第33話 春子に接触した者
季節は本格的に春を迎えようとしている。たまに降る雪は、水分を多く含んだ重いものへと変わった。
村長の家に行く途中に、共同の井戸と洗い場がある。洗濯をする女たちがそこに集まり、その中には真珠の姿もある。春子と楽しそうにおしゃべりをしながら、タライの中にある服を揉み洗いしている。
真珠は都のお姫様らしい着物を着てしゃなりしゃなりと歩く日もあれば、木綿の着物の裾を上げて村人の畑の手伝いをしている日もある。
顔に泥をつけて大根を掘っている様は百姓そのものだが、上品な雰囲気が損なわれることはなく、村の人たちに「さすがは都のお姫様。生まれがいいと、なにをしても様になる」と感心されている。
村に溶け込む努力をしている真珠を見ていると、草世はいたたまれない気持ちになる。
雪かきをしたり、畑の手伝いをしたり、馬小屋の掃除を手伝ったり、お風呂を沸かしたり、洗濯をしたりと、真珠は人間らしいことをしたがる。
──真珠は人間になりたがっている。人付き合いを覚えて、村に溶け込もうとしている。それは、すべて……。
「僕を一緒にいるため、なんだろうな……」
真珠のひたむきな愛がいとおしくもあり、苦しくもある。
白狐は、神聖なる神様の使い。そのような白狐に生活の雑務をさせるなど、神様に罰当たりなことをしているように思えてならない。彼女には気高くいてほしい。
人間になりたい真珠と、白狐らしくいてほしい草世。二人の願いは、違う。
視線に気づいた真珠が顔を上げた。草世のあげた揺れもの
真珠は、ぱぁぁぁぁっと花が咲いたような笑顔で、右手を大きく振る。水滴が飛び散って、春子は顔をしかめた。
「そうせーーいっ!」
洗濯をしていた女たちが一斉に草世を見る。好奇心と興味が混ざった女たちの含み笑いに、草世は逃げだしたくなった。が、手を振ってくれたのに、無視して逃げては真珠が悲しむだろうと思い、羞恥心に堪えてその場に踏みとどまる。
「そうせーーーいっ!!」
「う、うん」
真珠はまだ手を振っている。
「そうせーーい! 真珠だよーーっ!!」
「う、うん。わかっている」
「そうせーーいっ!! わたし、ここにいるー!」
いったいいつまで真珠は、名前を呼びながら手を振り続けるのか。
もしかして……と、草世は考える。
(僕が手を振り返すのを待っている? いやいや、無理だ! そんな恥ずかしいこと、できない!!)
だが、真珠はぴょんぴょん跳ねながら、名前を呼び続けている。このままだと、何事かと、他の村人たちも寄ってきてしまいそうだ。
やめさせるために草世は、手を小さく三度振って、すぐに下ろした。真珠は満足顔で、名前を呼ぶのと手を振るのをやめた。
(子供に手を振ったことはあったが、女性に手を振るのは初めてだ。こうして僕は、自分の殻を破っていくのだろう……)
◇◇◇
洗濯を終えた春子は、洗った服をタライに入れて家へと帰る。
辻道に、尺八を吹いている虚無僧がいる。
春子は、虚無僧が胸に掛けている
顔を背けて横を通りすぎ、少し歩いて、立ち止まった。
(あれ? 手があったっけ?)
尺八を吹いているのだから、手があるだろう。だが、手を見た記憶がない。
気になって振り返ったと同時に、高さの違う音が狂ったように鳴り響いた。春子の脳がかき乱される。
──ピシャンっ!!
真珠が春子にかけた暗示術が破られた。
虚無僧の低いしゃがれ声が、春子を
「真珠という女が憎かろう」
「ええ、憎たらしいわっ! 絶対に許さない!! ……えっ?」
口を突いてでた言葉に、春子自身が驚く。
「どうして? 真珠とは友達なのに……。え、友達? なんで? 私から先生を奪った泥棒猫なのに……」
タライが落ち、洗ったばかりの洗濯物に土がつく。
「なんで、あの泥棒猫と友達になったわけ? 先生との結婚を喜ぶなんて、そんなのおかしい……」
「あの女は人間ではない。狐だ。そなたは狐に騙されているのだ」
「狐……」
虚無僧は春子の眼前に来ると、袂から包み紙を取りだした。藍色の長い袖に隠れて、やはり手は見えない。
「この薬は、人間が飲む分には死ぬことがない。だが狐には毒になる。試しに、憎い人間に飲ませるといい。なんともない」
「…………」
「そなたの人相。辺鄙な田舎で一生を終えるのは実に惜しい。都でこそ、才が花開く。女狐ではなく、そなたが草世先生の妻になるに相応しい」
「本当に⁉︎ 私、都で花開くの⁉︎」
「自分を信じるのだ」
虚無僧は深編笠の中で、「くくっ」と低く笑った。
◇◇◇
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