【第四章】⑥
頭が重い……。その日は朝から調子が悪い日だった。すぐに頭がふわふわして、勉強も先生の話も全然わからない。授業で当てられても「わかりません……」しかいえなくてつらくなる。
ある日の放課後。園芸部の部室で勉強をしていると一人の男の子がやってきた。
「入部希望者ですか? 加賀見先生なら今、外で作業をしているんですけど……」
「あ、いや、えっと、そんなんじゃないんですけど……」
「……? じゃあ、どうしたんですか?」
「えっと……」
変な子だった。よく見ると髪はうっすら青色で、耳にはピアスがたくさんついている。制服のボタンも全部開けてて、その下にはパーカーを着ている。かなり目立つ印象の子だった。
その子は部屋の入り口に立ったまま、こういった。
「あの……僕と会いましたよね? 病院で……」
「病院……」
病院に行く日は火曜日と金曜日。日記に書いてるのなら、この子と会ったことがあるはずだけど……。
「ここにあなたの名前、ありますか?」
男の子に『4月6日』の日記を見せてみる。
「あなたと私……会ったことありますか?」
「僕、その……ごめんなさい。
男の子は、そういった。
「加賀見先生の手伝い頼まれたんで、ちょっと上着、ここに置いててもいいですか」
「……ああ、はい。軍手はそこに。作業が終わったら先生に渡してくださいね」
会ったこと、なかったみたい。そっか。そっか……。
軍手を取った男の子が、部室から出て行く。扉が閉まってから、私は日記にこう書き加えていく。
『どうしよう。病院で私と会ったことがあるっていう男の子が部室に来た。でも私、書くの忘れちゃってたみたい。悪いことしちゃったなぁ……』
それから何日かして、また部室に一人の男の子がやってきた。
「体験入部の紙を出しますね。そこに名前とクラスを……」
「あの、ハタノさん」
「? なんですか?」
私の向かいに座るその子がいう。
「あの……僕、この前ここであなたと会ったんですけど……おぼえてないですか? その前にも病院で会いましたよね?」
「えっと……その前っていうのはいつですか?」
「四月六日の始業式の日です。時間は……午後二時ぐらいだったと思います」
「始業式……」
始業式の日の日記を見てみるけど……この子のことはなにも書かれていない。
「この日は志織ちゃん……私の友達が検査の付き添いに来てくれたときですね。あなたは、えっと……」
「僕、その佐倉志織の弟で
「サクラヒロキくん……。ここに、あなたの名前はありますか?」
前のページを見せてみる。病院に行く日と、私と関係する人たちの名前を書いているページ。
「ここには……書かれてないです……。僕の名前……」
「そうですか。書き忘れたのかもしれません。ごめんなさい」
私は筆箱からシャーペンを出して、次のページに『もう一人男の子と会った。青い髪の男の子』と書き加える。
「名前の漢字はどう書くんですか?」
「……名字は姉と一緒で、名前のほうは
「お願いします」
ペンとノートを渡すと、男の子は角ばった字でノートに『佐倉拓輝』と書きこんだ。佐倉拓輝……
男の子……佐倉くんからノートを受け取り、私はそこの下に『志織ちゃんの弟さん。私に会いに来てくれた』と書き加える。
「それで、えっと……体験入部しますか?」
「え? あ、あの! 違うんです、そうじゃなくて!」
そして、佐倉くんはいった。
「あなたのことが知りたいんです」
「え?」
すごく……びっくりした。心臓が跳ねるほど、びっくりした。
「私の、こと……?」
「……はい。そうです」
聞き返すと、佐倉くんは強くうなずいた。
「……」
私のことが知りたい……って。でも……ダメだよ。私、病気だから……。仲良くなっても、あなたのことを急に忘れちゃうかもしれないから。
「帰って。ごめんなさい。帰ってください」
「あ、その、会ってからそんなに仲良くもないのに、急に変なこといったのは謝ります! でも僕はあなたのことが――」
「ごめんなさい。そういうの、いらないんです。お友達になれなくてごめんなさい。私は……一人がいいんです。私は……一人でいいんです。だから、ごめんなさい」
ごめんなさい。お友達になっても、あなたのことをいつ忘れるかわからないの。だからごめんなさい。私は一人でいいんです。こんな私には……お友達はいないほうがいいの。
佐倉くんが部屋から出て行く。
私は椅子から立ち上がり、棚に置いてあったノートを手に取る。ボロボロで埃をかぶった色あせたノート。ところどころページが根元から破られてて、もうほとんど残ってない。私の……多分、一番古い日記。
『神さま、私はなにか悪いことをしたのでしょうか。なんでこんな病気になっちゃったのかな』
『私の名前は秦野紬。私は記憶障害という病気を持っている。強いストレスを感じると、直前の記憶が飛んだり、自分が今どこにいるのかわかんなくなっちゃう』
『急にいろんなことがわからなくなる
今が何日で何曜日なのか、何時なのか、自分が今どこにいるのか。でも、この日記を見れば大丈夫。私はそういう病気だから。急にわからなくなったらこの日記を見て。
火曜日と金曜日は病院に行く。検査をする。お母さんの電話番号と病院の電話番号を書いておくから、この日記を見てもわかんなくなったら病院に電話をしてね。
私の名前は
お友達の志織ちゃんにはいわないほうがいい。それも忘れちゃうかもしれないから』
『全部忘れちゃう。それがいつかわからない。だったら、勉強したって意味がないじゃん。
まだ、学校だったらなんとかなると思ってた。でも、もうだめみたい。つかれちゃった。
卒業してどこにいくっていうの? 私なんかが一人で生きていけるわけない。全部忘れちゃうのに。もういいよ、つかれちゃった。なにもおぼえていられないのに、夢なんか叶えられるわけない。もういいよ……』
そこにはいつかの私の気持ちが全部書かれている。今の私には、その記憶も実感も……そのときどんな気持ちだったのかも、破ったページになにを書いたのかも……なにも残ってないけれど。
『好きな人のことも忘れちゃうのに、もう無理だよ。だったら、一人のほうがいいよ。みんな忘れちゃうんだもん』
「好きな人、か……いっそ今残ってる記憶も全部忘れて
そうつぶやいて、日記を棚に戻す。立てている本の横じゃなくて、その上に。
次の日。私の部屋の……ベッドの上で目が覚める。昨日なにがあったか……全部おぼえてる。部室に佐倉くんが来たこと。お友達になれなくてごめんなさいといったこと。一つも忘れてない。こんな日、初めてかもしれない。もしかして私の病気、治ったのかな。それだけですごくうれしかった。昨日のことをおぼえてるだけで……すごく。
顔を洗って、自分で朝ごはんを準備して、お弁当も作って。寝室にいるお母さんに「行ってきます」をいって家を出る。
そのあいだずっと頭に浮かんでいたのは、佐倉くんのことだった。どうしてだろう。佐倉くんのことを考えると、心臓がバクバクして胸の奥がギュッとなる。なんでだろう……。
「佐倉拓輝くん……いますか?」
その日の放課後。思い切って佐倉くんの教室に行ってみた。行く前に職員室に寄って、加賀見先生に「青い髪の……」っていったら「ああ、佐倉くんね」ってすぐにクラスを教えてくれた。
「佐倉拓輝は僕ですけど……」
「あなたにお話があって……ちょっといいですか?」
どうやら佐倉くんは私のことを聞いて回っているらしい。加賀見先生がいっていた。どうしてだろう。どうしてそんなに私のことが知りたいのかな?
「屋上……初めて来ました」
「そうなんすね。あ、そこ段差あるんで気をつけてください」
学校の屋上に初めて来た。本当は校則違反だけど……ちょっとワクワクしてドキドキする。校則を破ったからかな?
「もう桜もほとんどないですね」
ここからは学校の裏庭がよく見える。ピンクの花びらをいっぱいつけてる桜の木も。でも花びらは、もうほとんど散っている。
「それで、話っていうのはなんですか?」
ああ、そうだ。そのことだった。すっかり忘れてた。私は日記を開いていう。
「えっと……あなたが私のことをいろいろ聞いて回ってるって、加賀見先生が教えてくれて……どうしてですか?」
「あー……その……えっと……。なんて説明したらいいのかわからないんで、どこから聞きたいですか?」
「最初からお願いします。全部、聞きたいです」
考えるより先に口から言葉が出ていた。どうしてだろう……。佐倉くんと会ってから、この子の名前を知ってから、私は感情で動いているような気がする。
それから佐倉くんは話してくれた。
始業式の日にここから私を見かけたこと。その日はたまたま遅刻してここにいたこと。みんなが授業や部活をしてるあいだ、ここでぼーっとしたり昼寝したりしていること。実は隠れてタバコを吸っていること。オイルライターを持ち歩いていること。
「……ライター、もっと見たいならあげますよ」
と、佐倉くんはいった。
「でもそれは、佐倉くんが使うんじゃないんですか? 私にあげたら困るんじゃ……」
「ちょうどオイルが切れたやつがあるんですよ。それは歯車を回しても火がつかないので、よかったら……」
佐倉くんは制服の内ポケットから銀色のライターを手渡してくれた。かっこよくて、重たい。すごく……うれしかった。
私はすぐに日記に書き込む。忘れないように。忘れても……この気持ちは文字に残るように。
『佐倉くんからライターをもらった! すっごくうれしい!』
屋上の扉が開いて、誰かが来た。
「……またお前かぁ、佐倉」
来たのは多岐先生だった。去年、私の担任だった先生……らしい。
「……って秦野までいたのか。お前ら……」
タバコを口にくわえた先生は、がりがりと後頭部を掻きながら深いため息をつく。
隣を見ると佐倉くんと目が合った。思わず「えへへ」って笑ってしまう。そして私は今日の日記に、『初めて校則違反しちゃった』と書き加えた。
最近調子がいい。全部おぼえてる。毎日が楽しい。こんなの、病気になってから初めてかもしれない。
「先生、私、最近調子がいいんです」
診察室で国立先生にいう。
「そうですか。記憶も安定しているようですね。なにかいいことでもありましたか?」
「いいこと……好きな人ができました」
「えっ⁉」
国立先生がむせて、看護師さんが「あらあら」って笑った。
「どんな子なの?」
看護師さんが聞いてくる。大丈夫、すぐ頭に浮かぶ。佐倉拓輝くん。大丈夫、忘れてない。
「青い髪をしてて、制服の下にパーカーを着てて……カッコイイライターを持ってる子です。ピアスがいっぱいついてます」
「そ、そうなんだ……」
看護師さんの顔がわかりやすく引きつった。どうしたんだろう、私、なにか変なこといったかな。
「んん」って国立先生がわざと咳をして、モニターから私のほうへ向き直る。
「前向きなのはいいことです。ストレスを軽減すれば、症状も安定するでしょう」
「あ……」
そうだ……忘れてた。私、病気だったんだ。そうだ、私……。
「……先生、この病気治りますよね?」
「……」
「治りますよね? なんとかなりますよね? 私……」
涙があふれてくる。ボロボロこぼれて止められない。
「私……忘れたくありません、この気持ち。どうやったらおぼえていられるんですか? 私……拓輝くんのこと忘れたくないんです。先生、どうやったら治るんですか……?」
先生は答えてくれない。看護師さんも下を向いて……なにもいってくれない。涙がどんどんあふれて、止まらなくなる。
「私、なんでもしますから……。お金だって、がんばって用意します。何年かかっても払います。だから……だから……治してください、この病気。お願いします、お願いします……。忘れたくないんです、忘れたくないんです……!」
診察室に私の泣く声だけが響きわたる。
国立先生にこういったことも、いっぱい泣いたことも……いつか忘れちゃうんだ。拓輝くんと屋上で話したことも……あのライターをもらったことも。
「忘れたくないんです、お願いします、お願いします……」
涙が止まらない。泣いてもどうにもならないのに。それも忘れちゃうのに。しばらく、私の声だけが診察室に響いていた。
次の日。三限目の授業が終わって、休み時間に拓輝くんからもらったライターを眺めていると。
「ねぇねぇ秦野さん、そのライターどうしたの?」
ちょっぴり派手な女の子たちの一人に話しかけられた。みんなクラスメイトだけど……誰だったかな。名前は知らないや。確か前の昼休みのときに「この前さープレゼントにバッグくれたんだけど。ダサいから捨てちゃった。ハンカチとかいらねえし」「あははっ。完全に財布扱いじゃん」「だってさぁ、一目惚れしたとかまじめな顔でいうんだよ。ウケるよね」「それで二年も付き合ってんの?」「そうそう。あたしのためにバイトも二つ増やしたんだって。ほんとバカだよねー」「なにそれウケる。
「ねぇ、聞こえてない? そのライターどうしたのって聞いたんだけど」
「あ、あ、えっと……もらったの」
「へぇ、誰に?」
「二年生の佐倉拓輝くん……」
「佐倉……って、青い髪の?」
「うん……」
私がそういうと、女の子たちは顔を合わせて「図書室にいた奴だよね」「あのヤンキーみたいな」「だよね」って話していた。
「ね、秦野さん。それちょっと貸してよ」
「え、でもこれは……」
「いいじゃん。ちょっとだけ。すぐ返すから」
そういうと女の子は私の手からライターを取ってどこかに行ってしまった。返してっていおうにもすぐに授業のチャイムが鳴っちゃったから、なにもいえなかった。
そのあと。放課後――拓輝くんが二週間の停学になったと加賀見先生から聞いた。拓輝くんからもらったライターは……結局、私の手には戻ってこなかった。
それからあっという間に五月が来た。裏庭の桜はすっかり散って、葉っぱだけになっている。私の病気はいっときは安定していたんだけど、またぶり返して昔のことが
今は放課後。園芸部の人たちと花壇の整備をして、落ち葉の掃除をして。それらが終わった私は園芸部の部室で、一人、勉強をしていた。顧問の加賀見先生は職員会議が終わったら来てくれる。
「うーん……」
集中力が切れた私は勉強する手を一旦止めて、背中を伸ばす。背中の骨がポキポキ鳴った。
『私の日記 秦野紬』と書かれたノートを手に取ってパラパラページをめくっていく。このノートは私の日記。記憶障害っていう病気を持っている私の大事な物。その日になにがあったかって簡単にだけど書いてある。
「ん?」
一つだけ、私の字じゃないものがある。なんだろう。そのページで手を止め、よく見てみる。
『
「
角ばった男の子の字。誰だろう。……わからない。その横にもその子の字が書かれている。
『
その字は雨に濡れたみたいにクシャクシャだった。その下の行にも、ミミズが這った跡みたいになった文字が書いてある。
『あなたにひとめぼれをしました。あなたが すきなんです』
『あなたが、おぼえてなくてもかまいません。ぼくが ずっと』
「誰? これ……」
そういったと同時――部室の扉が開いて誰かが入ってきた。
入ってきたのは男の子だった。園芸部の部員でもない。黒い髪、きっちり着ている制服……誰だろう。知らない子だ。
ちょっとびっくりしたけど、私は慌ててその子にいう。
「え、えっと、入部希望者ですか? 今は顧問の先生がいないんですけど、体験入部なら――」
「佐倉拓輝です。秦野紬さん、僕は始業式の日、あなたに一目惚れをしました」
「……え?」
まじめな顔をして、その子はいった。そして――
「あなたのことが好きです。あなたが僕のことをおぼえてなくてもかまいません。僕がずっと、おぼえてますから。僕は、そんなあなたに恋をしたんです」
男の子……サクラヒロキくんはまっすぐに私の目を見て、そういった――。
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