四章 月に叢雲花に風
第20話 彼の手の温かさ
白狐の住む異界から人間世界へと飛び出た真珠は、雪が積もっている地面に崩れ落ちた。
「逃げられた……わたし、逃げられた。良かった……」
真珠はゼーゼーと大きく呼吸をすると、立ち上がり、体をぶるぶるっと震わせた。崩れ落ちた際に白い毛についた雪が振り払われる。
日の暮れゆく村境。道を歩く人の姿はなく、茜色に染まった空には、寝床に帰るカラスが三羽飛んでいる。
一気に霊力を放ったせいで、気力も体力も低下している。休みたいところだが、白狐の姿でいるわけにはいかない。いつ人間に出くわしても大丈夫なように、真珠は人間の姿へと変身した。
霊力が下がっているせいで、変身の質が下がってしまった。艶やかな正絹の着物ではなく、海老茶色の絣着物。頭にはほつれ毛が目立つ。
それでも、草世を慕う気持ちが力をくれる。真珠は草世に会うために、力いっぱい走った。
草世は家に帰ってきていた。窓から明かりがこぼれ、藁葺き屋根からは煙が出ている。
真珠は勢いよく、玄関戸を引いた。草世は待ちくたびれ、ぼんやりとした顔で上り口に座っていた。目が合う。
「草世! 帰ってきた!!」
「おかえり」
「あ……ただいま……」
おかえり、ただいま。おかえり、ただいま。おかえり、ただいま……。
真珠は口の中で反復すると、ごくりと唾を飲み込んだ。
「わたし、帰ってきて、良かった?」
「うん? あぁ、もちろん」
「役立たずだから、帰ってくるなって、神社にお祈りしていない?」
「ハハッ! まさか」
草世はおかしなことを聞くものだと笑い飛ばした。
「姿が見えないから、探しに行こうかと思っていたところだ。字を覚えて、書き置きができるようになるといいな」
探しに行こうかと思っていた──。
その言葉に、真珠は必要とされているのだと感じて、胸が詰まる。
「草世、やさしい。草世の家、楽園」
「大袈裟だ。こんな古くて汚い家、楽園じゃないぞ」
「いいのいいの!!」
涙がぽろぽろとこぼれる。
いままでずっと、悲しくて、つらくて、寂しくて、情けなくて、怖くて、涙を流してきた。けれどいま。頬を流れる涙は温かく、ほんのりと甘い。
「どうしたんだい⁉︎ なにかあったのかい?」
「兄様にいじめられた」
「なんだってっ⁉︎ 困った奴だ!!」
腹を立てる草世に、真珠は笑みをこぼした。怒ってくれる人がいる。そのことがとても嬉しい。
真珠のお腹がぐ〜っと鳴り、鼻が食欲をそそるにおいを嗅ぎ当てる。
「いいにおいがする。このにおい、知っている! 油揚げうどんだ!!」
「当たり。だけど、この前食べたうどんとは違うぞ」
「なになにっ⁉︎ うどんが柿になっているとか?」
「それは、うどんとは呼べないなぁ。そうではなく、なんと、油揚げ三枚乗せだっ!」
「きゃあーーっ!! あのねあのね、わたしねわたしねっ!! 油揚げがいっぱい乗ったうどんを食べたいと思っていたの! なんでわかったの⁉︎」
「だって、油揚げが好きだろう? いつも、一枚じゃ足りないって顔をしている」
白裂によって、杉の幹に磔にされたとき。真珠は、草世の顔を見たい。声を聞きたい。手にふれたい。草世の作る、油揚げがいっぱい乗ったうどんを食べたい。そう、願った。
それらの願いが叶ったことを喜んだのも束の間、大変なことに気づく。
「あっ! 一個だけ、叶っていない!」
真珠は
「手にさわっても、いい?」
「あ、あぁ……うん……」
「大好き」
「…………」
力なく下がっている、草世の手。真珠は後ろから、彼の右手に自分の指を絡ませた。
空気を切り裂く鋭い風の音が聞こえてくる。
けれど、草世の手は温かく、真珠の胸も温かい。
「わたし、幸せ」
「それは良かった」
「草世は、幸せ?」
「…………多分。そうだと、思う……」
ぎこちない口調で答える草世。真珠が手を離して草世の顔を見ると、真っ赤に染まっていた。
「顔、赤い。熱、あるの?」
「そういうわけじゃない。心配いらない」
草世はそそくさと離れると、竈に乗っている鍋の蓋を開けた。湯気が立ち、だしの香りが食欲を刺激する。
湯気を顔に当てながら、草世は片手で顔を覆い、ため息をついた。
(真珠はいつも、突拍子もないことをする。心臓に悪い。……前までは、好きと言われても聞き流していたはずなのだが……。今日はやけに耳に残ってしまうのは、どういったわけなんだ?)
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