【第五章】

【第五章】

「あれ、今日はめずらしく早起きじゃん。どうしたの?」

「……どうもしないよ。明日でやっと停学明けだからね、生活リズムを戻してるだけ」

「あ、そっか。もう停学終わっちゃうね。なんだかんだ、うちに三週間もいたのか。あたしも助かったよ。ありがとね」

「それはどういたしまして……。お世話になりました」

「うわ、まじめにお礼いってる。なんか変な物でも食べた?」

「ねーちゃんが作ってくれた朝ごはんを食べたからかもしれないな。その点でいえば変な物かも……」

「え? なに? 聞こえない」

「……ねーちゃん、分厚い教科書を振りかぶっていうのは反則だと思う……」

「で、なに?」

「……ごめんなさい」

「よし、仕方ないから許してあげよう。で、ちゃんと勉強はしたの? 授業追いつける?」

「僕を誰だと思ってんだよ。停学中の進んだ授業の範囲ぐらい楽勝だ。それよりも大事なことがある」

「つーちゃんのこと?」

「……うん」

「そっか。あの子、あんたのこと忘れてるかもしれないよ?」

「それでもいいよ。何度でも会いに行けば、いやでも忘れなくなるだろ」

「あはは、あんたらしいね。あたしには無理だったよ。なにいっても、つーちゃんは一人で全部抱え込んでた。あたしが夏休みに会おうっていっても、家から出て来てくれなかったよ。だからあんたができると思うなら……やってみな」

「うん。やってみるよ。先輩が僕を忘れても……何度でもやってやるさ」

「そうそう。その意気いきでね。やっとあんたたちは同じに気持ちになったんだもん。がんばりなよー」

「そうだね、やっと僕は自分の気持ちに気がつけた……って、あんたたちっていった? ま、まさかねーちゃん……前から知ってた……?」

「ふふん。つーちゃんはあたしにいろんな話をしてくれるからね。たとえばその日あったこととか。始業式の日に青い髪の男の子を見たとか」

「ねーちゃん……僕より性格悪い」

「なんのことやら。あたしは顔もいいし性格もいいし、おまけに頭もいいから完璧なの。じゃ、大学行ってくるからね。いってきまーす」



 *



『……で? 急に電話してきたと思ったらどうしたんだよ。まぁ、今は昼休みだからいいけど』

「省吾、お前のいってたことがやっとわかったよ。ありがとな」

『なんだよ気持ち悪いな。なにかあったのか?』

「なにか……そうだな、僕はどうやら、秦野先輩を好きになってたみたいだ。一目惚れだよ。始業式を遅刻した日。屋上から先輩を見たとき、僕は一目で恋に落ちたんだ」

『はぁ……⁉ お前急にどうしたんだよ。ほんとに拓輝か……? 結局、停学が三週間になったからおかしくなっちまったんじゃねえのか?』

正真しょうしん正銘しょうめい、数学のテストで名前を書き忘れて0点になった佐倉拓輝だ」

『……お前のねーちゃんの名前は?』

「佐倉志織だ」

『俺の妹の名前は?』

神宮じんぐうはかりちゃんだ。中学二年生。好きな色は漆黒しっこく普段ふだんは十字架のネックレスに黒い服と黒いスカート。ケガもしてないのに右腕に包帯を巻いてて、自分のことを異世界転生した闇の魔法使いだと信じきってる中二病」

『合ってる……本物の拓輝だな……』

「省吾。お前、明日は覚えてろよ」

『悪かったって。……で、どうしたんだよ。急に』

「わかったんだよ、全部な。先輩は記憶障害で、大事なことも忘れまいと思ったことも……いつ忘れてしまうかわからないんだ」

『そっか……。そうだったんだな……』

「だから僕は……明日、先輩に告白するよ。放課後、先輩がいる園芸部の部室に行ってみる」

『そっか。お前、明日が停学明けか。でも記憶障害なら、お前のことも忘れてるかもしれねえぞ?』

「それでもかまわない。何度でも告白するさ。先輩が僕のことを忘れても、そのたびに告白するよ。先輩が、そのことを急に忘れてしまうかもっていっても……僕のことをおぼえていられないかもっていっても、僕がおぼえていればいいんだ。簡単なことだったんだよ」

『はは。よくわかんねえけど、なんだかお前らしいな、拓輝。応援するぜ』

「ありがとな、省吾。お前のおかげだよ」

『うわ、なんか素直に礼をいう拓輝とか気持ち悪いな……』

「お前が失恋したおかげで僕は先輩への気持ちに気がつけたんだ。本当にありがとな」

『そのいい方は間違いなく拓輝だな……。満面の笑みでいってるのが想像つくぜ……』

「なんでわかった。今の僕は最高に機嫌がいいし満面の笑みだ」

『やっぱりな。ま、明日が停学明けだろ? 遅刻とかすんなよ。次は退学だぞ?』

「ああ、そうだな。気をつける」

『気をつける、じゃなくて停学にならないように行動するとか……まぁいいか、お前だし。あ、そろそろ昼休み終わるわ。また今日の夜にでも話そうぜ』

「ああ、ありがとな」



 *



「紬ちゃん。放課後に時間取らせてごめんなさいね。園芸部の活動の前にちょっと話さない? あなたの将来のことよ。ほら、座って。この前の進路相談の日、放送で呼んだんだけど……あなた、帰っちゃったでしょう?」

「……」

「厳しいことをいうけれど、あなたは留年しても三年生なの。いつまでもこの学校にはいられないわ。進路のこと……もう一度考えてみない?」

「加賀見先生……。でも私、勉強をいくらがんばっても、それを全部忘れちゃうんですよ。そんな病気を持ってるのに、進路なんて……。社会に出てもきっと生きていけない……。卒業したくありません……」

「紬ちゃん……。だからといって、ずっとここにはいられないのよ」

「……こわいんです。急に忘れちゃうことが。いつ忘れるかわからないことが。だから……もういいんです。こんな私が、夢なんて叶えられるわけないじゃないですか……。その夢もおぼえてないのに」

「紬ちゃん、そうやって、やけになるのはよくないわ」

「……」

「あなたは確かに物事をおぼえていられない病気を持っているわ。けれど日記を書いて、それを読んで、なんとか今日までつないでるじゃない」

「でも……いくら読んだって、私にはその実感がないんですよ。なにがあったか、どんな気持ちになったか……書いてあるのは、ただ、そこにある『文字』なんですよ。そんなの……そんなの、私の『思い出』じゃない……。どうしろっていうんですか、この病気、治らないのに……! それで未来のことを考えろって……!」

「紬ちゃん……。泣かないで、落ち着いて。大丈夫だから……」

「ここに書いてある『サクラヒロキ』くんと屋上に行ったのだって、この子からライターをもらったのだって、初めて校則違反をしたのだって! 私にはその記憶がないんですよ⁉ この男の子はこの日記に……忘れちゃう『私』に、好きだって、私に一目惚れをしたって、書いてくれてるのに……! 私はそれを、全部忘れちゃってるんですよ……⁉ ヒロキくんとの思い出も全部忘れちゃってるから、この告白を見てもなにも感じないんですよ⁉ それだけでもつらいのに、この先の……進路のことなんて、夢のことなんて、考えられるわけないじゃないですか……!」

「……紬ちゃん」

「もういいんですよ! 前の私が将来どんな人になろうとしたのか、どんな夢を叶えたかったのか、もう、いいんですよ! こんな……こんな病気なら、いっそ、全部きれいに忘れたかった。それなら……こんなにつらくなかったのに……」

「紬ちゃん……大丈夫よ。きっと治るから。大丈夫……」

「……どうせ忘れちゃうんだったら、なにもしたくないんです。なにも考えたくない……。もう無理なんですよ、私が社会に出て生きていくのなんて……」

「それは……あなたが一人で全部何とかしようって思っているからでしょう? あなたを支えてくれる人はきっと……」

「そんな人がいても、私はその人のこと忘れちゃう……。だったら……もういいんです。もう、大丈夫って自分に言い聞かせたくない。治るかもって、この人に打ち明けたら、私を支えてくれるかもって、期待したくないんです……」

「……」

「……先生、ごめんなさい。今日は一人で病院に行きますね。先生、さようなら……」



 *



「今日は病院も人いっぱいだね。検査の時間も夜になっちゃった。つーちゃん、おうちは大丈夫?」

「うん……お父さんが迎えに来てくれるから……」

「そっか。でさ、ちょっと元気ないけどどうしたの? なにかあった?」

「うん……。放課後ね、加賀見先生にたりしちゃったの……。将来のこと、もう一回考えてみないっていわれて……」

「だけど自分は忘れちゃう病気を持ってるから、それを考えても無駄だって思った?」

「うん……」

「確かに、つーちゃんがそう思っちゃうのも無理ないよ。でもほら、いつかは卒業しなくちゃいけないし」

「うん……。わかってるんだけど……」

「つーちゃんって一人で全部かかえちゃうところあるからね。誰にも相談せずに、なんでもかんでも全部抱えて、それが限界になったら爆発しちゃうの。その優しさがつーちゃんのいいところでもあるんだけど」

「去年の……園芸部の部室をめちゃくちゃにしたって、教えてくれたこと?」

「うん。部室にあった机も椅子も全部ひっくり返っちゃっててね。あれにはびっくりしたなぁ」

「私、おぼえてないや……ごめんね。きっと、みんなにも迷惑かけちゃったよね……」

「ううん、違うよ。それにもびっくりしたけど、つーちゃんがそんなにつらいことを一人でなんとかしようって、なんとかできるって思ってたことにびっくりしたの」

「え?」

「だってさ、いろんなことを忘れちゃう病気を持ってるのに、絶対一人でなんてできるわけないじゃん。誰かに聞かなきゃ、自分がなにしてたかもわかんないんだよ?」

「……」

「あ、ごめん。いいかたきつかったね。えっと、とにかくね。あたしは去年のつーちゃんと友達だと思ってたけど……あ、もちろん今も友達だと思ってるよ? でも去年のつーちゃんは多分、あたしに病気のことをいっても心配かけるだけだって……そのことを相談しても、きっとそのことも忘れちゃうからって、なにもいわなかったと思うんだよね。あたしだってつーちゃんと同じ立場になったら、多分そうする。いってもどうせ忘れる、って誰にも、なにもいわないと思う。でもそれでまた病気の症状が出て忘れちゃったら、同じことの繰り返しなんだよ。それどころか、もっと悪い方向に行っちゃうと思うんだよね」

「……」

「去年のつーちゃんはすごく楽しそうだった。夢がありすぎて迷うっていってて、すごいなって思ったよ。本当に。病気になる前……つーちゃんが進路の紙になにを書いたのかは、つーちゃん本人しかわかんないんだけど」

「……なにを書いたにしても、こんな私に進路なんて……。すぐ忘れちゃうのに、夢なんて叶えられるわけないよ……」

「そんなことないんじゃない? やってみないとわかんないよ」

「でも……」

「去年、あたしと過ごしたことはぼんやりとしかおぼえてなくても、またこうやって友達になれたじゃん。あたしはそれだけでもすごく嬉しいよ。だからそんなこといわないで。ね?」

「……」

「あたしの弟だってさ、そんなつーちゃんだからこうやって書いたんだよ、きっと。つーちゃんがもし忘れちゃっても……この日記を見るって信じてさ。ほら、つーちゃんのこと『すき』って書いてあるよ。一目惚れだって」

「……無理だよ。私、好きな人ができても……」

「じゃあそういってみたら? せめて返事はしてあげなよ。つーちゃんの日記にこうやって書いてくれたんだから。ちょっとだけ勇気を出して、自分の気持ちに素直になってみたら? いつか忘れちゃうっていうのがこわいなら、いっそ胸の中にあるもやもやを全部さ、いってみたらどう?」

「……」

「こわいよね。でも、ちょっとの勇気でなにかが変わるかもしれないよ。それは、つーちゃんがやってみないとわかんないけどね」

「うん……」

「秦野紬さーん、診察室へどうぞー」

「あ、呼ばれたよ。検査がんばってね」



 ***



 放課後。園芸部の部室で、僕と先輩は向かい合う。

「あなたのことが好きです。あなたが僕のことをおぼえてなくてもかまいません。僕がずっと、おぼえてますから」

 あの日、先輩の日記に書けなかった続きの言葉。

 やっといえた。やっと僕は、自分の本心を伝えられたんだ。忘れてしまう先輩の「今」に。

「え、あ、あの、でも、私……」

 椅子に座っている先輩はうつむいた。

「私……病気なんです。このこともあなたのことも、いつか忘れちゃう……」

「知ってます。あなたのこと、もう全部知ってますから」

 僕は一歩踏み出して部室の中に入る。

「え?」

 先輩は顔を上げた。

「あなたが全部忘れても、僕がおぼえてますから。あなたが忘れても、僕が……ずっとそばにいますから」

 僕はいう。あの日……先輩の一番古い日記を見た日。彼女の本心を知った日。それからずっと胸にあった想いを。



 

 ある日園芸部の部室に来た男の子は、サクラヒロキくんというらしい。漢字は佐倉拓輝って書いて……私のお友達、佐倉志織ちゃんの弟さん。

「あなたが全部忘れても、僕がおぼえてますから。あなたが忘れても、僕が……ずっとそばにいますから」

 その子は私に、そういった。

 でも私は、記憶をなくしちゃう病気を持っている。強いストレスを感じたときに症状が出て、それがいつのタイミングなのかわからない。そのことを忘れちゃうかもしれないし……忘れたことも忘れちゃうかもしれない。だから私は……できるだけ人と関わらないようにしてきた。本当は去年で卒業できたけど、急に「卒業したくない」っていって学校を休みがちになったんだって。

 そんな私の夢は、花の学者と自然保護管と風景の写真家。去年私と同じクラスだったお友達……佐倉志織ちゃんが教えてくれた。私が一番初めに書いた日記を読んでも……今の私には実感がなにもないけれど。

 実感も記憶もない。残ってるのは……涙でグシャグシャになった、私の文字だけ。

「……ごめんなさい。私、あなたと一緒にはいられません……。忘れちゃうから……」

 いつか忘れちゃうなら、一緒にいないほうがいい。思い出も……最初から作らないほうがいい。

「忘れるのがこわいんですよね? だからあなたは一人でいようとする」

「……」

 そうだよ。だって……いつか忘れちゃうって考えるだけでつらいんだもん。

「だからあなたは、卒業したくないって留年したんですよね。社会に出ても、こんな自分がどう生きて行けばいいかわからなくてこわいから」

「そう……かもしれませんね……」

 そういうしかできない。だって私には……その記憶も、なにもないもの。去年の私はそうだったのかもしれないし、もっと違う理由で留年したのかもしれない。今の私にはわからないこと。

「だったら僕が支えます。ずっと、ずっと……あなたが僕のことを忘れても。あなたが……大切な思い出を忘れても。僕が隣で教えます」

「私は、そのことも……」

「あなたがそのことも忘れてしまっても、僕がずっとそばにいます」

 サクラくんは椅子に座っている私の前にしゃがんだ。そして、私の顔を見上げて……手を握ってくれた。やさしくて……ホッとする手の温度。男の人に手を握られたの、初めてかもしれない。いやだな、これも忘れちゃうのかな。この思いも……。

「や、やめてください!」

 思わずサクラくんの手を振りほどいてしまう。ごめんね、違うの。あなたが嫌いなわけじゃない。そうじゃないの……。

「わ、私にかかわらないでください。私は一人でいいんです。忘れちゃうから、おぼえていられないから、だから私とは、もう……」

 違う……。違うの、ごめんなさい……。そうじゃないの。本当はわかってる。わかってるけど……。

『――ちょっとだけ勇気を出して、自分の気持ちに素直になってみたら?』

 無理だよ、志織ちゃん……。だって、私はおぼえていられないもの。どれだけすてきな言葉をいわれても……それを急に忘れちゃうかもしれない。それが……こわいの。

「か、帰ってください。もう、ここには来ないでください……!」

 ごめんなさい、サクラくん。あなたがどうしてこんな私に優しくしてくれるのかわからないけど、もう……いいよ。あなたがここで帰ってくれたら、私は期待しないで済むから。今日あったことも明日には、もしかしたら三十分後か一時間後か……一分後には忘れて、それでおしまいになるから。それでさよならになるから。

「――いやです。帰りません」

「え?」

「絶対に帰りません。僕は『今』のあなたに告白しているんです。返事をもらえるまで帰りません」

「え、あ、あ……え、えっと、じゃ、じゃあ、む、無理です! あなたのことなんかきらいです、か、帰ってください!」

「うそですね。あなたは僕に一目惚れしたと日記に書いてありました。本当の気持ちをいってください」

「えっ……⁉」

 私は教科書に埋もれていた『私の日記 秦野紬』と書かれているノートをめくる。

「う、うそ……」

 日記には確かに、こうつづられている。


『そっか。あのときのあれが一目惚れだったんだ。志織ちゃんが、それは恋だねって教えてくれた。そっか、私、一目惚れをしたんだ!』

『始業式の日、屋上にいた男の子。あの子と目が合ったとき、心臓がすごくギュッてなったの。周りの時間が止まったみたいでね、すごくふしぎだった。ビビってきたっていう感じなのかな。雷が目の前でバチバチってなったみたいにね。すごくふしぎだったの!』

『でも、忘れちゃうんだよね、この気持ちも。いやだな、わすれたくないな。

 初めて好きな人ができたのに。初めて一目惚れをしたのに。忘れたくないな。どうやったら治るのかな。どうしよう、どうしたらいいのかな。いっぱい話したいのにな』

『佐倉くんからライターをもらった! すっごくうれしい!』


 書かれてあるのは全部私の字だ。でも、その全部の出来事の記憶は私の中にはなくて……。これ、本当に私が書いたの……?

 日記を数ページ前に戻す。


『もう一人男の子と会った 青い髪の男の子』

佐倉さくら拓輝ひろき』『僕は、あなたのことが好きです』

『あなたにひとめぼれをしました。あなたが すきなんです』

『あなたが、おぼえてなくてもかまいません。ぼくが』

『この気持ちも全部忘れちゃうのかなぁ。いやだな、忘れたくないな。

 私は病気なんだって。青い髪の男の子 志織ちゃんの弟さん。私に会いに来てくれた男の子。私のことを知りたいんだって。でも私が病気だっていったら、あなたのことも忘れちゃうかもしれませんっていったら……それだったら、最初からお友達にはならないほうがいいよね。本当にごめんなさい。お友達になれなくてごめんなさい』


「青い髪の男の子……?」

 私は自分の日記と、目の前にいる男の子の顔を見比べる。

「あ、それは停学になったんで黒に染めてきただけです。学生証見せますよ」

 そういうと男の子は上着のポケットから生徒手帳を開いて私に見せてきた。そこには確かに、髪を薄い青色に染めていっぱいピアスをつけているこの男の子の写真と……名前のところに『佐倉拓輝』って書かれている。

「これでもまだ信じられないっていうなら……近くの店に行って青に染め直してきます。それだったら僕のことわかりますかね。急いだら三十分ぐらいでできるんで、それまでここで待っててくれれば……」

「ち、ちがいます! そういうことじゃなくて!」

「ああ、じゃあカラー剤を買ってきてここでやりますね。洗面台……は近くのホースでいっか。鏡……はトイレにあるやつでも使って……」

「ちがいます! そうじゃないです!」

 思わず椅子から立ち上がってしまう。ハアハア肩を上下させて、今度はサクラくんが私を見上げる。

「な、なんでそこまでするんですか⁉ 私、病気なんですよ⁉ あなたのこと、おぼえていられないかもしれない。あなたのこと、忘れちゃうかもしれないのに……!」

「そんなあなたが好きだからです。秦野紬さん。僕は、そんなあなたに一目惚れをしたんです」

「そ、それも、私は忘れちゃうかもしれないんですよ⁉ このことも、全部……」

「あなたが忘れても、僕が全部おぼえてますから。僕がずっと、あなたを支えます」

「……っ!」

 わかってる、サクラくんがうそをいってないこと。本当に私のことを考えてくれていること。わかってるのに――。

「もうやめてよ! なんでわかんないの⁉ なんで……」

 涙があふれて、ボロボロこぼれていく。心の中がもやもやして……苦しい。でもね、わかってる。苦しい理由はつらいからじゃない。涙があふれる理由は、きっと――。

「な、なんでそこまでするの……? だって、私……忘れちゃうんだよ? 忘れたことも忘れちゃうかもしれないのに、なんで……」

 足から力が抜けて立っていられなくなる。私はサクラくんの前にへたり込んで涙をボロボロこぼす。

「そんなあなたを、僕は好きになったからですよ」

 サクラくんの手が、あったかくてホッとする手が、私の手を優しく握る。やめてっていわなきゃいけないのに。この手を振りほどかなくちゃいけないのに。お友達になんかなれないのに。私は……一人でいなくちゃいけないのに。涙が……止まらない。ごめんなさいっていわなきゃいけないのに、言葉が喉につっかえて出てこない。

「……本当に? 本当に……私が忘れても、一緒にいてくれるの?」

 違う、いいたいのはそうじゃない。帰ってくださいっていわなきゃ。あなたとお友達になれませんっていわなきゃ。そう、いわなきゃいけないのに……。

「はい。ずっと一緒にいますよ。あなたが忘れても。あなたがなにもかも、おぼえていられなくなっても。僕は何度も、あなたに告白します」

 知らない男の子、サクラヒロキくん。この子との思い出は……今の私にはなにも残ってない。この子となにを話したのか、なにをしたのか。実感がなくて、きっと、忘れたことも忘れてる。でも、確かなことは――この子を見てると、心臓がドキドキして胸が高鳴るってこと。緊張してうまく言葉が出てこなくなること。突き放したい気持ちより、もっと一緒にいたいって思うこと。一緒にいてほしいって思うこと。「嫌い」よりも……「好き」っていう感情が止まらないこと。

「……本当に、ずっと一緒にいてくれるの?」

 涙でぐしゃぐしゃになった顔でサクラくんの顔を見つめる。視界が濡れてて、サクラくんの顔がにじんでぼやける。涙をボロボロこぼす私に、サクラくんはいってくれた。

「もちろんですよ。あなたが僕を忘れても、ずっと一緒にいます。遅くなってごめんなさい。大好きです、紬さん」

 顔の筋肉が勝手に動いて、表情が笑顔になっていくのが自分でもわかる――。

「私も……大好き! 大好きだよ、ヒロキくん。ずっと、あなたのこと、始業式で見た時から……!」

 そんな記憶、私の中には残ってない。おぼえてない、残ってないのに……そんな言葉が、私の口から勝手に出た。

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