第29話 恩返しをするよう頼んでいない

「おかしい……」


 草世は丹地風呂屋に入ろうとしたが、玄関が開かない。耳を澄ますと、建物の奥から咆哮が聞こえてくる。直志は部屋から出ていないようだ。

 両親は数時間前に亡くなっている。

 

「玄関に鍵をかける者はいないと思うのだが……」


 一階の窓に手をかけたが、開かない。裏木戸も開かない。

 真珠がかけた結界術によって入れないのだが、そのことを知らない草世は裏木戸に体当たりした。


「おかしい。なぜ開かないんだ?」

「ぎゃあぁぁぁぁぁーーーーっ!!!」


 建物の中から聞こえた不穏な叫び声が、空気を震わした。

 草世は再度体当たりしようと傾けていた体を元に戻し、建物を見上げた。


「直志?」


 家の中にいるのは直志しかいない。人間性を失った彼が奇声を発するのは、おかしいことではないが──なにかに襲われているような危機迫る絶叫に、身の毛がよだつ。


 ギイっ……。


 風に押された裏木戸が、軋む音を立てた。草世を手招きしているかのように、内側に開く。

 草世は、ゴクリと音を立てて唾を飲み込んだ。

 さっきまで中に入りたくて試行錯誤していたというのに、気味の悪い絶叫に慄いてしまい、足がすくんでしまった。


「行くしかないよな……」


 直志は体格がいい。骨格がしっかりしているうえに、大量の薪を割っている腕は逞しく、人並み以上の体力がある。彼が村人たちを襲う前に、悲劇を未然に食い止めたい。

 直志を殺したら、自分も後を追おう——。

 真珠の笑顔が思い浮かんだが、頭を大きく振って追い払う。額に浮いた脂汗を拭うと、足元にある黒い鞄を持った。


「怖がるな。覚悟を決めろ!」


 草世は裏木戸を抜け、勝手口から中に入った。家に入ってすぐに、草世は「おや?」と首を傾げた。

 いつもの恐怖心を感じない。視界が明るく、呼吸をするのが楽だ。

 丹地風呂屋で間違いはないのだが、別空間に来たような錯覚に陥る。

 埃の目立つ廊下をひっそりと歩く。

 いつもなら氷の上を歩いているように凍える足裏が、冷たさを感じない。


「春が近づいているから? いやいや、数時間前にも来たんだぞ。そのときは寒くて、おどろおどろしい気配に満ちていたのだが……」


 不思議な気分に浸りながら、直志のいる部屋をまっすぐに目指す。

 草世は足を止めた。部屋の扉が開いている。


「まさか……遅かったのかっ!!」


 恐怖が全身を駆け巡る。逃げだしたい気持ちとは裏腹に、足は前へと進む。

 扉に手をかけ、狭くて暗い和室を覗く。そこにいたのは——うつ伏せに倒れている直志。

 それと、真珠だった。

 信じられずに目を瞬かせる草世に、真珠は晴れやかな笑顔を向けた。


「わたし、やったよ!」

「なぜ、ここに……?」

「呪いを解いたの! もう大丈夫だよ。友人、助けた!!」

「悲鳴が聞こえたが……直志?」

「うん」

「君が、直志になにかしたのか?」

「心を覆っていたもやを消した。取り憑いていたのは、人間の怨念だった。それが、消えたよ!」

「…………」

「わたし、役に立つでしょう!」


 やさしくしてくれた草世に、恩返しをすることができた。友人を助けたいという草世の役に立つことができた。

 喜んでくれる。褒めてくれる。

 そんな期待で胸を弾ませる真珠に、思いがけない叱責が飛んできた。


「なんてことをしたんだっ!!」

「え?」

「人間の間で起こっていることに、関わってはいけないんじゃなかったのか!! 掟を破ること、一族の承諾は得ているのか⁉︎」

「あ……」


 きつい口調の問いかけに、真珠は口を閉ざした。

 うつむき、視線が泳がせている真珠に、草世は泣きたくなった。


(真珠は白狐族の掟を破った。僕を助けるために……。白藍は、掟を破った者には死が待っていると話した。真珠が死ぬなど、絶対に駄目だっ!!)


 草世はやるせない怒りを、真珠にぶつけた。健気なまでに役に立とうとする彼女にひどい言葉を投げるのは違うとわかっていながらも、感情の行き場がない。目の前にいる真珠にぶつける他、方法がない。


「言ったはずだ! 帰れ。僕の後をついてくるなと!! なぜ、約束を破った!」

「草世の後はついてない。先に来た」

「そ、そういうことじゃなくて!! 僕がどうにかするから、この問題に関わるなと言ったはずだ! なんで、こんなことをしたんだ。白狐の掟を破ったら、制裁が待っているんじゃないのか?」

「でも、恩返ししたくて……」


 真珠は健気だ。純真すぎる愛情と心の綺麗さが、今は憎たらしい。

 草世の喉元に苦いものが込み上げる。


「恩返ししてくれ、なんて頼んだか? 呪詛を見つけてほしいと、頭を下げたか?」

「……でもわたし、草世の役に立ちたくて……」

「そんなこと望んでいない! 白狐族の希魅様のところに行けと言ったはずだ!」

「うう……っ!」


 うつ伏せに倒れていた直志が唸り声をあげた。意識を取り戻し、のろのろと起きあがった。

 草世はすぐさま駆け寄った。


「直志っ!! 大丈夫か⁉︎」


 直志は気怠そうにあぐらをかくと、また唸って、右上腕に手を置いた。ボサボサの前髪の間から苦痛に歪む表情が覗く。

 扉を破ろうと乱暴な体当たりを繰り返していたためか、肩の付け根が痛むらしい。


「肩の具合を見せてくれ」

「草世……?」


 直志の一重瞼の目が、不思議そうに草世を見つめる。視点が定まっている眼差しに、草世は胸が熱くなった。

 呪いにかかっていた期間は、三週間。その間、直志は虚ろな目をして、一度として草世と目を合わせなかった。

 直志は頭を掻いた。フケが飛ぶ。


「肩だけじゃなく、体のどこもかしこも痛い。おまけに臭い」

「だろうな。君は三週間以上風呂に入らず、顔も洗わず、爪も切らず、着替えもしていない。排泄物は垂れ流し。ひどい状態だ」

「風呂屋の息子なのに、三週間以上も風呂に入っていない? どういうことなんだ?」

「それは……」


 自我を取り戻した直志。彼は、取り憑かれていたときのことを覚えていないらしい。両親が亡くなったことも知らないだろう。

 直志に残酷な現実を打ち明けないといけないことに、気が重くなる。

 真珠は扉の前に立って、二人の様子を見ていた。そんな真珠に気づき、声をかけたのは、直志だった。


「君は……」


 草世は直志の視線を辿り、真珠に行き着いた。真珠が寂しそうな表情をしていることに、胸がキリッと痛む。


「君を助けてくれた子だ」

「黒いものに飲み込まれていたのを、白くて明るい光が救いだしてくれた。そうか、君なのか。ありがとう……」


 直志は汚れている顔で微笑んだ。真珠は唇を噛むと、困ったように草世を見る。

 

「あの、わたし、希魅様のところに、行きます……」

「あー……。その前に、話したいことがある。僕の家で待っててくれないか?」

「でも……」

「渡したいものがあるんだ」

「……うん。わかった」


 真珠は小さく頷いた。家で待っているように発した草世の声は、怒っているようにも聞こえるし、怒っていないようにも聞こえる。でもどちらにしても、掟を破ったことに草世は腹を立てている。草世を助けたくてしたことだったけれど、かえって怒らせてしまった。


(恩返しって、難しい)


 そう思った直後。「恩返ししてくれ、なんて頼んだか?」という冷ややかな言葉を思い出して、シュンと落ち込んでしまう。

 




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