、御館様は懐広く、名家の名に相応しい人物である。それに、何といっても顕奕様だ。あの方は稀代の名君の器である。魏文長が魂を賭けてでも保証しよう」

「そうでしたね。いや、こういう騙し合いになると、少し私も不安になってしまいましてね。でも魏将軍の本心が聞けて安心しましたよ」

「そうか。ならばよし」


 莫逆の友と言える王威にすら殺気を向けた。

 その殺意すら、王威には頼もしく思える。ああ、我が友は不器用なだけなのだな、と苦笑するほどに。

 

「それじゃあ陣を適度に乱すよう伝令を走らせましょう。そろそろ延津が見えてきますしね」

「うむ! 全軍、意気を上げよ!!」

「だからうるせえっての! 静かに行軍してくれよ……」


 魏延の野戦部隊は、少々特殊である。

 北平から南皮。南皮から延津へと行軍しただけと思われるが、実は若干の空白期間があった。

 

 北平において、猛将文醜と轡を並べたあとのことである。


「魏将軍の指揮、誠にお見事。河北の二枚看板などとおだてられているが、いつまでも胡坐をかいておられんな」

「何をおっしゃるか!! 文将軍の部隊はまさに中華に冠たる歴戦の猛者ぞろい! 某も出来れば共に訓練を受けたいほどですぞ!!」

「……それは重畳。是非今度模擬戦を実施しよう。なに、怪我人が出ぬ程度に」

「はっ!! この魏延、どんなことでもお受けしますぞ!!」

「武士に二言はないな? よかろう……」


 その後、魏延の記憶はぷっつりと途絶えている。

 気がつくと、自分は木製の机の上に乗せられ、周囲に馬の臓物が並べられているという奇怪な状況だった。


 耳に残る残滓が、記憶を呼び起こすことを拒否している。

 確か……某は文醜将軍の兵士と交戦して……それで……。彼の意識は痺れに近い痛みを発し、身体に警告を流した。

 深く考えてはいけない。とにかく自分たちは北平で何かを体験した。

 それだけだ、と。


「もけ……」

「は? 今何か仰りましたか?」

「いや、何でもない!! 恐らく蚊でも飛んでいたのであろう!!」

「はぁ……さいですか。おっと、敵影発見。旗印は『楽』……か」


 知らぬ間に魂に恐怖を刻まれ、地獄の釜で茹でられた魏延軍。

 彼らは今、河北でも類を見ないほどにトラウマを抱え、且つ、一騎当千の強者として戦場を跋扈するのであった。

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