06


【いぎぃい゛い゛い゛いぃいいぃ…っ!】


舞いあがる木っ端の粉塵を突き破って現れたのは、赤錆色と茶が斑になった毛皮を振り乱す異形の悪霊・堕落者アン・シーリーだった。

元は茶色だったのだろう、血泥まみれの体は不恰好で、醜悪に隆起している。


【ウううううぅぅうぅぅうぅぅうぅぅ…ッ】


眼下で全身の毛を逆立てて哭く堕落者アン・シーリーを見定めていたソラは、件の異形の容姿にワタリギツネのヒョーゴから伝え聞いていた「亡き孫娘」の特徴を見付けて顔を顰めた。


「なるほど……自ら変異した、という訳ではないようだ。……そうか、他の悪霊に喰われて、まだ日が浅いから吸収しきれていないのだな。…ならば、或いは離断できるかもしれないな」


堕落者アン・シーリーの巨大な頭部に「瘤」として僅かに癒着が残る幼児の頭部、その小さくあどけないお下げに、目印である赤いリボンの髪飾りが揺れている。

ほんの僅かにだが、生前の面影を残すワタリギツネの子供を、ソラは哀れんだ。

幼い子供の霊力は年齢と比例しているため、彼女の場合はそれほど強くはない。

まだ、3歳の幼児だったのだ。食い殺された時点で子供の魂魄は完全に吸収されてしまうのだが、彼女は抗って留まり続けた。

それほどに家族が恋しく、母親のもとに帰りたかったのだろう。


「とはいえ、な。先ずはコイツを捌かねば」


【!!】


あちらこちらに生々しく鉤裂きの傷跡が刻まれている堕落者アン・シーリーは、音も気配もなく刀の切っ先を向けられた瞬間、本能的に後ずさった。

堕落者アン・シーリーは基本的に沸点が低く、自身の危機に直結する行動を受けると襲いかかってくるのだが…。どういう訳なのか、ワタリギツネの子供を喰い殺したこの個体は沈静を保ちながら寧ろ此方の出方を窺ってさえいる。

明確な知性を宿す眼差しを受けたソラは一度刀身を鞘に収め、距離を空けて膝を折った。


「おまえ……まだ自我があるのだね。人の言葉は覚えているか?」


汚れて毛羽立った鼻にソラが掌を押し当てると、堕落者アン・シーリーは深く息を吐き出してから、ゆっくりとだが確かに頷いて応えた。


【………はイ。話せ、ます】


「己がどこの誰か、思い出せるかね?」


【私ハ、こノ近くの病院デ、1週間前に死んだ者でス。……自分ガ死んでしまッただなんて認めたくなくて、悲シクて、寂しクて寂しくて漂っている内ニ、気ガ付いたら、こんな姿になっていました……】


堕落者アン・シーリーの処分方法は2つある。

意思疎通が不可能なものが大半だが、稀に生前から継続して自我を持っている場合は未練を解いて解脱げだつを促すのだ。


【ゴメンなサい…。ごめんなさい、コンナ酷い事をして。ワたし、せイ前は娘がいたんです……ニたような年格好デ、まだかわいい盛りで……】


「だから近付いた」


畳み掛けたソラに対して、堕落者アン・シーリーは鋭利な歯牙が並ぶ口を震わせる。


【ハイ。……寂シさでウツろな意識の片隅で…子供ノ断末魔ヲ、聞いタような気がシマす。それでも、私ガ寂しくなけレば、いいなと思いました】


「子に、会いたかったお前の未練は理解した。だが他人を道連れにしたお前の所業を、許すわけにはいかん。ここで断罪されるか、自ら逝くかを選ぶといい」


【分かッて欲シイ…。ワタシはただ、ホントウに寂しかっただけなんデす。ソバにいるのに、ダレも私に気付カないノ。こんなニ叫んデるのに、どうしてワタシだけ? どうして、シんじゃっタりなんかしたんだろう。会いたいよぉ……娘に会いたいぃ…っ】


うずくまって啜り泣く堕落者アン・シーリーに向けて、ソラは帯刀していた破魔刀を高らかに振るいあげる。


─────シャン、シャン、シャリンッ!!


風を裂いてひるがえった刃は、五色の緒が付いた鈴…五箇鈴ごこれいへと変じていた。


「荒御魂、幸御魂、どうか、どうか聞こし召せとる……さあ、ゆっくりと目を閉じなさい」


神鈴の浄めに打たれた堕落者アン・シーリーは初めこそ戸惑ったものの、後押しする声に従ってゆっくりと双眸を閉じた。


「光が、見えるか」


【はイ……】


「ならばそのまま、明るい方へ、明るい方と進んでいきなさい。迎えも、来ているはずだ」


【ああ……】


泣き震えながら、アン・シーリーの身体から肉が次々に剥がれ始める。まるで腐敗が進むかのように赤々しい断面を露わにしながら剥がれ落ちた肉は、暖色の光を撒いて崩れては霧散していく。


「輪廻に還りたまえ。次は、選択を間違えるなよ…」


【はい…】


完全に悪霊の肉が剥がれ落ちると、浄化の光の中には入院着を着た若い女性が佇んでいた。

彼女は深く頭を下げると、やがて斜陽の中に霞んで消えていった。


「自分から上がれば次の転生も早いだろう。さて、私達も帰ろうか…」


『きゅおん!』


おもむろに抱き上げられた小動物ワタリギツネは、うるうるの両目でソラを見上げると甲高い声で鳴いた。


【あの~~~…もしもーし、何か忘れてませんかねえ?】


一件落着、とばかりに踵を返そうとしたソラの背中に、恨めしげな抗議が伸し掛る。

声の主を見遣ると、水銀燈の上に取り残されている啓司が心許なげな眼差しを寄越していた。


「お前は、曲がりなりにも霊体だろう。まあいい、仕方ないから降ろしてやる。ほら、しっかり掴まってろ」


【な、なんか思ってたのと違うけど…まあいいや。あ、でもやっぱりおんぶでお願いします。…大の男が細腕にお姫様抱っこはちょっと…】


麗人の細腕に軽々と抱え上げられた啓司はというと、よく分からない羞恥心に駆られて身悶えていた。

照れ臭いのだろうが、これから帰投しようという時にゴタゴタと言い訳を捏ねくり回されるのも面倒なので、ソラは無言で日暮れの帰路を歩く。

どちらも無言だったが、悪い雰囲気ではなかった。




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