第4話 二人の名前
草世はお茶がこぼれた床を拭き、それからほうじ茶を淹れ直した。水を入れて、熱さを中和する。
「水を入れたから、そんなに熱くないはずだ。湯呑みを触ってごらん」
「うん……。あ! 熱くない!!」
女の子がほうじ茶を嬉しそうに飲んでいる間に、草世は調合した止血の飲み薬を薬包紙に包んだ。それから、薬棚の中から貝殻でできた小さな箱を取り出す。手のひらに乗るぐらいの小箱。中には、痛み止めの軟膏が入っている。
「君の手当てをさせてくれないか? 右足を痛めているよね?」
「えっ⁉︎」
どうしてわかったの?
真珠が上目遣いでそっと窺うと、男は穏やかに微笑んだ。丸い眼鏡の奥にある、やさしい瞳。
見た目年齢は真珠の兄と同じくらいの青年なのに、意地悪な兄とは違って、物腰が柔らかい。お茶をこぼしたのに、嫌な顔をしないで床を拭いてくれた。
悪い人間ではない。真珠はそう判断して、おとなしく右足を差し出した。
「うわぁ、腫れているね。ぶつけたのかい?」
「うん。木にぶつけた」
「痛み止めの薬を塗って、包帯を巻こう」
男は真珠の右足首に軟膏を塗ると、手早く包帯を巻いた。それから男は、濡れた手ぬぐいで真珠の口を拭いて血の塊を落とすと、紫色に変色している右端の唇に薬を塗った。
男の瞳はやさしいが、薬を塗る手もやさしい。
唇に触られた真珠は、ぽわんと頬が熱くなるのを感じた。
男はやさしい顔をしている。丸い眼鏡の奥にあるのは、温和な垂れ目。ゆったりとした話し方と穏やかな低い声は、耳に心地良い。
丁寧な手つきで自分に触れる男の姿に、心臓が速くなる。
(この人、やさしい。白狐たちよりずっとずっと、やさしい……)
薬を塗り終わった男は、軟膏が入った貝殻の小箱を閉めた。
「唇の傷、どうしたの?」
「石をぶつけられた」
「石⁉︎」
「うん。わたしの顔、見たくないって……」
「なんてひどいことを……村の子供たちかい?」
「ううん。お父さん」
「お父さん⁉︎」
「兄様には頭を叩かれた。あとね、みんなから噛まれたり、足を引っ掛けられたり、毛をむしられたりする」
「ええっ⁉︎」
男は驚いてくれる。心配してくれる。そのことが嬉しくて、真珠は仲間たちにいじめられていることを話した。
(早く帰らないといけないのに……。この人とお話ししたい。少しだけなら……いいよね?)
男は、軟膏が入った貝殻の小箱を真珠に渡した。
「あげる。怪我をしたときに使って」
「いいの⁉︎ ありがとう!」
見る角度によって、繊細に輝きを変える貝殻。真珠は両手で大切に包んだ。
男は神妙な口ぶりで言った。
「君はなんでもないかのように話すが、叩かれたり、毛をむしられたり、石を投げられるというのは、やってはいけないことだ。君に同情するよ」
「わたしの名前、キミじゃないよ。マジュ」
「ん?」
「キミは、長の名前……じゃなくて、おばあちゃんの名前。わたしの名前はマジュ。
「綺麗な名前だね。こう書くのかな?」
男は火かき棒を手に取ると、囲炉裏の灰に『真珠』と書いた。
真珠の目が見開かれ、指先を叩いて、満面の笑顔になる。
「うわあっ、素敵な字ね! 気に入った!!」
「それは良かった」
「あの……」
真珠は恥ずかしさでモジモジする。
人間を毛嫌いする家族によって、人間は怖いもの。恐ろしいもの。くだらないもの。相手をするに値しないもの。関わるな。穢れる。無視しろ。そのように教えられた。
けれど、彼への好奇心を止められない。やさしい人の名前を知りたくて、ウズウズしてしまう。
「……あ、あなたの名前は?」
「みひろそうせい。こう書くんだ」
男は火かき棒を動かして、『深広草世』と書いた。
「なんだか難しい字ね。でも、とっても素敵!」
「ありがとう。それよりもおばあちゃんのことなんだけれど、血を止める薬だけでいいの? 傷口を消毒する薬や化膿止めの薬もあるよ」
「おばあちゃんは、血止めの薬が欲しいって言っていた。血が止まれば、あとは自力で治せるって。おばあちゃんは特別な存在だから、大丈夫なの」
「そうなの?」
「うん!」
真珠があまりにもはっきりと言うものだから、草世は納得できないものの、意思を尊重することにした。なんといっても、相手はもののけ。もののけにはもののけの世界がある。人間が干渉する必要はない。
草世は真珠に止血剤を渡した。真珠は心底ホッとした。役目を果すことができた。希魅は喜んでくれるだろう。
希魅に恩を返せることが嬉しい。なのにどうしてか、心が寂しがっている。
(草世って、すごくやさしい。でも……わたしの正体を知ったら、悲鳴をあげて逃げちゃうだろうな)
この世には、人間ではないものたちがいる。そしてそれらは、どこにでも潜んでいる。
多くの人間はそれらを見ることができないが、「薄気味悪い」「嫌な感じがする」「ここには近づかないほうがいい」といったように、不穏な気配を感じ取っている。
しかしなにかの拍子に、それらを見てしまう人間がいる。大概の者は恐れ慄いて逃げだすが、「化け物め、退治してやる!」と敵対心を剥きだしにする者がごくたまにいる。
真珠は、嫌われるのには慣れている。それでも……草世の穏やかな眼差しが怯えに変わったら……と想像したら、悲しくなった。
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