第32話 憂いの姫と、凡人の俺

 袁紹パパンがわろてる。

 周囲の家臣群もこれ幸いに良縁をほめちぎり、寿ぎの詩を吟じようと争っていた。


 名家同士の縁談はめでたいことだと思う。

 鶯が歌い、梅が匂いたち、山河に光がかかる。そんな見通しの明るい映像を幻視させてくれるのだろう。


 生涯の伴侶となるべき二人の門出に幸あれと、ご紹介から流れるように宴席へともつれ込んでいた。



――まあ、俺らは冷えっ冷えなんすけどね。


 君主が座る上席近くは、袁家血筋の者が配される箇所だ。

 今回の主役ということで、俺はパパンの最付近。つまりは第二の席次となっている。そして家族になるであろう甄姫は俺の左となりにいる。


「袁顕奕様、どうぞご一献」

「あ、これはご丁寧に……いただきます」


 おお、と群臣がどよめくほどの美しい所作に、花のかんばせ。

 流れる黒髪はまるで流星のごとし。雲雀を象った金の髪飾りが、かすんで見えるほどの眉目秀麗さだ。

 

 でも目が死んでる。

 こう……なんていうんだろうね。明らかにゴミを見るような視線なんですよね。


 花壇とか手入れしてるときに、庭石をひっくり返したらデカいゴキが出てきたときの目。それよな。

 

 いや、負けてはならんね。俺とてこの世界で何とか生きていかなくてはいかないんだ。袁家に転生した以上は避けては通れない婚姻である。ならば充実した結婚生活にするよう、俺から歩み寄るのが正しいのではないだろうか。


「うむ、美味い。そ、それではお返しに一献……」

「うえっ」


 神速で手を引っ込められた。

 シュパって音がしそうなほどの勢いだったぞ。いやいや、待ってくれ。確かに俺袁煕だよ、暗愚な方に足突っ込んでる武将だけどさ。そこまで露骨にせんでもいいよね。


「少し驚いてしまいましたわ。申し訳ありません、袁顕奕様」

 再び差し出された手には、赤い酒杯が一つ。そしてなぜか手袋をはめている。


「その……どうぞ……」

「いただきますわ」


 トクトク、と酒が入っている陶器瓶から気持ち少なめに注ぐ。

「ありがとうございます。お手数かけて申し訳ありません」

「い、いえ……」


 すげえ圧。

 甄姫は酒杯に注がれた酒……まあ、どぶろくに近いモンだが、それをまじまじと食い入るように見つめている。

 毒でも疑ってるんかね。散々俺飲んでたと思うんだけど。


「コク……コク……。ふぅ、美味しゅうございますわ」

 口元を布でそっと撫で、妖艶に微笑み返してくる。

 その佇まいはもはや神秘的ともいえるだろう。いくら今後の運命を知っているとはいえ、見惚れてしまうのは無理からぬことだと思う。


「袁顕奕様、わたくしはとてもお酒に弱うございます。主人となられる貴方様に醜態を見せるのは甄家末代までの恥ですわ。少し風に当たり、体の火照りをおさめてまいりますね」


「無理に勧めて悪かった。甄姫殿、体調を優先させてほしい。宴の席は少々堅苦しかろうしな」

「ご無理を申し上げて恐縮でございます。それでは……」


 心底嫌なんだろうな、この縁談。俺だってやべー奴と結婚しろって言われたら、舌噛んで死ぬぐらいの心境になるだろう。

 それでも表面をしっかり整え、両家の顔を潰さないように振舞う能力はすごいと思う。見習いたいもんだ。


 そんな風に黄昏ていると、背後から杯を握りつぶしたような音が聞こえた。こう、ボギョって感じに。

 恐る恐る振り返ると、姉の袁譚と妹の袁尚が修羅の形相で密談していた。


「あの野郎……顕奕の酒から逃げやがって」

「お姉さま、ご覧になりましたか? あの雌狐、布に酒を戻していましたよ」


 それはちょっとショックだな。

 でもなぁ……俺だってアルハラはしたくないしね。嫌いな人から酒飲まされるとか、年頃のお嬢さんには衝撃が強かろうよ。

 そういうところも勘案してあげよう?


「顕奕を見る目が気に食わねえ。袁家の嫡男を犬か何かだと思ってやがるのか。教育してやらんと気がすまねえなぁ」

「あの雌豚がお兄様を見下すとは、思い上がりも甚だしいことですわ。きっと寝台の中でも冷たくあしらってしまうのでしょう! ……なんてうらや、いえ、ありえないことです」


 ん?

 なんか君たち妙に息が合ってきたね。

 一方が右と言えばもう片方は左と主張する。そんな水と油の関係じゃなかったかな。


「立場ってやつをわからせないとダメだよな。袁家に嫁入りするってことは、顕奕の言うことを一から百まで聞くように躾ねえと」

 

 袁譚姉さん、それは事件です。

 この時代的に男尊女卑の思考はしょうがないんだけども、いくら何でも奴婢のような扱いはよろしくないっす。


「顕奕お兄様の手を煩わせるわけにもいきませんわ。きちんと調教して、あの高飛車な……ハァハァ……態度を崩させて……ハァ……涙目にさせてやるのがうへへへへ」


 もうお前は黙ってろ。

 袁尚の属性が広がりすぎてて、お兄ちゃん悲しい。

 

「うーむ、俺のほうから行ってみるか」

 独り言を脳内で発したはずだったが、言葉に出ていたと気づいた。俺はそっと立ち上がり、庭園の方へとフラフラ歩いてく。

 主賓だけあって結構飲まされた。あんまり下手をこきたくないが、このままゲス姉妹に任せるのは不憫極まることになる。


――

 月下に憂う、一夜の華とは甄姫のことを指すのだろうか。

 遠く。鄴の町を超え、その目の見やる先は遥か泰山か、それとも黄河か。

 もしかしたら本当に月でも見えてるのかもしれないと、変なことを思ってしまう。


「夏とはいえ、夜は冷えてきたね。体は大事ない……かな」

「ッ!! このっ……コホン、いえ、失礼いたしました。顕奕様に身を案じていただき、この甄は果報者でございます」


 寂しい目だね。

 まあ、そうだよな。年のころは俺より一つ下の十七歳と聞いている。

 籠の鳥と定められた身とはいえ、自由を謳歌したい渇望があるに違いない。


「――すまなかった。袁家が無理を言ったのだろう。そんな顔をさせてしまうのは、全ては俺の責任だ」

「……何を申し上げられているのか、甄にはわかりかねますわ。ほら、顕奕様もお庭をご覧なさいませ。このような夜でもたまぁに小鳥が鳴きますのよ」


 ないている……か。

 それは甄姫自身のことだろうな。

 俺はどうすればこの子の憂いを払うことが出来るのだろうか。今の力では何もかもが足りない。

 

 あるじゃん、ほら。

 男の意地っていうんかな。親に決められた路線を曲げて、自分で女性に愛を伝えたいって気持ち。

 今はまだ心が定まっていなくとも、自分の力で女性に振り向いてほしいっていう大志はなくしてはいけないと思うんだ。


 だから俺の口から出てしまったのは、情けない心情を、薄っぺらいもので塗り固めたような言葉だった。


「破談……にしてもいい。目を見れば、貴方の気持ちは分かる……と思う。だから……」

「出来もしないことを述べないでくださいません?」


 鋭い舌鋒に貫かれる。

 わかっていたつもりだった。甄姫が自分の今までを投げ捨て、全てを諦めてここにいることを、わかっているつもりだった。

 

 一陣の風に、夏草の香りが運ばれる。臘月はきっとハラハラしながら、俺たちをのぞいていることだろう。


「名家に生まれた以上、義務を果たすのが使命。斯様なこともわからぬほどに愚鈍とは恐れ入りますわ。わたくしが……わたくしがどのような想いでここにいるのか、本当に理解できませぬか?」


「袁家と甄家の繁栄のため。そして河北安泰のためだ。それはひいては民のためになる」

「それが理解出来ておりながら、情けないことを口に出されるとは」


 甄姫は腰から鉄の笛を取り出し、俺に突きつける。


「この身は袁顕奕様にお捧げしますわ。如何様にもお使いくださいまし。ですが、わたくしの心を手に入れたと思われては困ります。ご心配なくとも、公の行事に支障をきたすような真似はいたしませんわ」


 ですが、と言葉を続ける。


「わたくしは、誰も愛しておりません。そんな女と道を共にするのは、さぞお辛いことでしょうね」


 初めて甄姫の、心からの笑顔を見た。

 それは濁った泥水のように暗く、自らを省みない自嘲気味な瞳で。

 

 凡人の俺は、それが例えようもなく悲しかった。

 

(やるしか……ねえよな)


 この身を鍛え、民に誠実であり続ける。軍においては勇猛に、政においては公正に。

 いつの日か、甄姫を覆う厚い雲を晴らすことが出来るよう、尽力したいと思ったんだ。

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