02


「っ……はあ…はあ、ハァ…ハァ…っ」


暗く湿った匂いが充満する路地裏を、一人の男がなりふり構わずに疾走していた。

逼迫ひっぱくする彼の耳に聞こえるのは、早鐘を打つ心臓の音と荒い息遣い、そして───恐怖を覚えずにはいられないほど危険で、おぞましい怪物の唸り声だった。


「くそ…っ、なんで俺がこんな目に…っ」


いま、男の身の上には今かつて経験したことがない不可解な不幸が一挙に伸し掛っていた。

長年務めてきた職場で人事異動があり、新たに配属された勤怠規範に厳しい上司に過去の恐喝暴行を打診され、通報しない代わりに…ということで職を失った。

職場からの連絡で両親に「悪事」がバレ、さんざん罵詈雑言で詰られた末に実家を勘当されたのが3日前。

思い返せば…病院をクビになった日の夜を境に、まるで見計らっていたかのように身辺で怪奇現象が起き始めたようにも思う。

最初は……庭先で飼っていた犬が、繋がれたまま首輪だけを残して消えた。

誘拐されたのか、はたまた自分で首輪を抜いて逃走したのか真相は分からない。

勘当されても行く宛てがなかったため徘徊の末に3日ぶりで実家に帰宅したのが今朝だったのだが、玄関扉を開けるとそこには大量の血と、かつては両親だった肉片が転がっていた。

警察に通報、とスマートフォンを取り出そうと胸ポケットに触れた時、耳許で確かに獣のような重い唸り声を聞いたのだ。

まるで猛獣そのものの歯噛みが迫ってくる恐怖に居ても立ってもおれず、惨状を放置して逃げて逃げてきて…今に至るのだが、もう足に力が入らない。


それほどに追い詰められ、疲れ果てている現状で襲われたならば、確実に……死ぬ。


「グスッ、俺が……俺が、悪かったよォ……みんな死んじまった。もうどうしたら、どうしたらいいんだ…。許してくれよ……悪かった、悪かったから……頼むよぉ……」


自分以外の身近な肉親の死を目の当たりにし、普段は曖昧にしか捉えられていなかった「死」を鮮明に認識して思い知った主犯の男・葉山裕一は、自分がかつて暴力を伴うイジメの末に自殺させてしまった同僚に心底から謝罪した。

心すらも折れ…体力の限界を迎えた葉山は力なく汚れた路地裏のゴミ捨て場に体を投げ出して横這いに倒れると、深く息を吐き出す。


「…ひぃっ!」


ふい、泣き腫らして赤くなった不明瞭な視界に見覚えしかない黒い人影が映った気がして、葉山は座ったまま僅かに後ずさった。

背中がぶつかったせいで水色のゴミ箱が虚ろな音と共に倒れ、蓋が外れる

ゴミ箱の蓋が転がったその僅か先に佇む“怪物”を遂に両目に捉え、葉山は声にならない悲鳴をあげた。


「お、俺が悪かった。謝るから…頼む許して!! 許してくれ!」


【み…いぃぃつうけぇたァァ……。ぐううう、おマェだけは、ユルサ、なイいィィィィ…】


怨霊化した葛西修平は、今や漆黒の毛皮を止めどない憤怒に逆立てる怪物だった。

心底から謝罪したからといって、煮詰められた怨念が晴れる訳ではない。

どの道、怨念の解消は対象えものの死でしか贖えないのである。


「いやだ、いやだ来るなああ…っ、来るな…っ」


鞭打つ尾が電柱を歪ませ、地面を陥没させながら接近する怪物・葛西修平から少しでも逃げんと這いつくばる葉山は、気づいた瞬間には目前にいた巨大な口に目を瞠る。


【バグッ!】


間を与えずに全身の肉が圧し爆ぜる形容しがたいグロテスクな音が路地裏に響き、乾いた地面を血飛沫が汚した。


++


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