【エピローグ】
【エピローグ】
『好きな人が私を好きだといってくれた。ずっと支えるっていってくれた。私が忘れても、ずっとおぼえていてくれるって。すごくうれしい。そうか、私、その人のことすごく好きなんだ!』
僕は開いていた日記をパタンと閉じる。少し色あせたそのノートの表紙には『私の日記 秦野紬』と書かれている。僕はそれを肩にかけているショルダーバッグにしまった。
「あ、拓輝くん!」
リハビリを終えた先輩が僕の元に歩いてくる。その手には一冊のノートと折り紙で折った二匹の
「今日は折り紙をしたの! 鶴を折ったんだけどね、難しくて紙がくしゃくしゃになっちゃった」
そういって僕に笑いかける。その言葉の通り、青い紙とオレンジの紙で折った二匹の鶴は少しだけ元気がない。
「そっか。でもすごい上手にできてるよ。家に帰ったら僕もやってみようかな」
「うん! 一緒に作ろうね」
先輩の手からノートを受け取り、それもバッグにしまう。ノートの表紙には『私たちの日記 秦野紬 佐倉拓輝』と書かれている。僕らが一緒に暮らし始めたその日から書いている、僕らの交換日記だ。その日になにをしたのか、なにを感じたのか。彼女が忘れても僕がおぼえていられるように。
あれから八年が経った。僕は二十五歳。先輩は二十七歳。月日が流れて、何度目かの四月。
先輩の格好は、春らしい上着とふんわりしたスカート。胸ぐらいまである髪は三つ編みのハーフアップに結んでいる。彼女が自分で選んだ服と、「やって」といわれて僕が結んだ髪型。
僕らが一緒に住み始めて、もう八年になる。先輩は僕のことを……ときどき忘れる。
あの日、僕が先輩に告白した日。涙をふいて落ち着きを取り戻した先輩は椅子に座り、将来のことを僕に話してくれた。夢にも将来にも希望を持てないこと。進学するにしても、留年しているから大学に入れるか不安なこと。自分が持っていた夢はなんだったのか思い出せないこと。ボロボロ涙をこぼす先輩を「大丈夫ですよ」となぐさめながら、僕は先輩の話を最後まで聞いた。
先輩が話し終えたときにはすっかり日は沈み、完全下校の時間が近づいていた。鼻をすすりながらハンカチで涙をふいている先輩に僕はいった。病院でそういう集まりがあって、同じような病気を持つ人たちと一緒にリハビリができると。それをいうと先輩は「知らなかった」といって驚いていた。今まで「無理だ」「やっても意味がない」と
僕が病院の看護師さんからもらったパンフレットを見せると、先輩はやっぱり「でも……」といった。僕はその手を優しく掴み、「じゃあ一緒に行きませんか? 僕も興味ありますから」というと、先輩は「……サクラくんがそういうなら」といってくれた。理由はどうあれ、僕はそれだけですごく嬉しかった。先輩の口から初めて前向きな発言が聞けたかもしれない。
「集まりがあるのは今週の土曜日ですけど、家まで迎えに行きましょうか? いやなら駅で待ち合わせでもいいですよ」
「駅で待ち合わせしましょう。スマホのスケジュール帳に入れておけば多分、大丈夫……あ」
「え、なんですか? もしかして僕のことわかんないすか? 僕はえっと、佐倉拓輝といって、あなたの……」
「ちがいます。大丈夫です。おぼえてますよ。ただちょっと……」
「なんですか?」
「これってデートかなって、思って……」
先輩は耳まで真っ赤にさせていた。すごく……ドキッとして、僕の心臓がドクドク暴れ始める。
「デート、ですかね……はは……」
そう返す僕の声も
「……」
「……」
お互い顔を真っ赤にさせて、しばし僕らは黙り込んでいた。
その
「あ……もう学校閉まりますね。出なきゃ……」
「あ、そ、そうっすね」
先輩が立ち上がり、僕も部室を出る。
「……あ、鞄、教室に置いたままだ」
先輩が園芸部の部室の鍵を閉めたと同時、僕は思い出した。
「えっと……先輩、あの……」
頭を掻きながらモゴモゴ話していると、先輩は僕の手をスッと握った。柔らかくてあったかい手の温度が伝わってくる。横に立つ先輩に目をやると――僕と目があった彼女はいつかと同じ、恥ずかしそうに「えへへ」って笑った。
変な話だけれど、その、病院のリハビリ見学が僕らの初デートだった。
その初デートから一週間ほどして、先輩は学校を自主退学した。定時制の高校に入り直し、リハビリに通いながらあきらめていた勉強を再び学び直した。そして無事に高校卒業の資格を得て、今は近くの大学に通って様々なことを学んでいる。「毎日楽しい」とその日あったことを嬉しそうに話す彼女を見るのは、僕としてもすごく嬉しくなる。もちろん授業中に記憶障害の症状が出ることもあるが、そのたびに周りの先生たちやいろんな人たちがフォローしてくれているので、先輩はなんとか大学に通えている。非常にありがたいことだ。そして先輩は家に帰ってくるなり「大学を卒業したらどこに行こうかな。なにをしようかな」とワクワクしながら夢を語ってくれる。高校生のときには「どうせやったっておぼえていられない……」とあきらめていたのに。
彼女の持つ記憶障害は今でも治っていないが、高校生のときよりかは症状が出る頻度は減ったと国立先生がいっていた。まだまだ安心はできないけれど、ひとまずそれだけでも大きな一歩だ。ねーちゃんにそのことを報告すると、まるで自分のことのように大喜びしていた。
ねーちゃんは無事に大学を卒業して保育士になり、二年前に五つ年上の人と結婚した。今は二人の子供のために育児休暇中だ。たまに母さんの所に子供を預けて僕らの様子を見に来てくれる。僕と母さんは相変わらず良い関係とはいえないけれど、学生の頃よりかは少しはマシになったと思う。少なくとも、僕からの電話を取ってくれるぐらいには。
省吾は高校を卒業後、近くの建築会社に就職した。もう女はこりごりだといっていたのだが、事務員の女の子に迫られて
そして僕、佐倉拓輝だが。僕は先輩が学校を去ったあと、以前の僕とは思えないほどまじめになった。……と思ったのも三日ぐらいで、四日目には制服のボタンを全部開け、僕の髪は鮮やかな青に染まっていた。「まぁ三日続いただけでもよかったか……」と担任がため息まじりにいっていた。ただ一つ、僕はサボりや遅刻が目に見えて減っていた。そのことについては担任はきちんと評価してくれた。
他の生徒……主に女子たちからは「頭がいいヤンキー」「調子に乗ってる」などといわれ、教師たちには「お前、もうタバコとか吸ってないだろうな」「問題起こしてみろ、退学だからな」などと睨まれながらも僕は無事に学校を卒業し、「まさかお前がちゃんと卒業できるとは思わなかったよ」と三年でも担任だった多岐先生にはいわれた。いっておくが、さすがに卒業式は髪は黒くしたし制服もちゃんと着た。
そして高校を卒業してから、僕は地方の公務員に就職した。別にどこでもよかったのだが、決まった時間に帰れることと休みの日が決まっていることが大きな理由だった。先輩のリハビリに付き添えるし、なにかあってもすぐに仕事を抜けられる。あとは単純に給料が良かった。やっぱり面接で「停学期間が二週間とありますが、どういうことですか?」と聞かれたけれど、「未成年でタバコ吸ってるのがバレたからです。今は大人になったので堂々と吸ってます」と正直に答えたらなぜか面接官たちに大笑いされ、そのまま内定をもらった。
「公務員になりました」というと、ねーちゃんは「すごいじゃん! 時間できたら会いに行くね」といった。「頼むから来ないで」といっておいた。
省吾は「……お前、まじめにできんの?」といわれたので腹に一発ぶち込んでやった。隣にいた省吾の彼女が「だ、大丈夫?」と省吾のことを心配していた。
働き始めて何年かして、久しぶりに担任に会いに行ったついでにそのことを報告すると、多岐先生は飲んでいた缶コーヒーを吹き出した。そして「お前が公務員……? マジで……?」と、とても
先輩とは就職先が決まった時点で「一緒に暮らしませんか?」と提案した。そのほうがもっとあなたを支えられるし、一緒にいられるから僕も安心ですというと、先輩は涙をボロボロこぼして「よろしくお願いします」といってくれた。あの日……先輩に改めて告白した日から知ったことなのだが、彼女は意外にもよく泣く人だった。一緒に感動ものの映画を見てもすぐ泣くし、ホラー映画を見ても怖がって泣く。そしてその場面を思い出してまた泣き始める。涙もろくて、感情を大きく表現する人だった。この人と関わって初めて知れたことだ。
そんな彼女の病気のことを詳しく知ろうと、僕は働きながら先輩の病気のことを調べ始めた。それが思いのほかおもしろくて、医療福祉と心理学の夜間学校に通った。もちろん、その学費は全部自分で出した。卒業するのがもったいないぐらい奥が深くて、もっと知りたくなる。知識が増えると、その分彼女を支えられる。そのことが僕にとってとても嬉しかった。
何年かの時を経て、僕はようやく省吾がいっていたことを理解したんだ。その礼をいおうと省吾に電話をかけてみたのだが……。
「やっとわかったよ、省吾。お前のいってたことがな」
『は? 急になんだよ気持ち悪いな……。俺、なんかいったっけ?』
省吾はすっかりそのことを忘れていたようだ。僕はそのままブツリと通話を切り、しばらく省吾を着信拒否の設定にした。
「あのね、
夕日を背に、病院からの帰り道を僕らは手を繋いで一緒に帰る。黄色い帽子をかぶった小学生や、疲れた顔のサラリーマンが僕たちを追い越していく。
「どんなリハビリだった?」
横にいる彼女にそう聞く。毎月二回、彼女はこうして丸一日リハビリをする日がある。今日は送り迎えだけだが、予定が合えば勉強のためにと僕もときどきそのリハビリを見学させてもらっている。
「えっと……おぼえたい相手の外見イメージと、その人の名前とを結びつける方法なんだって。
「そうなんだ。おもしろいね」
隣ではしゃぐ紬さんを見ながら、僕も思わず笑ってしまう。
「あ! 見て見て拓輝くん! あそこの桜きれいだね!」
不意に立ち止まり、彼女は数メートル先を指さした。彼女の指の先には河川敷。昔……僕と省吾がよく学校帰りに寄っていた場所で、いつか省吾が失恋して泣いた場所。そこの両端にはたくさんの桜の木が植えられ、ピンク色の花びらをいっぱいにつけている。
「きれいだよね。帰る前にちょっと見に行って――」
そこで風が吹き、僕の視界に花びらが舞う。
「もう桜もほとんどないね」
といって彼女は、首から下げた小さな一眼レフカメラを構えてシャッターを切った。その光景が――僕の視界にあの日のことをフラッシュバックさせる。
場面は屋上。ドクドクと高鳴る心臓の音と……緊張して喉になにかがつっかえるようなあの感じ。
おぼえている。今でもはっきりと思い出せる。
長い髪を耳にかけながら、同じことを彼女はいった。
はっきりと目の前に浮かび上がる。何年も前の……屋上に立つ制服姿の彼女を。僕に向けてくれた、あの笑みを――。
「拓輝くん?」
先輩の声でハッとする。先輩は小さな一眼レフカメラを持ったまま、心配そうに僕の顔を見つめていた。このカメラはこの前、いつもリハビリをがんばっているからって僕がプレゼントしたものだ。
「だ、大丈夫? どこか痛いの? ちょっと休む? お水買ってこようか? 座ったほうが楽かな?」
彼女はオロオロしながらそう聞いてくる。付き合い始めてわかったことなのだが、彼女は意外と心配性だ。僕がちょっとふらついただけで、救急車と消防車と警察を呼ぼうとしたのには驚いた。
無理もない。ちょっとした事故が原因で、彼女は記憶障害という大きな病気を患ったのだから。
「大丈夫だよ。ちょっと昔のことを思い出しただけ」
「昔のことって?」
「あそこの河川敷はね、昔……僕と省吾がよく寄ってた場所なんだよ」
「そうなんだ。じゃあ、いっぱい写真撮らないとね。拓輝くんの思い出なら、私もおぼえていたいから」
そういうと彼女はまたカメラを構えて、桜の木がたくさんある河川敷を撮り始めた。僕はその様子を横から見つめる。
彼女は、僕がプレゼントしたこのカメラをどこにでも持って行きたがった。デートはもちろん、家の中でもたくさん写真を撮り、彼女が作ったアルバムはもう本棚いっぱいになっている。その中にはいつの間に撮ったのか、朝コーヒーを飲んでいる僕の写真や僕の寝顔まで入っていた。新しいアルバムができると省吾やねーちゃんに見せては「ここはあれを見に行ったんだよ!」と楽しそうに話した。今でも僕は思い出せる。彼女とデートでどこに行ったのか、そのとき彼女がどんな服を着ていたか、どんな顔で笑っていたか。彼女が小さな手で僕の手を握り、「拓輝くん、次はあっちに行ってみよう!」とどんな声で僕を呼んだのか――。その思い出は、もう彼女の中にほとんど残っていないけれど。
「そろそろいこっか。夜になっちゃう」
そういって彼女はカメラから目を離し、再び僕の手をきゅっと握った。僕より一回り小さい手から、優しい温度を感じる。
夕方の道を、僕らは再び歩き出した。
「あのね、私ね」
と、彼女がいった。「うん」と僕は
「よくおぼえてないんだけど、多分、中学生か高校生のとき……誰かに告白されたんだよね。でも私、忘れちゃう病気だからその人に『ごめんなさい』って断ったの。仲良くなっても忘れちゃうかもしれないから。私と一緒にいても、その人との思い出をおぼえていられないかもしれないから」
「うん」
歩きながら彼女は話してくれる。彼女にとってはぼんやりとしか残ってない、抜け落ちた思い出。その「誰か」にとっては……大切な恋の思い出。
彼女を支え初めて最初の頃は、もちろんこうして横に並んで歩くなんてできなかった。こうして、手を繋いで一緒に帰るなんてことも。突然記憶が抜けて僕のことがわからない彼女は、ひたすら僕をこわがり、怯え、ときには僕の前から逃げ出すこともあった。彼女が交番に駆け込み、追いかけた僕はさながら
「でもね、その告白してくれた子は、それでも私のことを大好きっていってくれたの。そんな私に一目惚れしたから、って。私が全部忘れてもずっと一緒にいるって。私が忘れても、僕は何度もあなたに告白しますっていってくれてね」
「……そっか」
まったく、誰だろうな。そんな恥ずかしい告白をしたのは。その告白も彼女は忘れてしまうかもしれないのに。誰だろうな、まったく。
「その子のことも、その子の顔も、もう思い出せないけど……私ね、その子のことを見たときから、ずっと気になってた気がするの。もしそのときの私だったら、その子のクラスまで行っちゃってたのかな? それでお名前を聞いて、一緒にたくさんお話をしたのかな? その話を、私は忘れないようにってたくさん日記に書いたのかな? 忘れても思い出せるようにって、思い出せなくても、こんなことがあったんだなって感じられるようにって日記に書いたのかな?」
「あはは、どうだろうね」
僕は思わず軽く笑いながらそう返す。横にいる彼女が不思議そうに首をかしげる。
国立先生がいうに、紬ちゃんは事故の前までのことはおぼえてはいるのだが、記憶障害の症状が出始めたあたりの記憶が大きく抜け落ちているらしい。細かくいうと、高校三年生の六月後半から十月ごろまでの記憶だ。障害の症状が出始めたのが六月だったので、そのことで強いストレスがかかったのではないかと先生はいっていた。最近は過去の記憶が失われる症状がよく出始めて……二回目の三年生の四月……僕と出会ったあたりの記憶も、彼女はおぼろげにしかおぼえていない。
「病気だから一緒にはいられませんっていったのに、その子は全然引き下がらなかったの。なんていうか……よくおぼえてないんだけど、私はずっと一人でがんばってて、病気のことを誰に話しても無駄だって思ってたんだよね。でも、その男の子が『大丈夫』っていってくれてね。『あなたが忘れても僕がずっと一緒にいます』っていってくれてね。そのときに私は……なんていうか、張り詰めてた糸が切れたみたいな、すごく安心したの。誰かにそういわれるのを、ずっと待ってた気がするの」
彼女は言葉を続ける。
「それでね、私、その子のこと……その子を見たときから、ずっと好きだった気がするの。なんでかな。誰かももう思い出せないのに、その子のこと……その子がいってくれた言葉はね、ずっとおぼえてるの。不思議だよね。他のことは忘れちゃってるのに」
そういって――彼女は笑った。これをいったら迷惑をかけるとオドオドして、申し訳なさそうなうその笑顔じゃない。本心からの、自然な笑みだった。
「紬ちゃん」
「? どうしたの? 拓輝くん」
僕が足を止め、彼女も立ち止まる。道の端で急に立ち止まった僕らを、通行人はチラチラ見ながら横を通り過ぎていく。
僕はいった。
「僕は、そんなあなたが大好きだよ。高校二年生の始業式の日、そんなあなたに、僕は一目惚れをしたんだよ」
「えっ……!」
紬ちゃんの顔が一瞬で真っ赤に染まる。僕の言葉を聞いていたのか、さりげなく立ち止まった何人かがスマホを構える。動画の撮影が開始された音。明らかに写真を撮っている動き。かまうもんか。
「え、あ、あ、えっと……あ、あの……」
真っ赤な顔で紬ちゃんがワタワタする。そんな彼女の手を取り、僕はさらにいう。
「あなたが忘れても。あなたがなにもかも、おぼえていられなくなっても。僕は何度も、あなたに告白します。好きです、紬さん。僕は、そんなあなたが大好きです。これからも、僕と一緒にいてくれませんか?」
「え、あ……」
彼女は目を見開いて固まっている。あの日「僕」が告白したという記憶も、今の彼女にはうすぼんやりとしか残っていない。彼女の中では「告白した人物」と「僕」は別人かもしれないし、僕が告白したという記憶があっても、その実感は残っていないかもしれない。それでも僕は、「今」の彼女に告白をした。彼女にとっては初めてのことで――僕にとっては、もう何度目かわからない告白だ。
「本当に……私が忘れても、一緒にいてくれるの?」
彼女はいった。耳まで真っ赤にさせて。恥ずかしさでキョロキョロと周りを見回しながら。
不思議なことに。彼女は僕が告白すると、毎回、顔を真っ赤にさせて同じことをいう。記憶が抜けて僕が誰かもわかっていないときでも、だ。よっぽど強く脳に刻まれたことだったのか、忘れたくないと強く思ったからなのか。それともただの偶然なのか。主治医の国立先生もわからないといっていた。国立先生は笑いながら「奇跡かもしれませんねぇ」なんていっていたけれど、一目惚れというおかしな現象が起こるんだから、そんな奇跡もあってもいいだろと僕は思った。
「もちろんだよ。あなたが僕を忘れても、こうやって何度も告白するから」
僕がそういうと、彼女は目に涙を浮かべてボロボロこぼし始めた。その雫を手でぬぐいながら、彼女はいった――。
「もう、遅いよ拓輝くん。その告白、ずっと待ってたんだから」
そういって笑いかける彼女を僕は優しく抱きしめた。腕の中で彼女が「あれ? あれ?」といっている。先程いった言葉は無意識だったのだろう。僕はさらに彼女をギュッと優しく抱きしめる。
「だ、大丈夫、拓輝くん? どこか痛いの? おうち帰る?」
僕の腕の中で彼女がワタワタしている。ごめん、紬ちゃん。もう少しこのままでいたいんだ。
「大丈夫だからね。私はここにいるからね」
といって彼女は僕の背中を撫で始めた。その優しさで思わず涙がこぼれそうになる。ああ、彼女はこういう人だった。自分より周りを心配して、一人で全部抱え込む人だった。それが今はこうやって……ここまで前向きになるなんて。急に自分がどこにいるかわからなくなるのに……今の自分がここにいると、はっきりいえるようになるなんて。
彼女の中で、いつかこの記憶も消えてしまうかもしれない。それでも僕はこの人が好きなんだ。突然「あなた誰ですか?」っていわれたとしても。家に帰って「デート楽しかったね」っていって「どこか行ったっけ……?」っていわれたとしても。それでも僕は、この人のことが大好きなんだ。どうしようもなく。彼女が僕を忘れても。
彼女も同じだ。いつか突然、好きになった人を……その人との思い出を失くしてしまうかもしれない。そんな恐怖を抱えながらも、彼女も僕に一目惚れをした。お互いにつらい思いをするのがわかっているのに、それでも僕らは恋をした。
僕がこう告白したことも、いつか急に忘れられてしまうかもしれない。大切な思い出もいつか突然忘れてしまうかもしれない。忘れたことも忘れて、好きな人のこともわからなくなってしまうかもしれない。そんな危うい関係の僕らだけど、それでも僕らは、これからもお互いに恋をし続ける。忘れるたびに、忘れられるたびに。何度も、何度でも――。
それでも、僕らは。 ハギヅキ ヱリカ @hagizuki_wanwan
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