喪失気味な少年とハンバーガール

ハッピーサンタ

喪失気味な少年とハンバーガール

 ――うっ、眩しい……。


 開いたばかりの眼に大きな光が差し込む。寝起きの涙目の影響か、視界は全くと言ってもいいほどはっきりとしておらず、ぼかした絵具が何色か混じり合ったかのような光景が目の前には広がっているようだった。


 そして、夢から醒めた後は、視界だけでなく意識も少しだけ朦朧としてしまうものだ。俺は再び目をつぶり、全神経を脳へと向けた。


 さっきまで観てた夢はどんな話だったけ?

 寝る前、俺は何をしてたんだっけ?

 寝る前のさらにその前は、どう過ごしていたんだっけ?

 俺は何処に住んでいて、何をして生計を立てていたんだっけ?

 生まれ育った故郷は、親の顔は、これまで出逢ってきた人との思い出は、どんなものだったけ?

 俺の名前ってなんだったけ?


 ……俺っていったい誰のことだ?


 と、まあこんな風に健全な程度には、俺の寝起きの脳みそはボケていられる。


 ん?いや、これのどこが健全なのだろうか?


 ふと、俺の頭にそんな単純な疑問が浮かび上がる。俺の感覚だと、先程目覚めてから既に二十分以上経過しているような気がしているが、俺の脳みそは一向にバグったままだ。何も思い出せない。


 ……どうしよう。俺、さすがにヤバくないか。この歳にして認知症とか、いくらなんでも老いるのが早すぎると思うのだが……とは言ったものの、そもそも現在自分がいくつであるかすらもわからない。


 さてどうしたらいいものか?俺は一旦、深呼吸をして動揺していた心を落ち着け、十秒間位悩みに悩んで悩んだ結果、この記憶喪失という状況をなんとか解決できそうな打開策を思い付いた。

 それは――、


 とりあえず病院に行って診てもらおう!


 という至って当たり前のような考えだ。まあこれ以上、ここで寝っ転がったまま思い悩んでいても現状は変わらないからな。病院で診てもらう以外、選択肢もなかったし……(かかりつけ医ってどこだったけ~?)


 でもまあ、急に記憶喪失になってしまった人たち皆そんなものだろう。それに、病院の先生たちもある程度、急に記憶をなくした人が自分たちのところに訪ねてくることには慣れているだろうし、案外簡単に、すんなりと記憶が戻ってきてくれるかもしれない。


 よしっ!病院に行って、記憶を取り戻すという決意が固まった今こそ、寝ぼけまなこを開いて起き上がるべきだ!!


 そうやって少し強引に、ちょっとでも気を抜いたらマイナス方向へと引っ張られそうになる思考を、なんとか前向きに持っていこうとしたその時だった。


 ――ぐらっ


 ……えっ!ま、枕が動いた!?


 そう、今まで俺の頭が乗っかていたと思われる枕が動いたのだ。それと同時に頭の下の枕から、ほんわかと甘い香りがした。


 あれっ?これってもしかして……。


 俺は頭を横に傾けた状態で、恐る恐る目を開いた。


 寝起きすぐの時とは違い、視界は通常通りはっきりとしている。


 今、まさに俺がの当たりにしている光景が眼に入った瞬間と同時に、先程の甘い香りとは別の強くて馴染み深い香りがした。


「――んっ、もごもごもごもご」


 ……えっ、!?


 俺は自分の顔を上から覗き込んできた、を咥えたをしばらく見つめたまましばらくフリーズし、今の状況を把握するまでにしばらくの時間を要したのだった。


 ~~~


 つい先程までの俺の置かれていた状況を整理すると……俺は潮風が心地よく当たる海岸線上で、ハンバンガーを咥えた美人の若いお姉さんに膝枕になってもらっていた、ということだ。


 自分が今いる場所を把握できたからか、確かに海の方から流れてくる潮の匂いも鼻に感じてきた。


 もちろん、彼女に膝枕されていたことに気付いた俺はすぐに彼女の膝から自分の頭をどかして起き上がり、とにかく必死に頭を下げた。それについては、特に当の本人は気にしている様子もなく、ずっと口の中に含んでいるハンバンガーをもごもごさせながら、ニコニコと優し気に微笑んでいるようだった。


 彼女は今、立ち上がって海の向こうの水平線を観ながら、ずっとハンバンガーを食べている。

 ハンバンガーを幸せそうにしながら貪る彼女の姿は、記憶を忘れてしまう前に観てきた情景も含めて、なんだか今まで俺の眼に映ったものの中でも一番美しく思えた。


 まず、何と言っても、薄い無地のロゴTの上に、落ち着いたグリーンの薄手のニットのカーディガンを羽織り、それに合わせたホワイトのチュールロングスカートが心地良い潮風で揺れている姿から俺は目が離せない。おまけに、彼女の左肩に掛かっているベージュ色のショルダーバッグも、その服装に合うようにぴったりとコーディネートされている。そして顔はもちろんのこと、服の袖から出ている細い腕や、スカートから少し出て見えるお洒落なブラウンのブーツを履いた足首も、とても綺麗な形をしていて、真っ白な肌をしている。

 また、海の色にも負けない透明感のある美しい青色の髪は、豊かに膨らんだ彼女の胸を覆い隠す程の位置まで伸びていて、こちらも潮風に乗ってさらさらとなびいている。

 そしてなにより、大事そうにしながらも、無邪気にハンバーガーを黙々と集中して食べているからか、最初に感じた大人びた表情の中に、少しだけ幼さが溶け込んでいる感じが、またときめいてしまう。


 そんな姿を、どこまでも果てしなく広がっていそうな海とともに、ずっと彼女を眺めてしまっていたことに気付いたのか、少し不思議そうに首をかしげながら、この青空よりも綺麗に輝く水色の瞳で俺の方を見つめ返してきた。

 俺はその姿にまたしても息を飲んだ。


 か、可愛い……。


 歳は二十歳くらいかな?

 大学に行ってるのかな?

 彼氏とかいるのかな?


 と、少し不純なことも考えてしまう。


 彼女は俺をしばらく見詰めると、また何事もなかったかのように、ハンバンガーを口の中へと運んでいく。

 バンズに押されて出てくる中の肉汁やレタスに含まれた水分が、彼女のほんわかとしたピンク色のぷるっとした唇を濡らす。

 そんな何度も目を奪われてしまった可愛らしい表情にプラスして、右手を頬に当て「ん~」と声を漏らし、ずっと幸せそうにしている仕草が少しだけ小動物のように思えてしまい、ずっとこの光景を愛でていたくなる。だが、そんなことをしてしまうと、また彼女に変な目で見られてしまうだろう。それはちょっと避けたい。


 そんなことを考えているうちに、彼女はハンバンガーをキレイに食べ終えており、先程までそれが入っていた空の袋を、ショルダーバッグから取り出したビニール袋に入れて処理し、手をしっかりとシートで拭いているところだった。


 そういえば、俺はまだ彼女の声を聞いていない。いや、確かに先程ハンバンガーの美味しさに、とろけるような声を漏らしていたり、もごもご言っていたのは聞いたのだが……まだ彼女の話し声を、彼女の本当の声は聞けていない。

 俺が彼女に膝枕されていたと気づいた時も、俺が一方的に謝罪し、それを彼女は優しく微笑みながら、頷いて受け入れてくれただけで、声は発されなかった。


 きっとこんなにも、可愛くて美しく、毎秒目を奪われてしまう彼女だから、きっと声も一音一音が綺麗で、もし彼女と話すことができたら、俺はあまりのときめきで心が抑えられなくなるかもしれない。

 それでも俺は、どうしても彼女と話したくなってしまった。


 これが恋というものなのだろうか――。


 そう頭によぎる。


 ヤバい……確実に好きになってしまった。


 俺は勇気を振り絞って再び彼女に声を掛ける。

 今度は謝罪の言葉ではなく、彼女との新たな関係を進めるための第一歩となる言葉を。


「あの、よろしければ俺と――」


 だが、俺の言葉は途中で途切れてしまった。そうなってしまったのは、別に気を失ってしまったとか、緊張で声がでなくなったとかではなく、驚きと幸せが一気に俺の右手に降り注いできたからだ。

 彼女が両手で優しく俺の右手を包み込んできたのだ。そして、すこしかがんで下から俺の顔を覗き込むと、「ふふっ」っと微笑み、俺の手を引っ張りながら急に駆け出した。

 俺は一瞬だけパニックになりかけたが、彼女においていかれないように、一緒に彼女が向かう方へと駆け出した。


 彼女は真っ直ぐ俺の手を引きながらも、たまに振り返って俺の方を見てくる。

 俺の方を振り返る度に、彼女のホワイトのチュールロングスカートに空気が入って、ふわっとなるのがまたドキッとする。


 まったく、どうしてこんな動きずらそうな恰好で、彼女は走っていられるのだろうか?


 俺は彼女についてまだ何も知らない。いや、なんなら彼女のこと以前に、自分のことすら少しもわからない。

 それでも、今、彼女が繋いでくれているこの手が、なにもかも導いてくれるような気がした。

 だから、これから先のことは忘れないようにしよう。

 まだ出逢って数十分。彼女の性格もはっきりとはわからないし、彼女の話し声もわからない。そして何処へ俺を誘おうとしてくれているのかも、さっぱりと見当もつかないが――。


 せめて、今感じられるものだけは、忘れないように記憶に叩きつけよう。


 俺の目の前を行く彼女のとても綺麗な後ろ姿を。

 振り向いてくれる度に、その笑顔が可愛くて素敵なことを。

 繋いでくれているこの彼女の左手の先っぽが、少しひんやりとしていることを。


 絶対に、絶対に憶えておこう――。

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