【第四章】④
「紬ちゃん、そこにはコスモスの苗を植えるのよ。たくさん植えるから、だいたい三十センチぐらいのあいだを
「はい」
放課後。園芸部の花壇の前で、加賀見先生と一緒に花を植えている。汚れるから私は体育の時に着るジャージで、加賀見先生は庭いじりをする時みたいな格好だ。
「先生」
「なぁに?」
「穴を掘れました。ここになにを植えるんですか?」
「え?」
加賀見先生が驚いた顔で私を見る。
「あ……」
どうしよう。やってしまったみたい。どうしよう、どうしよう。ごめんなさい、ごめんなさい……。
……ああ、まただ。また、胸の中がモヤモヤして……イライラする。ダメだよ、イライラしたら記憶が抜けちゃう。抑えなきゃ、抑えなきゃ……。
「そこの三つが赤色の苗だから、それを植えたらその横に黄色の苗を植えてね。紬ちゃん……大丈夫?」
「だ、大丈夫です。聞こえなかっただけで……」
「……そう? 本当に大丈夫?」
「はい、大丈夫ですよ」
そう返す。イライラして頭がズキズキし始めた。大丈夫、落ち着いて。ゆっくり息を吸って吐くの。大丈夫、大丈夫……。どうしてこんなことができないんだろう。なんで私、こんなになっちゃったんだろう……。ああ、だめだ、頭が痛い。モヤモヤする……。
「……先生」
「なぁに?」
「この花、咲くのっていつですか?」
「そうねぇ……今が五月の終わりだから、だいたい六月に入ってからかしら」
「六月……」
それまでおぼえていられるのかな。この学校のことも、志織ちゃんやたくさんのお友達のことも。三年生になるまでに積み重ねてきた思い出も。園芸部で桜の木を植えたことも。その下で志織ちゃんとお弁当を食べたことも。
自分で植えたこの花たちも……いつか急に忘れちゃうのかな。
『私の夢 いつか、この日記を見る私へ。
私の夢はたくさんあった。花の学者、自然保護管、風景の写真家。そのどれか一つでも叶えられるかもしれないし、全部無理なのかもしれない。忘れちゃっても、ここに全部書いておく。
私の名前は秦野紬。たくさん夢があった。
他の夢は、病気を乗り越えること。前向きに生きること。人生を楽しむこと。好きな人を作ること。その人と一緒に生きていくこと。そして』
「……」
自分の部屋。椅子に座る私は文字を書く手を止める。『そして』で止まった私の日記。私は……そのページを根元から破ってごみ箱に捨てた。
「つーちゃん、最近本とか全然読まなくなったけど、どうしたの?」
次の日の昼休み。園芸部の部室で志織ちゃんがそう聞いてきた。
五月が過ぎて、六月になった。日が過ぎるのは早くて、六月ももう半分終わってる。桜も葉っぱになっちゃって、夏休みに入る前には掃除をしようねって加賀見先生と話した。その話をしたのはいつか……もう思い出せない。その話を昨日したのかもしれないし、その話自体していないのかもしれない。どちらにせよ「今」の私には……抜け落ちた記憶の部分。
「最近カメラも全然手入れしてないみたいだし。写真撮るのやめちゃったの?」
「そんなこと……ないよ?」
作り笑顔でそう返す。大丈夫かな。バレて……ないよね。
「ほら、花壇のコスモスもいっぱい咲いてきれいだよ。つーちゃんと加賀見先生が植えたんでしょ?」
ね、って志織ちゃんが部室の前にある花壇を指さす。そこにはたくさんの花が風に揺れている。
「私が……植えたんだっけ……?」
「ん? そうでしょ? 先月さ、先生と一緒に植えてたよ。あたし、補習やってるとき教室から見てたもん」
「そう……だっけ……」
「うっかり忘れちゃった? 鍵もよく落とすしスマホはよく失くすし、もう、つーちゃんはうっかりだねぇ」
「あ、あはは……そうかも……」
「あ、そうそう。今日の授業も
「だ、大丈夫だよ。ちょっと考え事してたの」
「考え事? 今日のテレビとか。ドラマなにがあったのかなーって?」
「……うん。楽しみだなーって」
「そうなんだ。つーちゃんもドラマとか見るんだ。めずらしいね。夜十時からのやつのさ、あの俳優めっちゃイケメンだよねー」
「そ、そうだね……」
ごめんね志織ちゃん……。テレビを見てても話の
『急にいろんなことがわからなくなる。
今が何日で何曜日なのか、何時なのか、自分が今どこにいるのか。でも、この日記を見れば大丈夫。私はそういう病気だから。急にわからなくなったらこの日記を見て。
火曜日と金曜日は病院に行く。検査をする。お母さんの電話番号と病院の電話番号を書いておくから、この日記を見てもわかんなくなったら病院に電話をしてね。
私の名前は
お友達の志織ちゃんにはいわないほうがいい。心配をかけるし、いったことも、相談したことも忘れちゃうかもしれないから』
「お弁当食べないの? 食べなきゃ午後の授業もたないよ?」
「もうおなかいっぱいになっちゃって……」
「そう? 捨てるのももったいないから、あたしが食べようか?」
「うん、お願いしてもいい?」
「じゃ、いただきまーす」
志織ちゃんは私のお弁当箱を手に取って、あっという間に残りのおかずを全部食べてくれた。
ごめんねお母さん。お弁当がいやになったわけじゃないの。なんだかちょっとだけ……つかれちゃった。
お昼休みが終わって廊下を歩いていると、
「秦野。進路相談の紙、出してないのお前だけだぞ。もう書けたか?」
担任の多岐先生にそう引き止められた。
「あ……えっと……」
なんのことだっけ。書いた……ような気もするし、書いてないような気もする。園芸部に忘れてたかな。
「すみません、まだなので放課後には職員室に持っていきますね」
そういって、多岐先生とは別れた。
放課後になって、園芸部の部室に行ってみる。『進路希望調査票』と書かれた紙が机の上に置きっぱなしになっていた。やっぱりここに忘れてたみたい。
「進路……」
第一希望の枠の中いっぱいにはこう書かれている。
『・植物学者(花)
・自然保護管
・写真家(風景写真家)』
書かれているのはそれだけ。第二希望も第三希望も、なにも書かれていない。
「私が……」
私が書いた。私の字だ。でも……でも、その実感がない。いつ、これを書いたんだろう。どんな気持ちで、私は……。
棚にしまってあるケースを手に取る。中には大切なカメラが入っていた。もう手入れもしてないから……埃と汚れがついている。手に取ってみても……どうやって写真を撮るのかがわからない。
「う、ううう……っ」
じわって涙があふれてくる。進路希望調査票の上にボロボロ落ちて、紙がくしゃくしゃになる。
頭の中で、プツンって、なにかが切れたような音がした。
「ああ、ああああああ!」
こんなに大きな声が出たんだ、私。
涙があふれて止まらない。カメラを持つ手を振り上げる。だけどこのカメラは……とても大事な物だった気がする。壊しちゃいけない、大事な物。でも、それがどんなふうに大事だったのか、わからない――。
「あああああ!」
カメラを床にたたきつける。レンズが割れて、小さな部品が飛び散る。
「もうやだ! やだ、やだよおおおお! なんでこんな、なんで私なの⁉ なんで……!」
机をひっくり返し、椅子をなぎ倒す。進路の紙をびりびりに破いて、なにもかもをめちゃくちゃにした。
「うあああ! あああああ!」
床にへたり込んで声を上げる。もう疲れちゃった。もう……どうでもいいや。
「紬ちゃん!」
「つーちゃん!」
遠くから加賀見先生と志織ちゃんの声が聞こえてくる。先生、ごめんなさい。志織ちゃん、ごめんね。ごめんね……。
「秦野! なにやってんだ!」
多岐先生に体を揺さぶられる。なにもいいたくなかった。いったってどうせ忘れる。ごめんなさい、ごめんなさい……。
それからは……よくおぼえてない。
トントン、と私の部屋の扉を誰かがノックする。
「……紬、今日は学校どうする?」
お母さんだった。
「……行きたくない」
布団を頭からかぶっている私は、くぐもった声でそう返す。
「……そう。じゃあ学校に電話してくるからね。ごはんはテーブルの上に置いてるから、ちゃんと食べてね……」
扉の向こうにいるお母さんはそういって階段を下りて行った。ここ最近はずっと自分の部屋から出てない気がする。前にお母さんの顔見たの、いつだっけ……。
「う、ううう……」
もう出ないと思ってた涙がまたあふれてきた。これもまた忘れちゃうかもしれない。みんなごめんね。お母さん、ごめんね……。
「卒業したくない?」
「はい……」
園芸部の部室で、久しぶりに加賀見先生の顔を見た。
久しぶりに学校へ行った。とはいっても……放課後に園芸部の手伝いをしに来ただけなんだけど。
「それは……どうして? お友達と離れるのがいやなの?」
この前の騒ぎがあっても私は今年卒業する受験生だ。加賀見先生に「進路どうするの?」ときかれて、私は正直にそう答えた。
「そう、ですね……。そうです。私、この学校が好きだから」
「あらそうなの。紬ちゃん、入院する前も学校が好きっていってたものね」
加賀見先生は頬に手を当てて上品に笑った。
ごめんなさい。本当は違うんです。
卒業したくない本当の理由は――。
「秦野、この前のテストだが……名前だけしか書いてないってどういうことだ? なにか、あったのか……?」
いつかの放課後。多岐先生が私の前に座ってそう聞いた。私の机の上にはこの前やった……いろんな教科のテストが並べられている。そのほとんどが平均点も取れてない。中には自分の名前だけしか書いてないものもある。
「授業もわかってない部分が目立ってきてるぞ。テストだって……名前しか書いてないのもある。入院してるあいだの授業に追い付けない……ってのはわかる。でもな……このままだと単位が危ないぞ」
「……」
「欠席も多くなってきてる。なにか心配事があるなら俺にいってくれてもいいし、学校のカウンセラーの先生に相談してもいい。もちろん、園芸部顧問の加賀見先生でもな。仲良くしてる佐倉でもいい。このままこの状態が続くようなら、親御さんを呼んで話をしなきゃいけなくなる」
「……」
「退院してからずっと見てたが……秦野は少しがんばりすぎてしまうところがあると思う。無理はしなくていいから、昼休みからでもいい。保健室にいてもいいから、学校には来るようにしような」
「……はい」
「じゃあ話は終わりだ。気をつけて帰れよ」
「……はい」
多岐先生が教室を出て行く。窓の向こうにはきれいな夕日。思わず写真を撮りたくなるほどの景色。
「……」
膝の上に置いているスマホの画面に、ポタリと雫が落ちる。私の涙だ。
スマホのロック画面の壁紙……志織ちゃんと二人で一緒に撮った写真に、雫がポタリポタリと落ちていく。
「うう……」
涙がボロボロ落ちて、スマホの画面の上に水たまりを作っていく。この、志織ちゃんと写っている写真も……いつ撮ったのか思い出せない。
「うう、ううう……!」
胸がギュッてなって苦しくなる。服の上から心臓を押さえて――誰かたすけて。その一言が頭に浮かぶ。でも、いってしまったら――。そのこともきっと忘れちゃう。それも忘れたら――。
『……秦野さん、またなの? また約束忘れちゃったの? あのさぁ、いい加減にしてくれる? こっちが迷惑なんだけど。はぁ……もういいよ。あとの作業はこっちでやっとくから。園芸部の部室の鍵だけ閉めて帰ってね。できる?』
『はぁ……秦野さん。それ前にも聞いてきたよ。あなたの次の授業はここじゃなくて二階。ほら、授業始まるよ』
『今日が何日って……それさっきも聞いてきたよ。あのさぁ……こっちも暇じゃないんだけど。というか、借りてる本はいつになったら図書室に返しに来てくれるの? 前にもいったよね』
『ねぇ紬、最近学校を休んでばっかりだけど、あなた将来のことちゃんと考えてるの? 進路の紙にだって変なことを書いてたし――……え? おぼえてない? ちょっと……またなの? はぁ……もういいわ。自分の部屋に戻ってなさい。晩ごはんは自分で適当に作りなさい』
『父さんは紬の夢、応援してるからな。写真家になって父さんをカッコよく撮ってくれよ。……え? 写真家じゃなかったか? ほら、入学式の日にカメラを買ったじゃないか。それから休みのたびに出掛けて、たくさん写真を撮ってたじゃないか。アルバムだって自分で作って…………いや、そういってたんだ。そう、紬が自分で……。そう、いってたんだよ……』
『つーちゃん、大丈夫? ほんとに大丈夫なの? 無理してない? しんどいなら早退して病院に…………そっか、大丈夫、か……うん。わかった、無理しないでね……』
私はどれだけみんなに迷惑をかけていただろう。これからも、どれぐらいみんなを困らせるだろう。それも忘れて、あと何回ため息をつかれるんだろう。
「う、うう、ううう……」
誰か助けて。誰か、この病気治してよ。だれか……。
夕方の光が教室の中を真っ赤に照らす。赤い、赤い夕陽の中で、私は一人、声を殺して泣いた。
『全部忘れちゃう。それがいつかわからない。だったら、勉強したって意味がないじゃん。
まだ、学校だったらなんとかなると思ってた。でも、もうだめみたい。つかれちゃった。
卒業してどこにいくっていうの? 私なんかが一人で生きていけるわけない。全部忘れちゃうのに。もういいよ、つかれちゃった。なにもおぼえていられないのに、夢なんか叶えられるわけない。もういいよ……』
「……無理だよ。卒業したってどこにも行けない。いくらがんばっても急に忘れちゃうのに、夢なんか……叶えられるわけないのにね」
暗くなった自分の部屋。その文章を書いているページを見ながら、ぽつりと私はつぶやいた。枯れたと思っていた涙が……またあふれてきた。
それから私は、徐々に学校にも行かなくなった。
『夏休み始まったね! 来週の日曜日、プールとかどうかな?』
『ごめんね志織ちゃん。その日は用事があって行けそうにないの。私の分まで楽しんできてね』
『あ、そうなんだ! 残念。じゃあまた今度一緒に行こうね!』
『了解』といっているウサギのスタンプを返して、また布団にもぐる。病院でもらった薬のおかげで、すぐに眠りに落ちた。
『つーちゃん、夏休みの登校日はさっき送った表の通りだよ! 来れそうならきてね!』
『ありがとう。がんばるね』
『無理はだめだよ。なにかあったらすぐに言ってね!』
『実はね……私、記憶障害っていう病気なの。ストレスがかかると急に出来事を忘れちゃうんだって。新しい物事もおぼえていられないんだって。だからね』
そこで指を止める。志織ちゃんとのメッセージ画面に、目の周りを真っ赤に腫らした暗い顔の私が映る。
「……」
私は右手の親指を動かしてキーボードの『×』に当て、途中まで書いたその文章を……一気に全部消した。
『秋になったね。園芸部で掃き掃除したら焼き芋しようって加賀見先生が言ってくれてね。みんなで焼き芋したよ! つーちゃんの分もあるけど、今から持って行ってもいい?』
『ありがとう。でもごめんね、今、外にいて帰るのが夜になりそうなの。志織ちゃん食べて』
『そっかー。わかった。また今度なんか持っていくね!』
ゴソゴソ布団から起きて、部屋の窓から外を見る。すっかり秋の色をした葉っぱが風に流されて飛んでいる。今は何月だっけ……何日だっけ……。わからない……。壁に飾っているカレンダーは『6月』のまま。ハンガーにかけてある制服は……長袖のまま。
それからもずっと休み続けていた私は……ある日校長室に呼ばれた。留年か退学か。もう一年がんばるか、自主退学して高校中退の学歴になるか。どっちでもよかった。どうでもよかった。でもお母さんがすぐに「せめて高卒の学歴は……」といって、私はもう一度三年生をやることになった。
駐車場に停めている車に乗り込む。私は後ろの席で、お母さんは運転席。
「……来年こそは卒業しなさいよ」
運転席にいるお母さんがいう。私は窓の外を見ながら、
「もう一回やっても、むだなのに……」
そうつぶやく。その声が聞こえたのか、しばらくして前から聞こえてきたのは……お母さんの
家に帰って夜になる。私はいつも通り晩ごはんも食べずに自分の部屋にこもっていた。トイレに行こうと階段を降りていると、リビングから二人の声が聞こえてきた。
「高校で留年って……あの子、これから先どうするつもりなのかしら」
「まぁまぁ、紬には紬なりの考えがあるんだよ。見守ろうじゃないか」
「見守るって……あの子、記憶障害なのよ? ちょっとのストレスで全部忘れちゃうのよ? そんな子を、どう見守るっていうのよ。あの子にとって、なにがストレスになるかわからないのよ⁉ どうしろっていうのよ」
「そんなこというなよ。紬だってがんばってるんだ」
「なにをがんばるっていうのよ。病院の先生は認知症の中核症状っていってたわ。介護と同じじゃない。無理よ。あの子を、どう扱っていいかわからない……。あの子、留年したのに、もう一回やってもむだだっていったのよ。なにを考えてるのかわからないわ……!」
「そんなことをいうんじゃない。娘だろう」
お母さんの声が震え始める。泣き始めて、それをお父さんがなぐさめる。
ああ、私……二人に迷惑かけてる。ごめんなさい、ごめんなさい……。
「……」
階段の途中で立ち止まっていた私は、足音を立てないように引き返そうとする。
「あの子、ずっと部屋から出てこないのよ。そんな子をどうやって扱ったらいいのよ。私、もうわからないわ……」
「明日にでも病院で国立先生に聞きに行こう。ほら、毎週土曜日にそういう人たちの集まりが……」
二人の声がまだ聞こえる。部屋に戻って鍵をかけた私は、頭から布団をかぶって耳をふさいだ。
「ねぇお父さん、私の病気、治るよね?」
いつかの日。夜。リビングでお父さんと話した。お母さんとは……もうずっと顔を合わせてない。
「……」
お父さんはなにもいってくれない。
「……お父さん、私、全部忘れちゃうんだよね。そういう病気なんだよね」
私の前には一冊のノートが開かれた状態で置かれている。そこにはびっしりとこう書かれている。
『急にいろんなことがわからなくなる
今が何日で何曜日なのか、何時なのか、自分が今どこにいるのか。でも、この日記を見れば大丈夫。私はそういう病気だから。急にわからなくなったらこの日記を見て。
火曜日と金曜日は病院に行く。検査をする。お母さんの電話番号と病院の電話番号を書いておくから、この日記を見てもわかんなくなったら病院に電話をしてね。
私の名前は
お友達の志織ちゃんにはいわないほうがいい。心配をかけるし、いったことも、相談したことも忘れちゃうかもしれないから』
「私の病気って……なに?」
お父さんはいった。
「……記憶障害といって、物事をおぼえていられない病気なんだ。強いストレスを感じると過去の記憶が抜けたり、物事を新しく記憶できない症状が出る……」
コーヒーカップを持つお父さんの両手は、小さく震えていた。
「……治るよね?」
私はもう一度聞く。
「この病気……治るよね?」
「……記憶障害は認知症の中核症状だと主治医の国立先生がいっていた。治るとは……」
そこで、お父さんは言葉を切った。気まずそうに私から目を逸らす。
「……そっか。そっか……」
お父さんの反応。それだけで、わかった。
「私……夢を叶えるどころか社会に出ることだって、できないんだね……」
「……」
お父さんはなにもいってくれなかった。ただずっと……泣きそうな顔で唇を噛んでいた。
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