三章 呪術と呪詛

第13話 奇跡の沸かし湯

 朝ご飯を終え、草世が台所で食器を洗っていると、村長が血相を変えて飛び込んできた。


「先生、大変じゃ!! 丹地風呂屋の様子を見に行ったら、怪我をしておる!!」

「直志が⁉︎」

「いや、親のほうじゃ!!」

「親……」


 草世の背中を冷たいものが走る。いつかこのときが来るかもしれないと、恐れていた。

 草世は洗い物を中断すると、医者の鞄を取りに行く。文机の前に座っている真珠と目が合う。

 真珠がまだいることを、村長に知られてしまった……。

 昨日村長は、「先生の恋などどうでもいい! 大切なのは、村の平和と秩序。はよう姫様を帰しなされ!!」と威圧的な態度で声を張り上げた。

 草世が恐る恐る振り返ると、村長は大きなため息をついたところ。長くて白い眉毛のせいで、村長の目は見えずらい。

 なにを考えているかわからないが、真珠がまだいることに憤怒しているだろう。そう、草世は思ったのだが──。

 村長が発した声は、落ち着いたものだった。


「本当は都のお姫様ではないんじゃろう? 都の女がたった一人で、この村までたどり着けるはずがない」

「村長さん……」


 村長は、なにもかもわかっているという風に大きく頷いた。


「綺麗な子じゃ。身請けしたんじゃろう。先生は堅物だと思っておったが、案外好きものであったか。しかし、村に連れてきてもらっては困る。春子と吾平は騒ぐのをやめないだろう。困ったものじゃ」

「……全然違います……」


 身請けなどと、なぜそのような発想になったのか。眩暈がして倒れそうだ。だが、村長の誤解を解いている暇はない。

 唯一ありがたいのは、昨日村長が威圧的だったのは、村人たちの意思を汲んだだけであり、村長自身は真珠を悪く思っていないことだった。


「村長さん、僕は丹地風呂屋に行ってきます。この子のことは、帰ってきてからどうにかします。僕がけりをつけますので、誰にも手出しさせないでください!」

「あいわかった」

「真珠ちゃん。僕は患者の家に行かないといけない。おとなしく待っていてくれ」

「んー……」


 草世は村長に聞こえないよう小声で、「驚いて、狐の耳や尻尾を出さないように」と注意を促した。

 それから医者の道具と薬が入った黒い鞄を抱えて、外に出る。

 今日の床支ゆかし村の頭上には、青空が広がっている。だが気温が低く、空気を深く吸ってしまうと肺が凍えてしまいそうだった。

 道にある雪は踏み固められて、滑りやすい状態になっている。草世は転ばないように気をつけながら、丹地風呂屋へと向かった。


 その五分後。真珠も外に出た。白銀の世界を深紫色の着物を着た真珠がしゃなりしゃなりと歩く様はたいそう美しい。真珠は人間の言葉ではないものを口ずさみながら、村中を歩いた。

 真珠が口ずさんだのは、白狐の暗示術。妖術を放つ真珠の瞳は赤いが、それを気に留める者は誰もいない。

 真珠の声は、村人の耳から入って脳に届き、思考と感情を変化させていく。



 ◇◇◇



 床支ゆかし村は、天皇が住まう西の都とあきないの盛んな東の都を繋ぐ街道から外れた場所にあり、人の出入りが少ない。

 だからといって、旅人がこないわけではない。村にある丹地風呂屋は奇跡の湯として、病人が遠路はるばる訪ねてきていた。

 草世が床支村に住んで間もない頃。「すごい温泉があるものですね。泉質はなんですか?」と村長に尋ねて、笑われたことがある。


「沸かし湯だ。この村に温泉は出ん」

「ええっ⁉︎ でも、病気の治る湯として有名なのですよね⁉︎」

「だから奇跡の湯なんじゃ。理屈はわからん。とにかく、病気や怪我が治る。わしの腰痛も、家内の肺病も、娘の傷も治った。そういうわけで、医者いらずの村なんじゃ」

「あー……」


 失言に気づいた村長は、慌てて言葉を継いだ。


「だからといって、医者は必要じゃ! 丹地風呂屋は毎日営業しているわけじゃないからな! 定休日に具合が悪くなったら、先生の助けが必要じゃ!!」


 どうやら床支村の人にとって、医者は風呂屋の代替えらしい。そのことに草世は、気を悪くはしなかった。許嫁と別れた翌日から、母親は次々と縁談を持ってきた。それに辟易して都から離れただけで、医者としての使命感で僻地に来たわけではない。

 心静かに過ごせるのなら、場所はどこでもよかったのだ。

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