第41話 解けてしまった暗示術
古来より、峠や村境、橋、辻は、異界の境界とされている。また夕日が沈み、人の見分けがつきにくい時刻のことを
人ならざぬ者に出逢いやすくなる空間と時間の中で、希魅は呪毒移しの儀を行うという。
日が山に沈んで薄暗い中。草世は、希魅に指示された場所に立った。
それは、何の変哲もない、峠の頂上。見下ろした視界の先には、床支村の家々に明かりが灯っているのが見える。
見知った人間世界ではある。だが、人間世界ではない。その証拠となるのは、木々の間に灯っている白い炎。その数、およそ百。
白い炎をよく見ると、真っ白い狐の姿が見てとれる。狐の体から白い炎が発せられているのだ。
草世は狐火に囲まれていることを知ると、異界に足を踏み入れてしまったことを感じて恐ろしくなった。真珠狐を胸にしっかりと抱く。真珠の温もりと毛の柔らかさが、不安を和らげてくれる。
真珠の存在が大きくなっている。真珠のいない世界はもう考えられないと、草世は思った。
「ぎゃらてぃぎゃらてぃおんゆるのすさすからのんあさむえさえびのことがらすおのさ……」
希魅は座り込むと、独特な節回しでもって呪文を唱え始めた。
呪文は言霊である。言霊は光となって、真珠に体内に入り、真珠狐の体を白紫色の炎で包んだ。
草世は炎に焦ったが、熱くはない。
呪文を唱える希魅の声が、一段と大きくなる。すると、白紫の炎の中に小さな卵が一個、ぽとりと出てきた。
「呪毒卵だ。思っていたより小さいな。さすがは真珠。成長を抑えおった。さてと、草世。覚悟はできていると思うが、今なら断ることもできるぞ?」
「断ったらどうなるのですか?」
「せやな、役に立たない白狐にでも移してやろかいな。それがええわ。いい思いつきやわ。修行をせずに、遊んでばかりいる白狐などいらんからな。……誰にしようかな。天の神様の言う通り。プッとこいてプッとこいてプップップ。もう一つおまけにプップッ……」
希魅が狐火に向かって指を順に指していくと、狐火がぐらりと揺れた。
「ひぃー!」「お情けを!」「逃げろ!」
悲鳴が木々に響き渡り、白狐たちは押し合いへし合い逃げていった。
百ほどもあった狐火が一つ残らず消え失せ、木々の間に薄闇が広がる。
「根性なしどもめっ! 一匹残らず帰っていったわ。われは修行している、役に立つと言える者はおらんのかいな!」
「プップップって、京の都の数え歌ですね。懐かしい」
「うちは、一ヶ所にとどまるのは苦手でな。遊び場を変えておる。最北で覚えてきた数え歌を教えてやろう。つのつのこつじ、おやじのはげあたま」
「ハハっ! おもしろい数え歌ですね」
草世とともに、希魅も笑った。そしてふっと、悲しそうな色を瞳に宿らせた。
「真珠だから、卵のままで抑えられた。だが、人間には無理だろう。闇に染まることなく、生きるのは難しい。うちだって、やさぐれるときがあるからな。……草世、虫を飼い慣らせ。生きよ」
「はい」
希魅がてのひらの先を草世に向けると、白紫色の炎は呪毒卵を内包したまま、草世の体へとスーッと入っていった。
熱さも痛みも不快感もない。呪毒卵の存在も感じない。だが草世は、嵐の前の静けさを身の内に感じた。
真珠の足が、ピクンと動く。弱かった呼吸が確かなものになり、胸が大きく上下した。
「真珠っ⁉︎」
「あ……」
真珠の瞼がゆっくりと開く。濡れている黒目が、草世を捉えた。
「草世……」
「ああ、そうだ。僕だ。草世だ。真珠……」
大丈夫かい? そのように言葉を続けようとしたのだが、熱いものが込み上げてきて、草世は言葉にすることができなかった。熱いものは涙となって、頬を流れる。
「草世だあっ!」
真珠狐は草世の腕から飛び降りると、人間に変身した。涙をこぼす草世を慰めようと思ったのだ。しかし真珠は、三歳くらいの女の子になってしまった。
変身がうまくいかず、首を傾げる。
「あれ? 大きくなれない」
「霊力が下がっているのだ。呪毒卵の成長を抑えるのに、だいぶ霊力を使ったのだわ」
希魅は真珠を手招きした。
「おいで。大切な話がある。草世はそこで待て」
希魅は真珠を呼び寄せ、呪毒卵について話し、さらには呪いを放った陰陽師のことも話した。
話が終わった頃、真珠の父親が大慌てでやってきた。灰色の髪と着物が乱れている。
「希魅様、大変です!! 人間の若者ですが、われが行ったときには、すでに虫になっておりまして、その虫の成長が早い! あっという間に成虫になりまして、人間の意識を乗っ取ったのです。で、その若者が暴れ回っております!!」
「っ!!」
草世は息を飲んだ。
「意識を乗っ取って、暴れ回っている……? 直志と同じだ……」
「同じに見えて同じではない。丹地風呂屋の場合は、村人を殺す呪いやった。だが、吾平は違う。虫は、吾平の心の闇で育った。暴れているってことは、そういう心の闇やったってわけだ。心の闇の具合で、虫がどう育つか、変わってくる」
「…………」
「しかし、吾平という男。呪毒卵を体に入れてから、たった三日で成虫にさせるとはさすがや。虫を育てるのに栄養満点な、心の闇やったんやな」
真珠の父親は、乱れている着物の前を合わせ、帯を整えると、ツンと澄ました顔で言った。
「そういえばこれは、関係のない話だとは思うのですが。虚無僧が、尺八を吹きながら村中を歩いておりました。その尺八の音色が下手くそでして。奇妙な音程で、村人たちの心をかき乱しておりました」
「あほんだらっ! 下手なのではない。真珠がかけた白狐の暗示術を解いたのだ!! 関係ないことあらへんやん!!」
「へっ?」
真珠の父親は、希魅がなぜ怒ったのか理解できずにぼさっと突っ立っている。希魅は懐から扇子を取りだすと、扇子で父親の頭を叩いた。
「痛っ! 希魅様、なにをするのです⁉︎」
「おまえのことだ、虚無僧を黙って見ていたんやろ! 止めんかい!! ったく、脳みそを道端に落っことしたような男から真珠が生まれたこと、奇跡やわ! 頭の回転の悪い男、嫌いやわ。消えておしまい!」
「ひぃぃぃぃぃーーっ!!」
父親は人間から白狐の姿へと戻ると、森の中に走っていった。
真珠がかけた白狐の暗示術が解けてしまった──。
それが意味するのを理解した草世と真珠は、顔を見合わせた。三歳児になってしまった真珠は、舌ったらずな物言いで慰める。
「草世、だいじょーぶ。わたし、また、暗示術かけるね!」
「まともに変身できないのにか? 霊力が元に戻るのに、五日はかかるぞ?」
割って入った希魅に、二人は口を噤んだ。希魅が凛と澄んだ声で問う。
「真珠は白狐の掟を破った。掟を破った者は村においておけん。追放や。悪いが、掟は絶対なのだ。──草世、真珠を妻にする気はあるか?」
「あります」
「そうか。人間もそうだろうが、白狐も、婚姻とは契約。契ったら、破ることも逃げることもできん。契約が切れるときは、死ぬとき。真珠は普通の白狐ではないで。神様に選ばれた特別な子。真珠と婚姻するということは、真珠が背負う運命をあんたも背負うということ。他人が与えた選択肢の中で生きては、死ぬで。目の前に出された選択と答えに疑問を持ち、抗え。常に己で最善の答えを探し、ともに生きる道を作れ」
◇◇◇
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