第8話 助けたいのに助けられない
田舎というところは、澄んだ空気が肺に心地良いが、噂の感染力が非常に強い。草世の家に女がやってきたという噂は、あっという間に村中に広がった。
春子は真珠の垢抜けた美しさを都のお姫様だと勘違いし、嘘を吹聴した。
「都のお姫様と草世先生は知り合いであったが、親の反対で別れた。女は先生を忘れることができずに、追いかけてきた。女を連れ戻そうとして、都から武士がやって来る! 一刻も早く、女を都に追い返さなくては!!」
村の平和が乱されると危機感に晒された村人たちが草世の家におしかけ、お姫様を帰すよう強く求めた。
草世は困り果てて頭を掻きながら、真珠を押し込めている奥座敷の襖に目をやる。
「都のお姫様じゃないんですけどね……」
草世のぼやきは村民たちの耳に届いたが、心にまでは届かない。刷り込まれてしまった噂を正しい情報に修正するのは、並大抵のことではない。
(だからって正しい情報といっても、都のお姫様ではなく白狐だなんて、口が裂けても言えないけれども……)
村長は、峠を越す頃には夜になるだろうから今日は知らないふりをするが、明日の早朝、必ず帰すようにと念を押した。
草世は頷くしかなかった。一晩待ってもらえるだけでもありがたい。
村長は村人たちより先に草世の家を出た。村長の姿がなくなった途端、村の若者である吾平が草世に詰め寄った。
「おいコラァ!! 村長に気に入られているからって、調子に乗ってんじゃねぇぞ!! おいらはあんたを認めていねぇからな! 女と一緒に村を出ていけ! 今すぐになっ!!」
短気で乱暴者の吾平は、水瓶の上に置いてあった柄杓を手に取ると、水を汲み、それを草世にぶっかけた。さらに水を汲もうとする吾平を、まわりの村人たちが止める。
「吾平、やめろ!」
「うるせーっ! 春子はなんで、こんななよなよした男が好きなんだよ! 気にいらねぇ!!」
「八つ当たりするな!」
「直志がおかしくなったのは、あんたのせいだ! あんたが来てからおかしくなったんだからな! 変な薬を飲ませたんだ。おいらは知っているんだからな!!」
激情に駆られた吾平が草世に殴りかかろうとするのを、村人たちが体を張って止める。吾平は村人たちに引っ張られて、草世の家から強制退場させられた。
遠ざかっていく吾平の喚き声。それが聞こえなくなってから、草世は深々と吐息をついた。濡れた体を手拭いで拭く。
「吾平に悪態をつかれるのは久々だ。今までは、直志がいたから……」
吾平は春子に恋慕するあまり、草世を目の仇にしている。ヤブ医者だと罵ったり、薬に毒を混ぜているのだと悪評を流したり、草世の家の前に動物の死骸を置いたりと、吾平がしてきた嫌がらせを述べればキリがない。
そんな吾平の嫌がらせを止めてくれたのは、丹地直志。彼は、丹地風呂屋の跡取り息子。気のいい青年である直志は、文句を言い返せない気弱な草世の代わりに吾平を叱ってくれた。
体格が良く人望もある直志と、小柄で嫌われ者の吾平。
吾平は謝罪も反省もしないものの、嫌がらせをするのを止めた。
草世は上がり口に座ると、肩を落とした。悩むこともやることも多すぎる。
「真珠を帰さないといけない。直志を治さないといけない。だが、どうやって……」
助けてやりたいと心から思う人たちを助けられない、無力な自分。暗い気持ちになったときに必ずといっていいほど浮上してくる、元許嫁の別れの台詞。
──草世さんはいい人だわ。でも私……幸せになりたいの。一緒には、なれない。
いい人であるだけでは、大切にしたいと思う人を、幸せにはできない。
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