二章 もどかしい裏心

第6話 お嫁さんになりに来ました

 草世が不思議な女の子に出会った、その翌日。

 寒さが緩んだおかげで、軒から下がっている氷柱つららが太陽の光に透けて輝きながら、雫をポタポタとこぼしている。

 草世そうせいは薬棚の引き出しを開けて在庫の確認をしながら、昨夜の出来事に思いを馳せていた。


(昨夜の女の子は、夢じゃないよな? あの子が飲んだ湯呑みが流しにあったし、お気に入りの手ぬぐいも見当たらない。やっぱり僕は、白狐の子どもに会ったんだ)


 女の子は、悪い化け物じゃない。騙そうなんて考えていないと訴えた。女の子は無垢そうだったし、白狐は神の使いで縁起の良い狐だと伝承されているのもそれを裏付ける。


(だからといって、遊びにおいでなんて、言ってよかったのだろうか。いくら同情したからって、相手はもののけだぞ? 取り憑かれたら、命を落とす危険がある。まぁ、死んだってかまわないけれども)


 草世の眼差しは引き出しの中に注がれながらも、暗い目はなにも映していない。

 元許嫁が告げた最後の言葉は、到底忘れられるものではなく、思い出すたびに心を抉る。


 ——草世さんはいい人だわ。でも私……幸せになりたいの。一緒には、なれない。


 親が決めた許嫁とはいえ、草世は菊音を大切に思っていた。幸せにするつもりだった。なのに、「幸せになりたいから一緒にはなれない」との別離の言葉は、彼女と手を取り合って生きようとしていた未来を全否定するものだった。

 草世の実家は名家。父は天皇家の主治医を務めており、母は力のある華族の娘。優れた身分と財力にもかかわらず、菊音は草世の手を振り払った。男としての矜持がズタズタに裂かれた。


(彼女は楽しいことが好きな人だった。僕の陰気な性格に嫌気が差したのだろう……)


 菊音を忘れようとしても事あるごとに思い出してしまい、そんな自分の女々しさにうんざりする。

 草世は意図して、白狐の女の子を思い浮かべた。かわいらしい獣耳とモフモフ尻尾に、「ふふっ」と笑みがこぼれる。


「草世さん、機嫌がいいのね。なにかあった?」


 感情表現が豊かではない草世が笑っていることを不思議に思った、村の娘が問う。彼女の名前は春子。年は十七。白菜と人参の漬物をお裾分けするために訪ねてきていた。

 

「いや、なにも」

「そう? でも、楽しそうだわ。なにかあったんでしょう? 教えてよ」

「別になにも」

「本当に?」

「うん」


 春子は朗らかな声で問いかけながらも、目つきはじっとりとしており、草世を観察するのをやめようとはしない。

 草世は薬の在庫確認をしているわけだが、遠い目をしている。別なことを考えているのが明らか。

 春子は下唇をきつく噛んだ。


(絶対になにかあった! なのに話してくれない。先生はいつまでたっても、よそよそしいまま!)


 春子が生まれた床支ゆかし村は、風光明媚な山の麓にある。都に通じる賑やかな街道からは随分と奥まった場所にあるため、人の出入りが少ない。

 床支村で生まれた者の多くは、外の世界を知らないまま、この村で人生を終える。女性なら近隣の村に嫁ぐことが多々あるが、それだって先の見えている人生。

 草世は「ここは、空気と水がおいしい」と目元を緩めるけれど、春子は綺麗な空気や水では満足できない。華やかな都への憧憬が募って、気を揉んでしまう。


(先生の妻になって、村を出たい! なんにもない村で一生を終えるなんて嫌っ!)


 春子は草世の嫁になることを夢見ているというのに、草世は良い反応を示さない。


 今から一年半前。ツクツクボウシが夏の終わりを告げる頃に、草世は床支村にやってきた。床支村は長らく医者が不在で、都で医者の経験を積んできた草世は村人たちに歓迎された。

 

「騒がしい都での生活に疲れまして。空気の澄んだ田舎で、心身を休めたいのです」


 のどかでいいところですね。と言葉を継いだ草世に、春子は訊ねた。


「心身を休めたのちはどうするのですか? 都にお帰りになるのですか?」

「先のことはなにも決めていません。定住するかもしれないし、都に帰るかもしれない」

「先生! どうかいつまでもこの村にいてくだされ!」


 懇願する村長に続いて、村人たちも頭を下げた。

 春子は口には出さず、けれど心の中で思いをたぎらせた。


(農家や木こりや風呂屋や寺に嫁ぐより、医者の妻のほうが何倍もいい! みんなが羨む贅沢な暮らしができる。この人と結婚しよう。そして、都に帰るように言おう!)


 春子は自分の容姿に自信をもっている。気の強い性格だが、多くの若者に好意を寄せられている。それゆえ、自惚れていた。


 ──先生は、私を妻に望むだろう。私たちは結婚し、都に住むのだ。


 だが蓋を開けてみれば、草世はちっとも春子に興味を示してくれない。

 春子がなんだかんだと用事を作って草世の家に行くのを、村人たちは「いつ結婚するんだい?」と冷やかす。だが草世は困ったように笑うばかりで、なにを言うでもない。

 春子は苛立ちが募っていくばかり。

 そういうわけで、春子は、問いただすのをやめることができない。


「先生、私に隠し事はなしです。昨夜、なにかあったのでしょう?」

「なにもないよ」

「嘘だ!」

「本当だよ」

「だって、先生。笑っているではありませんか。楽しいことを思い浮かべているのでしょう? 昨日の夕方は真顔だった。昨夜、なにかあったのですね? 誰にも話しませんから、教えてください」


 春子の推理に、草世は舌を巻くと同時にうんざりしてしまう。女性のこういう勘の鋭さが苦手だ。放っておいてくれと思う。


「こんにちは! 草世のお嫁さんになりに来ました!」


 春風のように明るくて澄んだ声が、二人の会話が途絶え、沈黙した隙間に入ってきた。

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