第33話 小姑戦争

 ふわりと綿毛のように身をひるがえし、甄姫しんきは宴席へと戻っていく。

 俺はその後姿を歯がゆい心持ちで見送るしかなかった。


 ここで追えない俺は、やはり史実の袁煕と同じなんだろうか。

 ヘタレだ凡将だのとこき下ろしてきたが、その実自分の魂が一番情けないままだったのかもしれない。


 少し……間を置けば……。


 前世でも碌に恋の駆け引きなんぞしたことがない。こういう時の女性の気持ちや、機微というものがさっぱりわからんよ。


 今日は諦めた方がいいかもな……。


 あそこまで激しい拒否を見せられたのだ。強引に押しかけても、かえって甄姫の心を閉ざしてしまうかもしれない。


 俺、悪くねえしな……。


 惰弱な思考が頭を洗濯機のように回転する。脳みそが乾燥するまで水分を搾り取られるようで、縮んでしまったかのようだ。


「いや、違う。きっとここが、この出会いを大切にすることが袁煕としての分岐点なんだ。だから立ち止まっちゃいけない」


 闇夜に一瞬の火花が咲くように、俺の中でスイッチが切り替わった。

 

 今彼女を追わずして、天下を追えるとでもいうのか。

 どんなときも必ず寄り添い、艱難辛苦を共に耐え、愛をはぐくんでこそだ。

 例え天が味方せずとも、俺が最後まで味方でいなくてはいけない。


 俺はチラリと月を見やる。

「だせえトコ見せたな。負けねえぞ、そこで眺めとけ」

 

 俺は憂いの姫の背を追って、再び宴席へと足を向けるのだった。



――宴席にて


「甄家の姫サンよぅ、ちっといいか?」


 涼し気な表情で先に戻って来た甄姫を出迎えたのは、袁家の長女と次女だった。

 蛇のようにクセのあるしなりを見せる、黒い髪の持ち主は袁譚だ。


 手櫛で頭をガシガシとかきながら、柳眉を逆立てて苛立たし気に甄姫の手前に座り込む。バルンと揺れる大きな果実に驚愕しつつも、甄姫は体裁を取り繕う。


「ご挨拶出来て嬉しゅうございます。袁顕思様。そして袁顕甫様。席を外してしまい申し訳ありませんでしたわ。して、わたくしめに何かお申し付けでしょうか」


 彫刻され、金属で固められたような偽物の笑顔は、一部の隙も無い。


(愚鈍な姉妹と聞き及んでいます。事を荒立てたくないという、嫁としての立場を理解できないお猿さんでしょうか……はぁ……本当にわたくしは運がない)


 二の句を継げようとする袁譚を制し、妹の袁尚が微笑みかける。


「大変ですわ、顕思お姉さま。甄家のお嬢様が大荷物をお抱えでいらっしゃいますの。一体どんなお顔でお運びのことやら」

「ああ、わかるぜ。分厚い薄ら笑いの白粉塗りやがって。そんなツラで可愛い顕奕と

くっちゃべってたんかよ。ええ?」


 甄姫は気づく。

 犬猿の仲と有名なこの両者は、とある一点においてのみ結託する関係なのだ。


 すなわち袁顕奕の問題である。


「袁顕思様、袁顕甫様、お二人ともそのように申されては甄は戸惑ってしまいますわ。何卒お心を割いておられる事情をお話くださいまし」


 駄目だこいつ、と袁譚は肩をすくめる。

 はぁ、とこれみよがしの溜息をつき、ぐびりと陶器の酒瓶に口をつけた。


「まぁまぁまぁ、心を割いていることがご理解いただけてますのに、どうしてご自分が蚊帳の外であるような口ぶりをなさるのでしょう。甄家ではそのように躾けられているのでしょうか? それとも私たち姉妹は貴人とはみなしておられないのでしょうか?」


 まあ、信じられない! とばかりに両手で口を覆い、袁尚は大げさな動きで甄姫を掣肘する。


 甄姫の瞳がかしいだ。

 具体的には、目元がピクピクと動いている。


(このバカ姉妹……わたくしに恥をかかせたいのでしょうか? それとも巷で聞くような嫁いびりとか。何にせよ、まともに取り合うのは愚の骨頂。適当に流しておきますわ)


 心の中で指針を決めた甄姫は、何を言われても馬耳東風で過ごすことにした。


 しかし残念ながら、この性格の悪い姉妹は、人の痛いところを見つけるのが非常に巧みであった。


「まー、顔は顕甫と張り合うくらいにはキレーだけどな。うっすいよなぁ……何処とは言わねえがよ、一瞬男が女装してんのかと思ったぜ」


 ビキッ。


 甄姫は己の最大の弱点を、いきなり無造作に攻められた。

 両目の筋肉が痙攣し、頬が引きつっていくのが分かる。


「う、うふふふふ、失礼しました。このように貧相な身ではご、ございますが……(クソが)……袁顕奕様にご満足いただけるよう、妻として精一杯勤めていく所存でございます」


 ぴんと伸ばしている背筋が、次第に前のめりになる。甄姫は無意識に飛びかかる姿勢をとっていた。

 平面・壁面・水面……およそ『面』とつくすべての字は、甄姫にとって忌むべきものである。

 

「まあ顕奕はオレたちのを見て育ってきたからなぁ。大丈夫か? 顔の化粧じゃなくて、胸を厚塗りしたほうがいいんじゃねえか?」

「お、お叱りは重々……(殺す)……身の引き締まる思いでございます。どうか喜ばしい席故、ご寛恕くださいますよう、伏してお願い申し上げます」


 わなわなと震えながら頭を下げる甄姫を見て、ツラだけ100点、中身マイナス一億点の袁尚が噴き出す。


「ぷーっ、本当に頭を下げちゃうんですね。あがいてもどうにもならないことですのにね。だっさ」


 ビキッ、ビキキッ。

 床についた甄姫の指先がくの字に曲がる。そのまま爪がはがれそうになるほどに。


「そんな安い行いをされると、お兄様の品格が下がるんですよね。ほらほら、額から角がはみ出てますよ。上手くお隠しあそばせ、オバサン」


(ぬぐ……っ、く……。ガキが……耐えろ、わたくし……耐えるんですわ!)

「何ぶつぶつ言ってるんですの、オバサン。耳が遠いのでしょうか」


 ブチ。


(こ、この、このアホ猿共が! わたくしは河北名門甄家の一の姫なるぞ! 無礼者が、口を慎め!! いくら三公を輩出した名家と言えど、言って良いことと悪いことがあるだろうが!)


「あぐ……く……、おのれ……。この屈辱……。コホン、いえ、少々お酒が回っておられるようでございますね。袁顕奕様はこの甄めにお任せいただき、姉君さま、妹君さまはお休みくださいませ」


 甄姫は二つ見誤っていた。

 一つは、惰弱で陰鬱とした袁煕こそが、袁一門で一番の常識人であることに気づかなかったこと。

 彼は時折奇妙な言動や思考をするが、その実周囲に迷惑をかけることを嫌う性格だ。甄姫の眼前にいる二匹のメス猿と同じ血が流れているとは思えないほどに。


 二つ目は、袁譚と袁尚の沸点が最も低くなるのが、袁煕を独り占めしようとする行為だ。

 普段は互いに刺客を贈ったり、毒物を仕込んだりする仲ではあるが、袁煕への執着心は異常ともいえる。

 きっと袁姉妹にはこう聞こえただろう。


『袁煕は私のものだから、でしゃばるな。余計な口をきくな。ゆうべはおたのしみでしたねって言えよ』

 と。


 袁譚と袁尚は腰に。甄姫は懐に手を動かす。


「絶壁、てめえ……立場を弁えろよな」

「お兄様を穢すことはまかりなりませんよ」


「山猿どもが……地獄の音を直接聞かせて差し上げますわ」



――

「甄姫、戻ったぞ。実は――え……」


 なんスか、この極限状態。

 今にも血しぶきが舞い、肉片が飛散しそうな空気感なんだが。


「わっはっはっは、いいぞ、やるがよい!」

 

 パパン、まだ笑ろてるんかい。そういう場合じゃねえだろ。

 クソ、決めてきた覚悟だ。ここで三者から刺されようとも本望ッ!


 俺は勇気を振り絞り、雄々しく制止の声をかける。

 大丈夫だ、きっと俺の真心はみんなに届くはずだ。


「もうやめるんだ! 俺のために争わないでくれ!」


 俺は三人の間に割り込む。


「顕奕、ちっと黙ってろ」

「ペッ」


「は?」


 姉妹にはキレられ、嫁には呆れられた。

 南華老仙の爺さんよ、これは何をすれば正解なんだよ。


 バタフライのように泳いでいる俺の目に、ふと、甄家からの贈り物の山が映り込んだ。

 財宝……金……。

 

 やることはもう、一つだよなぁ?

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