第47話 遥か先のために

 疲労がピークに達している。

 連日の過密スケジュールもそうだが、甄姫との野戦も手を抜けないでいた。

 昼は机で眠り、夜は香気に包まれて落ちる。人は人生は胡蝶の夢と称したが、果たして今の俺は袁煕としての生を夢に見ているだけなのではなかろうかと。


 郭嘉に気球の原理を伝え、道具屋チンゲンサイで図面を買って渡す。

 公孫瓚との決戦になる易京の戦いは、もうすぐそこまでせまっている。こちらとしても戦況を有利に進めることができるモノを、黙って放置したりはしない。


 激務を終え、俺はいつものように自分の寝所で夜着へと着替える。

 あれだけ疲れていても、いつも甄姫と連戦出来てしまうのは、このボディが十代というタフネス極まりない時期だからだろう。


 やがて侍女の明兎が俺の部屋を訪れ、甄姫の到来の先触れとして役目を果たす。

 これもいつも通りだ。

 高貴な身分の者は、到来前にきちんと相手の状況を窺うものである。

 三国時代からアポイントメントを取る仕様になっているんだから、人類ってのは案外律儀にできているのかもしれない。


「顕奕様、甄姫様がお出でになられます」

「うむ。マオ、いつもの通りに頼む」

「お任せくださいませ。マオはいつでも顕奕様の味方でございますよ!」


 マオが部屋を辞し、あまり時が過ぎないうちに静々と甄姫が寝所へと入ってきた。

 だがその顔は妙に強張っているように思える。

 月の光の加減なのか、それとも行燈の炎の具合によるものなのか。今夜は妙に青白く、凄絶という言葉が似合うほどに頬を引き締めているようだった。


「や、やあ。今日もいい月だな」

「ええ、本当に……」


 シーン。

 

 え、ちょっと待って。

 いつの間にこんな風に冷え切った関係になったっけか。

 もっと饒舌な人だったよね、蘭は。

 

 激務に追われていたせいか、自分が何か間違いを犯してしまったのではないかと必死に頭の中をサーチする。だが、一向に思い当たる節は見つからない。


 NTRルート、フラグオン。

 そんな絶望的に心をブチ折るイベントが到来してしまったのか。

 頼むぞ、おい。今この状況で夫婦間に隙間風がじゃんじゃか入ってくる設計だけはご勘弁願いたいんだが。


「ふふ、何か思い過ごしをさせてしまいましたわね、顕奕様」

「おぅ? や、その……怒っているのでは……ないのか?」

 俺の問いに、甄姫――蘭は転がる珠玉のようにコロコロと笑う。

 心底おかしそうに。それでいてどこか安心したように、だ。


「俺の知らないところで、なんぞ事件でもあったんかな」

「ええ、ええ。それはもう大事件でございますよ。きっと顕奕様も驚きになられるかと……ふふ、うふふふふ」


 怖すぎて草も生えない。

 なにわろてんねん。俺の心はエスキモー並みに暖を欲してるんやぞ。

 

「そ、そうか。まあいいだろう。蘭にとっては笑顔で済ますことができる範囲なのだろうからな。それで……だ、今日も……だな?」

「いいえ、もう顕奕様とは体を重ねることは出来ませぬ」


 んんんっ!

 いや、そのだな。別に炎のように盛ってるっていうわけじゃあないと言い訳しときたいんだが、流石に寝所まで来てそれはなかろうよって思うじゃん。

 なんだろう。やっぱり何か俺やっちまったかね。


 額に手を当てて考えていると、甄姫が俺の手をそっと握り、自分の腹へと誘う。


 え、ちょ。

 まさか、まさかよな。


「侍医の先生に確認をしていただきました。その結果、蘭の腹にはややがおりますわ」

「やや……ややって。こ、子供……子供ができたのか!?」


 あまりのことに立ち上がりそうになったが、まだ手をしっかりと握られており、甄姫の腹部にあったことから、どうにか思いとどまることができた。


「お喜びくださいますか? 顕奕様」

「…………」


「顕奕様……? ややをお望みではございませんでしたか? もしそうであれば……」

「…………」

「やはりこの身には袁家の血は似合わぬと、そう仰せでしょうか――って、えっ、あの、顕奕様……お気を確かになさいまし」


 涙が、とま、ら、ない。

 鼻水とか、いろんなモンが出てるだろう。もうべっとべとなのはすげーわかる。

 

 嬉しい、嬉しい、嬉しい。

 世の中にこれほどの喜びというものがあったのを、どうして俺は知らなかったんだろうか。

 

「蘭……らん、おれは、うれ、しく……て」

「あらあら、ふふふ。顕奕様、大きな赤ん坊のようでございますよ」


 俺は天を仰ぎ、やや薄汚れた天井を眼に焼き付け、そして叫ぶ。


「ばんざあああああああああああああああああああいっ!! 蘭、蘭、蘭!! 俺は最高にうれしいぞおおおおおっ!!」


 俺は静止の声を振り払い、自室から飛び出る。

 静かな月光の降り注ぐ庭園で、まるで狂人になったかのようにひたすら万歳連呼マシーンになった。


 その乱痴気騒ぎを聞きつけ、多くの家臣が集まって来た。誰も彼も不思議に思っていたに違いない。


「顕奕様御乱心か……」

「名門の栄光は何処に、おいたわしや」

「とうとうこちらに来ましたな」


 最後が郭図の声というのだけは理解していた。

 だが、今日の俺は抜群に機嫌がいい。何を言われても恐るるに足らんよ。


「マオ、酒蔵を開けよ。皆に振る舞い酒だ!」

「け、顕奕様……それはご政務に差し障りがでると思いますですよ」

「一向に構わん。というか、明日は途中で早退してもいい!」


 百花繚乱、色づく花弁を脳裏に浮かべ、酔生夢死の心地に至るのも一興。

 今日は倒れるまで飲むぞ。

 俺を止められる者がおるかっ!?


「殿……顕奕様。少々おふざけが過ぎるというものではございませぬか?」

 絶対零度の棒読み声は、熱され茹っていた俺の脳を正常に戻すに十分な迫力を孕んでいた。


「あ、うん。そう……ですよね」

「はい。このような慶事は後日正式な場を設けてなさいますよう」

「ハイ」


 一瞬で斬られた。

 蘭は俺という冴えない武将のもとに嫁いできたとはいえ、名家の子女だ。

 きちんと行事の大切さを認識している。

 馬岱並みの活躍をした蘭の手に捕まる。しょんぼりと俺は家臣に解散を告げると、そのまま寝所へと引きずられていったのであった。


 寝所でのハイパーお説教タイムは厳しかったとだけ言っておこうと思う。

 けれどな、しょうがないんだよ。

 どうしても顔がにやけちまう。

 

 腐り切った生活を送っていた社畜の俺が、こうして可愛い嫁さんをもらえたのだ。そしてそのお腹には新しい生命が宿っている。

 蘭もそれをわかっているのだろう。しょうがない人ですね、と苦笑して最後は許してくれた。


 寝返りを打ってお腹に当たっては一大事なので、今日から蘭とは別の部屋で眠ることにする。

 初期は特に気を付けないといけないって、何かで読んだことがあるしな。

 あああ、衣服、食事、生活、仕事……色々と蘭が過ごしやすいように変えていかなくてはならんね。


 魂を得て、我が身を恥じるは、正しき道哉。

 

 負けられん。

 蘭の為にも。その子のためにも。

 袁家、将兵、民衆……。

 必ず守って見せる。

 

 この悲しい動乱の世を超え、罪なき者が戦場に出されぬよう。

 俺の腕は短い。きっと南皮の民だけで精一杯なのかもしれない。

 だが、命をベットするだけの価値はある。


 袁煕としての人生は、無邪気に笑う民のための礎であると心得たり。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る