第9話 字を書く練習
心は沈む一方だが、落ち込んでいる暇はない。草世は思考を無理矢理に前に押し進めると、奥の座敷にいる真珠を呼んだ。
囲炉裏の前で、真珠と膝を突き合わせる。
「大切な話がある」
「なあに?」
「お嫁になりに来たと言ったが、真珠ちゃんは白狐で、僕は人間だ」
「うん」
「もののけと人間とでは住む世界が違いすぎる。合わないと思うんだ」
「もののけじゃないよ」
「うん?」
「もののけは人間にイタズラしたり取り憑いたり呪ったりして、悪影響を及ぼす存在。でも、白狐はあやかし。悪いこと、しない」
「でも白狐一族の長は、悪さをしたせいで、一万の兵と戦ったんじゃないの?」
「あ……」
白狐は、神聖なる神の使い。けれど、能力も性格も思考性も様々。希魅のように人間を誑かすのが好きな白狐もいれば、神の使いをめんどくさがって役目から下りる白狐もいる。
真珠は膝の上で行儀良く組んだ指をもじもじさせながら、「いろんな白狐がいるんです……」とだけ述べた。
重い沈黙が下りる。
狐の特性として、真珠は耳がいい。だから、草世と村人たちがなにを話していたか、聞こえた。けれど、従うつもりはない。
(家には絶対に帰らない。わたし、もののけじゃない! 草世のお嫁さんになって、役に立つんだもん!)
草世の家にいるのはどうすればいいか、子狐の浅知恵で考える。
「あ、あのね、草世。お願いがあるの」
「なんだい?」
「わたしの名前、書いてくれたでしょう? 自分でも書けるようになりたい。教えて!」
「いいけど……」
真珠が考えた作戦とは、字の練習をするといって草世の家に留まる! 明日も明後日も一年後も十年後も百年後も五百年後も、字の練習をすると言って草世のそばにいる!!
真珠は知らない。人間の寿命は白狐と違って短いことを。
草世は草世で、真珠の今後について考える。この村には置いておけない。だからといって、真珠を家に帰すのには抵抗がある。「家から追い出された」と話していたし、顔を見たくないからといって娘に石を投げる父親には嫌悪感がある。
草世は薬棚の上に乗っている朱塗りの状箱を見た。状箱の中には霊感のある友人、
(室生なら、もののけ……じゃなかった。あやかしに理解を示してくれるだろう。室生は心が広い。彼になら、真珠を預けられる)
草世は心を決めると、文机に向かった。墨を磨る。真珠をそれを脇から見ながら、はしゃいだ声をあげた。
「草世、ありがとう! やさしいね」
「別にやさしいわけじゃ……」
真珠を友人に預けようとしているのに、やさしいと言われると良心が痛む。
草世は墨を磨りながら、自己嫌悪に陥る。
子供の頃から親の顔色を伺い、人に嫌われるのを恐れて、他人に合わせて生きてきた。そのせいで、二十四歳になった今でも、自分の意見を述べるのが苦手だ。
春子が好意を寄せていることを知っている。だが、きっぱりと断ることができない。あやかしである真珠でさえ、追い返せない。
曖昧さは相手を傷つける。それがわかっていながらも、拒否する言葉が出てこない。そんな気の弱さに嫌気が差す。
「いつまでやるの?」
「ああ、ああ……」
真珠に話しかけられて、草世は我に返った。墨を磨っていた手を止める。濃い墨が出来上がってしまった。
暗い考えを振り払うために、草世は明るい声を出した。
「真珠ちゃんは、字を書いたことがある?」
「一回もない」
「それならまずは、線から練習しよう」
「うん!」
文机の上に半紙を置き、文鎮で押さえる。草世は、横棒を一本書いた。次に丸。それから、波線。
「この三つを練習してみようか」
「草世、字が上手ね!」
「これは字じゃないよ。線。あ、でも横棒は数字の一に見えるか」
「スウジのイチ?」
振袖に墨がつかないようにと、草世は真珠に医者の白衣を着せた。草世の匂いのする白衣に、真珠の胸が踊る。
「まずは、横棒から書いてみよう」
「わかった」
真珠は筆を持つと、緊張でプルプルと震える手で半紙に筆を下ろそうとする。
「墨をつけて」
「そうだった!」
真珠は、筆の根元までたっぷりと墨を吸わせた。草世は苦笑する。
「書いてみて。すごいことになるよ」
「そうなの? ……きゃあー!!」
震えている筆先が半紙についた途端、容赦なく墨が滲む。
怖がる真珠に、草世は笑いながら、筆を真横に引くよう言った。
言われたとおりに、ゆっくりと横に引いた線。たっぷりとつけた墨が半紙に吸われて、滲み、広がっていく。
震えが目立つが、それでも太くて立派な線が引けた。
「最初にしては上出来だ」
「本当?」
「ああ。では次に、どれくらい墨をつければいいのか。どのくらいの圧をかければいいのか。教えよう」
「ありがとう」
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