第14話 欠けない満月はまやかしにすぎない
草世は丹地風呂屋に着くと、二階建てのモダンな建物を見上げた。
改装する前は、雨漏りのする
だが三年前に改装して、運が開けた。
村人たちの病気や怪我が治ったことで奇跡の湯としての噂が広まり、全国各地から入湯客が訪れるようになった。またその客たちが異常なほどに羽振りが良く、大金を落としていった。丹地風呂屋は、この地域一番の金持ちになった。──そう、村長が教えてくれた。
奇跡の湯として、大繁盛していた丹地風呂屋。その跡取り息子として、直志も望月を謳歌するはずだった。
しかし、二週間ほど前。直志が突然倒れた。不思議なことに、時を同じくして、客足がぴたりと途絶えた。客が一人も来ない。村人たちも風呂に入りに来ない。
運命が転落していくのを止めるためなのか、直志の両親は草世にしつこく勧めた。「湯が沸いていますから、どうか入っていってください」
しかし、草世は湯に入れなかった。
怖いのだ。風呂が怖いのではない。丹地風呂屋の建物の中にいることに。そして最近では、丹地風呂屋の建物の前に立つだけでも、鳥肌が立つほどの恐怖を感じる。
草世はまわりを見回した。誰の姿もない。村人たちは、丹地風呂屋を避けて歩いている。
「欠けない満月は、まやかしにすぎない……か」
病の床にある直志が、うわ言でつぶやいていた言葉。
草世は直志の病気に、病名をつけられないでいる。体は健康そのものなのに、衰弱していく。生気が抜け、自我が薄れていく。それと同時に、別な人格が姿を表しているように思えてならない。
「もののけの仕業なのだろうか? 生気を奪って、体を乗っ取る気でいる……」
丹地風呂屋の建物内に入ることを、本能に宿る恐怖心が拒否している。だが、友人と、その家族を助けなくてはいけない。
草世は医者の使命感で、玄関のガラス戸を横に引いた。
ガラガラという音が、耳底に響く。
客の靴はなく、上がり口にスリッパもない。照明のついていないロビーは薄暗く、しんと静まり返っている。従業員は全員辞めてしまっている。
草世は雪駄を脱ぐと、風呂屋の奥へと進んだ。床が凍えるほどに冷たく、足裏がまるで氷に触れているようだった。
風呂屋の奥が自宅になっていて、その二階に直志の部屋がある。
「おはようございます」
草世の発した挨拶が、静かな空間に響く。返事はなく、物音もしない。不気味なほどの静寂。
草世は、直志の部屋のドアを開けた。モダンな建物の作りにふさわしい洋室。直志の姿はなく、ベッドが乱れている。掛け布団が丸まり、枕が床に落ちている。
「直志は、いったいどこに……」
「……先生……」
「ひゃあっ!!」
背後からかけられた幽霊のようなか細い声に、草世は心臓が竦みあがった。
「あ、ああ、お母さんですか。びっくりした。……っ!!」
条件反射で振り返ると、背後にいたのは、直志の母親。
草世が床支村に来た当初。母親は丸々した体つきをしており、髪はカラスの濡羽色だった。しかし、直志が倒れて二週間。四十代前半なのに総白髪になり、随分と痩せてしまった。
昨日まで母親は目の下にくっきりとした隈を作っていたというのに、今日は、目のまわりに痛々しい痣ができている。
「どうしたのですか⁉︎」
草世は問いながらも、頭の片隅で「丹地風呂屋の様子を見に行ったら、親が怪我をしておる!!」そう叫んでいた村長の言葉を思い出した。
母親の両目のまわりにできた、赤紫色の痣。
「私たちの願いが通じたのか、直志が起き上がりました……」
「それは……」
直志は倒れたのち、ずっと寝込んでいた。当初、意識ははっきりしていた。「黒い靄が見える。俺を覆い尽くそうとしている」そのような恐れを口にしていた。
それから日に日に意識が薄れ、混濁し、「殺ス……村ノ者、全員、殺ス……」と、物騒なことを口走るようになった。
起き上がった、それ自体は喜ばしいことである。だが、殴られた跡のある母親を見るに、恐れていた最悪なことがついに起こり始めた気がしてならない。
「直志はどこに⁉︎」
「下の柱に縛りつけています……」
「柱に……」
「暴れて、どうしようもないのです。あの子は、悪いものに取り憑かれてしまった」
「ご主人は?」
「動けないでいます。私よりも、ひどい怪我を負いましたので……」
「それはいけない! 今すぐに手当をしましょう!!」
階段を降りようと動いた草世の着物の袖を、母親が掴んだ。痛々しい痣のついた双眸から、涙がはらりと落ちた。
「先生に、お願いがあります!!」
「なんでしょう?」
「直志は外に出たがっている。村の者全員殺してやると、叫んで……。主人と私が直志を止めると、あの子は、躊躇なく私たちを殴りました。暴力を振るったことのない、心やさしいあの子が……」
母親はポタポタと涙をこぼしながら、掠れる声で訴える。
「なんとかして柱に縛り付け、私たちは泣きました。すると、凶暴だった顔が、元のやさしい顔になった。そうして、あの子も泣いたのです。俺を殺してくれ、完全に乗っ取られる前に殺してくれ……そう、泣きながら頼むのです。主人と私は、話し合いました。息子が人殺しになるぐらいなら、私たちの手で殺そうと、決めました……」
「そ、それで、直志は……」
母親はゆるゆると首を横に振ると、草世の胸に両手をついた。支えなしで立っていられないようだった。草世は母親の両腕を掴んで支え、痛々しい赤紫色の痣を見つめる。
「私たちには、できなかった……できないのです。包丁を手にしたけれど、できなかった……。先生、お願いです! あの子を殺してください!! あの子が人殺しになる前に、村人殺しの汚名がつく前に、あの子があの子でなくなってしまう前に、どうか……!! お願いします。直志を殺してやってください。どうかお願いします。私たちには、そんな可哀想なこと、できない……」
草世は喉が引き攣り、言葉を返すことができなかった。
(僕が、殺す……? 直志が人を殺さないために、僕が直志を……)
大切に育ててきた息子を手にかけられない親の心情は理解できる。だが、息子を人殺しにさせないために、他者に殺人を依頼するという矛盾。
医者だから、頼むのか。それとも、よそ者は人殺しになってもいいというのか。
凍えている足の感覚も、何かを感じる心も、麻痺している。
廊下にある窓が、カタカタと鳴っている。天気が急変し、雪が横殴りに降ってきた。
◇◇◇
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