第10話 妙な感覚

 草世は真珠の後ろに移動すると、背後から真珠の持つ筆を握った。


(あ……)


 真珠の心臓がどきんどきんと速くなる。

 筆に添えられた草世の手。男性らしく骨張っているその手は、なめらかな真珠の手とは全然違う。色も違う。草世の手は日に焼けている。

 背後から感じる、好きな人の気配。筆が動くたびに、彼の腕や胸が真珠に触れる。伝わってくるのは、草世の体温と吐息。

 真珠の体が熱を帯びる。草世が話す、墨をつける分量や筆先の整え方や筆にかける圧や筆の入り方や運び方や止め方が、耳を素通りする。

 

「どうかな。書けそう?」

「あ……。ごめんなさい。聞いていなかった……」


 蚊の鳴くような声で返答した真珠。

 聞いていなかったって……困った子だ。草世は筆を離すと、真珠の背中から離れて真横に来た。

 そうして、真珠の顔を見て驚く。

 真珠の顔は椿の花のように真っ赤で、つぶらな瞳は潤んでいる。耐えるようにぎゅっと閉じていた唇が、花が綻ぶように、開いた。


「ごめんなさい……」

「あ、いや……もう一回教えるから、聞いて」

「うん」


 草世はもう一度、墨をつける部位や筆の運び方を教えた。真珠は理解したという頷きをすると、緊張の抜けない手つきではあるものの、揺れのないまっすぐな横線を引いた。墨の分量もちょうどいい。


「飲み込みが早いね。上手だ」

「わーい、褒められた!」


 真珠は喜んで、笑顔を見せた。可愛らしい白い歯が覗く。

 真珠はそれから黙々と練習に励んだ。草世はそれを見ながら、さきほど、真珠の顔が真っ赤に染まったことについて考える。


(恥ずかしかったのだろう。僕が背後から筆を持ったから……)


 草世の胸に、妙な感覚が広がる。

 草世が十歳の頃。母親の実家に遊びに行った際、たまたま、八歳上の従姉の部屋を覗いたことがある。戸が開け放してあったので、なにげなく目を向けたにすぎない。

 従姉は鏡台の前に座り、唇に紅を塗っていた。

 真夏。器用に紅を塗る薬指に目が吸い寄せられ、それから、赤い朝顔の絵柄の浴衣から覗くうなじに、強烈な何かを感じた。

 その強烈な何かと、気恥ずかしさで顔を赤く染めた真珠への妙な感覚とが、同系列にあるように感じるのはなぜなのか。

 川底を覗くかのように自身の心を探り見て、草世はギョッとする。


(真珠に色気を感じたなんて……そんなことは絶対にないっ!!)


 真珠は魅惑的な外見をしているが、実態はあやかし。異質な存在なのだ。それなのに、惹きつけられるものがあるなんて、あっていいはずがない。

 煩悩を振り払うために草世が唸りながら頭を振っていると、手習に疲れた真珠が筆を置いた。


「草世、どう?」

「あっ……と……うん。元気で力強い線だ」

「上手?」

「うん、上手だ。今度は、細筆の使い方を教えてあげる。……あ、たくさん書いたから疲れたよね。休もうか」

「ううん。頑張る!」


 真珠が疲れた顔を見せたから休息を提案したのに、真珠は慌てて否定し、再度筆を持つ。

 なぜ頑張るのか、草世には理解できない。不思議に思いながらも、小筆の使い方を教えた。

 真珠は飲み込みが早い。草世がそれに感心して誉めると、真珠ははにかみ、瞳を伏せた。褒められて嬉しいというのが、柔らかく微笑んでいる瞳や、桃色に染まった頬や、綻んだ唇から伝わってくる。

 その愛らしさに、草世は咳払いをした。喉の調子が悪いわけではまったくない。

 医者としての癖で左手首に右の指を添えてみると、脈が異様に早い。


(なにを緊張しているんだ。相手は白狐なんだぞ。落ち着け。冷静になるんだ!)


 窓の外に目をやれば、空はかろうじて茜色だが、部屋に入ってくる光は心もとない。

 草世は石油ランプに明かりを灯すと、文机に置いた。


「お腹が空いたろう? ご飯を作るから、練習していていいよ」

「ありがとう」


 真珠は、小筆を持つ手を振り回した。筆先が真珠の頬を掠める。

 真珠の頬についた黒い線。草世は笑い、真珠はキョトンとした顔をしたのだった。


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