第18話 冷酷な兄

 真珠狐の口が動く。だが、あまりにもか細い声だったため、白裂しらさきには聞き取れなかった。

 しかし、白裂にはわかっている。真珠は謝罪を口にしたのだ。謝罪は、白裂が徹底して教えてきたことだからだ。


 白裂は、真珠を屈服させるのが好きだ。謝罪の言葉を教え込んできた。

「ごめんなさい」「許してください」「わたしが悪いです」「生きていてすみません」「恥さらしですみません」「穢れた血が流れていてすみません」「わたしの母は野狐です。父を誘惑した悪い女です」「わたしはいらない子どもです」「役立たずです」

 同時に、兄を敬うよう教えてもきた。

「兄様は素晴らしい」「次の長は兄様です」「希魅がいなくなって、兄様の時代になりますように」「脳なしのわたしをしつけてくださって、ありがとうございます」「婢女はしための血が流れているわたしを、妹だと呼んでくださって感謝しています」

 さらには、白狐の理想の生き方を説いてきた。

「はい。兄様の言うとおりです。白狐は神の使いではありません。神と同等の存在。人間に従属するなど愚かです」「白狐はあやかしの頂点に立つ、気高い存在です」「人間に従いません」「関わりません」「人間など無視します」「白狐こそ、人間の上に立つ支配者です」

 

 だから白裂は、妹が許しを乞うのを、兄を敬うのを、人間を見下す発言をするのを期待して、耳をそばだてた。


「希魅様に誑かされて、人間の家に行ったことを謝りたいのだろう? よかろう。思う存分に謝るのを許す」

「謝らないっ!!」


 真珠狐は四肢を広げ、お腹を出した状態で叫んだ。さきほど小さな声でつぶやいたものを、はちきれんばかりに叫ぶ。


「家には帰らないっ!!」


 予想外の言葉に、白裂は反応が遅れた。


「……何を言っておる? 私が帰ってきて良いと許可してやったのだ。帰らないという選択肢は、おまえにはない」

「帰らない、帰らない。もう、嫌だ……」


 真珠の黒い双眸から、涙がこぼれ落ちる。

 草世に出会って知ってしまった、やさしい世界。薬を塗ってくれた温かな手。いたわりの言葉。穏やかな眼差し。

 草世は、失敗しても怒らない。気にしなくていいと慰めてくれる。嫌なことを強要しない。うまく話せなくても叩いたりしない。おいしいご飯を食べさせてくれて、綿入りの柔らかいお布団に寝かせてくれて、真珠と名前で呼んでくれる。

 家族や仲間たちに無能だと罵られ、虐げられてきた真珠にとって、草世との生活は楽園。手放したくない。


(草世のいる家に帰りたいっ!!)


 白裂がかけた呪縛術を解くべく、真珠は腕に力を入れた。だが白裂は、次の長として期待されているだけあって、術が強い。抗えば抗うほどに、その反動で呪縛が強まる。

 拘束力が増し、胸が圧迫され、真珠は喘いだ。苦しさで瞳孔が見開く。


「ううっ……」

「ハハっ! 苦しいか。そうだ、おまえは苦しむべき存在なのだ。十分に苦しめ。そして、私を楽しませろ。おまえは姿だけは美しいが、野狐の血が流れている。それなのに赤い月の晩に生まれるなど、生意気この上ない。だが、呆気なく死なれては困る。楽な死に方を、おまえに与える気はない」


 赤い月が昇った日に生まれた子は、特別なる神の使い。大義を果たすべく、並外れた霊力を備えている。

 そのような言い伝えを、白裂も真珠の両親も、仲間たちも知っている。だからこそ、真珠を容認できない。

 真珠の父親が気の迷いで手を出した、野狐。その野狐が生んだのが、真珠。

 真珠は、純粋なる白狐族ではない。もののけに分類されている野蛮な野狐が純粋なる白狐よりも霊力を持っているなど、白狐族の威信と自尊心を傷つけるものでしかない。

 

(真珠はまだ霊力を開放していない。目覚める前に、私の支配下に置いて徹底的に痛めつけ、潰してやる!)


 白裂は細い目をつり上げると、歯を剥き出しにして笑った。


「おまえに命ずる。人間を殺せ」

「っ!!」

「人間の家に住んでいるのだろう? そいつを殺してこい」

「…………」

「口約束は不要。私に絶対服従を誓え。さすれば、生かしてやる」

「……嫌だ……従いたくない……」

「ほほぅ。兄に逆らう気か? 生意気な。人間に悪い影響を受けたようだ。さすがは低俗なもののけ。ちっとも役に立たない。野狐が格式高い白狐様に逆らうとどうなるのか。卑しい血が流れているその体に教えてやろう」


 白裂は後ろ足で立つと、細長い体をゆらりと動かした。再び、黒い瞳が赤へと変わる。

 白裂が白狐の光剣術を唱えると、その手にまばゆく光る剣が出現した。


「体のどこを刺してほしい? 選ばせてやる。手か? 足か? それとも、目か? あぁ、目がいい。愚かな人間の世界に行けないよう、目を潰してやろう」

「嫌っ!!」


 真珠は、ありったけの力で拘束を解こうと試みる。しかし、呪縛は緩まない。杉の幹から体を引き剥がせない。

 暴れた反動で呪縛術が強まり、筋肉が悲鳴をあげ、骨が軋む。


(痛い、苦しい、死んじゃう……。草世、会いたい……)


 草世の顔を見たい。声を聞きたい。手にふれたい。草世の作る、油揚げがたくさん乗ったうどんを食べたい。

 でも、きっと叶わない。兄を本気で怒らせてしまった。怪我をしても、白狐の治癒力で治すことができる。だから、剣で刺されること自体は怖くない。

 怖いのは、草世に会えなくなること。

 謝って許してもらったとしても、もう、人間界に行くことはできないかもしれない。座敷牢に閉じ込められてしまったら、逃げ出せない。


「草世、草世……」


 涙が真珠の白い毛を濡らす。



 

 

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