【第四章】③

「今日の補習はー……五人だな。ほら、三年は受験もあるんだからしっかりおぼえろよー」

 いつかの放課後。数学の補習授業。窓の外はきれいな夕焼けが広がっている。

「じゃ、微分法のおさらいからしていくぞ。まず微分っていうのは、ある関数の導関数を求める演算のことだ。で、この導関数ってのは――」

 どうしよう、先生の話を聞いてもわかんないし……教科書を見ても全然わからない。わかんないとすごく焦る。焦ると心臓がバクバクして……うまく息ができなくなる。どうしよう、どうしよう……。

「――秦野。おーい、秦野」

「あ、は、はい!」

 顔を上げる。黒板の前に立つ多岐先生と他の生徒が私を見つめていた。

「……ちゃんと聞いてるか? 体調悪いなら保健室行くか?」

「あ……」

 みんなの視線が痛い。どうしよう、泣きそうになる。心臓の奥がドクドクして、胸が苦しい……。頭が痛い……。頭が……まるで誰かに押さえつけられてるみたいにギュッてなってる。

「だ、大丈夫です。すみません、ぼーっとしてました……」

 ズキズキする頭とモヤモヤする心。それを抑え込んで、私は先生にそういった。




「最近授業中もぼーっとすることが多いけど、本当に大丈夫か?」

 椅子に座り、背もたれを両手で抱えた多岐先生がいう。いつのことだったかな……わからない。多分、補習とは違う日だ。だって窓の外には雨が降ってるから。でもいつだったかは……思い出せない。

「退院してから明らかに成績が落ちてるぞ。授業でわからないところがあるか? それともなにか気になることとか……」

「大丈夫です。大丈夫ですから……」

 とっさに口から出たのはその言葉だった。それは自分に言い聞かせたのかな。それとも、無意識にいったのかな。わからないや……。

「……そうか。気になることがあるならすぐにいえよ。俺でも、園芸部顧問の加賀見先生でも」

「はい……」

「じゃ、俺は職員室戻るから。呼び出して悪かったな。気をつけて帰れよ」

 多岐先生が教室から出て行く。ガラガラって扉が閉まって、先生の足音が遠ざかっていく。

「これからがんばれば大丈夫、大丈夫……きっと大丈夫……」

 私は一人、そうつぶやき続けた。




 家に帰って数学の教科書を開く。ノートも新しいページにして、カチカチとシャーペンを押して新しい芯を出し、勉強の準備をする。

「大丈夫……勉強したら追いつけるはず……。大丈夫……」

 そういいながら勉強を始めるけど……なにもわからない。どこまで習ってて、どこからがわからないのか。それすらもわからなくなってイライラしてきちゃう。

「ここは前に習ってる……ここは授業でやった、はず……だよね?」

 教科書と自分のノートに書いてある内容を照らし合わせる。でもそのほとんどがぼんやりしてて……よく思い出せない。

 入院する前には満点だった教科書の問題も、今見たら全部なんのことをいっているのかわからない。これ、ほんとに私が全部解いたの……? 

「大丈夫、忘れてるだけ。勉強したら思い出す。きっと大丈夫、大丈夫……」

 そうつぶやきながら手を動かす。教科書に書いてある内容をただ書き写すだけの作業。ただ書き写しているだけだから、その内容も一つも頭に入ってこない。

「大丈夫、大丈夫……」

 心の奥がモヤモヤしてギュッとなる。喉の奥になにかが詰まったみたいになって……うまく息が吸えなくなる。

「大丈夫……きっと大丈夫……」

 ズキズキする頭を左手で押さえながら、もう片方の右手で文章を書いていく。

「だ、だいじょうぶ、だいじょうぶ……きっと追いつける、大丈夫……」

 はっ、はっ、って呼吸が短くなる。唇が震える。感情がこみ上げてきて泣きそうになる。頭が痛い。ズキズキする。視界が狭くなっていく。手が震える、息が――。

「紬、そろそろ晩ごはんよ」

 トントン、というノックの音とお母さんの声。

「あ……」

 私は目をぱちくりさせた。ぼんやりしていた意識が戻ってくる感覚。ペンが手から落ちる。両手が小刻みに震えていた。私は胸を上下させて呼吸をしていた。

「紬? 大丈夫?」

「あ……だ、大丈夫だよ! すぐに行くから」

 椅子に座っている状態で扉の向こうにいるお母さんにそう返す。お母さんは「冷めちゃうから早く来なさいね」っていって階段を下りて行った。

「はぁっ、はぁ……」

 その足音が遠ざかっていく頃、やっと呼吸が落ち着いてきた。ノートに書いてある文字は……途中でミミズがったあとみたいになっていた。

「頭、ぼんやりする……なんだろう……。勉強、してたのかな……? あとにしよう……」

 私は開かれた教科書とノートをパタンと閉じた。この勉強の続きを私が再開するときは――もう二度とこない。




「あれ、紬ちゃん。なにか探し物?」

「あ、えっと……自分のスマホがなくて……」

「スマホ? あ、これ? 机の下に落ちてたよ」

「う、うん。これ。ありがとう」

「他には落としてない?」

「多分、大丈夫だと思う……」

「ねぇみんなー。廊下に鍵が落ちてたよ。誰のか知らない?」

「あ、それ私の! ありがとう志織ちゃん」

「秦野さん、また鍵落としちゃったの? うっかりだなぁ」

「名前でも書いとけば?」

「それがいいかもね」

「そ、そうしようかな……」

 あははってみんな笑ってる。私も……笑うしかできない。




「今日は導関数の応用やるぞー。この前やった微分法の導関数を元にして――」

 多岐先生の数学。

「じゃあ秦野、答えてみろ」

「え、あ……わかりません……」

 そういうしかできない。

 どうしよう。勉強もわかんなくてイライラする。「言葉」としてはちゃんと聞こえるのに、先生がなにをいっているのか、全然わからない……。

「あれ、これ秦野さんのスマホじゃない? また落としてるよ」

「あ、つーちゃん。また鍵落としてたよ。はいこれ」

「あ、ありがとう……」

「秦野さん、先週の土曜日に園芸部の買い出しの約束してたんだけど……なんで来なかったの?」

「え? そ、そんな約束してましたっけ……?」

「花の苗をみんなで買いに行くっていったじゃん。来れないなら連絡してね。加賀見先生も心配してたから」

「ご、ごめんなさい……」

 そんな約束、おぼえてない……。本当にそんな約束してたのかな? どうしよう、最近変だよ。うっかりが増えた。どうして? できてたことができなくなった。わかっていたことがわからなくなった。そんな自分にまたイライラする。




「ねぇつーちゃん、この花咲いてるよ。写真撮らないの?」

 志織ちゃんからカメラを渡される。高校入学のお祝いにお父さんに買ってもらった一眼いちがんレフカメラ。私の大事な物。

「あたしも撮ってよ。かわいくね」

 志織ちゃんは校舎裏の花壇の前に立ってVサインをする。そんな志織ちゃんに向けてカメラを構え、ファインダーをのぞく。きれい……なんだと思うんだけど、なんだか違う。入院してるあいだ、カメラは手入れだけだったから設定もいじってない。そのはずなのに、おかしいな……。

 どうやってやるんだったっけ……?

「撮れた?」

 志織ちゃんが私のほうに駆け寄ってくる。

「ご、ごめんね。カメラの調子が悪いみたい」

 さっとカメラを隠しながら、私はそういうしかできなかった。




 退院してから一週間が過ぎた。五月もそろそろ終わる。

「紬、最近学校はどう? 体調は戻った?」

 朝ごはんを作りながら、お母さんがそう聞いてくる。

「うん……大丈夫だよ」

「退院してから写真は撮った? またアルバム作ったらお母さんにも見せてね」

「うん……」

「……学校、楽しい?」

 気がつくと、キッチンを離れたお母さんが私の前でしゃがんでいた。

「うん、楽しいよ。大丈夫」

「……そう。ならいいんだけど……なにかあったらすぐにいうのよ」

「うん。ありがとう」

 学校は楽しい。志織ちゃんがいて加賀見先生がいて、多岐先生がいて。他のみんなも優しくしてくれる。うそじゃないよ、お母さん。

 きっと気のせいだ。きっと……まだ調子が戻ってないからだ。体が変なのも、もうちょっとしたらきっと治る。授業がわからないのも……きっと治る。大丈夫。大丈夫……。




「つーちゃん、また鍵落としてたよ。はいこれ」

「あ、ありがとう……」

「最近うっかりしてることが多いけど、大丈夫?」

「う、うん、大丈夫……。今って、何月だっけ……」

「今は五月だよ。もうすぐ六月。あと三か月もしたら夏休みだよ」

「あ、そう……。そうだよね……。ねえ志織ちゃん、今日って何曜日だっけ……」

「えーっと……今日は五月の二十四日で水曜日だよ。なんか用事でもあるの?」

「う、ううん、そんなのじゃないけど……ありがとね」

「気になるならスマホ見てみたら?」

「そ……」

 ポケットに手を入れて、中に入っている自分のスマホをぎゅっと握る。

「そうだよね……。いちいち聞いてごめんね……」

 自分の体なのに、今までできてたことが、わかってたことが……できなかったり、わかんなくなってる。

 大丈夫だよね。ちょっとしたら元に戻ってる。そうだよね、大丈夫。大丈夫……。このイライラも、おさまるよね……? 




「じゃあ秦野。さっきいった指数関数を使って、ここの導関数を計算してみろ」

「え、えっと……わかりません……」

「おいおい、さっきいったばっかりだぞ? じゃあ……佐倉、答えてみろ」

「えーっと……まず指数関数の公式がこうなってるから……」

 みんなの声が遠くなる。みんなの声はわかるのに……「言葉」としてはわかるのに。その内容が全然わからない。私、おかしくなっちゃったのかな……。




「秦野さん、図書委員の佐伯だけど。借りっぱなしになってる本があるから早めに返してもらえると助かるかな」

「えっと……本って、どれのことでしたっけ……?」

「入院前に三冊ぐらい借りてたやつだと思う。ほら、ちょうど机の上に置いてるやつだよ。もう読まないなら、図書室に返却してね」

「あ、はい……。図書室って、どこでしたっけ……?」

「ちょっと秦野さん。それなんの冗談? 図書室はここと同じ三階だよ。突き当たりの一番奥の場所」

「ご、ごめんなさい……。えっと、そこになにを持っていけばいいんでしたっけ……」

「ねぇちょっと、大丈夫? ギャグでやってるんだったらやめてくれないかな。全然おもしろくないよ」

「あ、ごめんなさい……」

「じゃ、とにかくよろしくね」

「はい……」

 ごめんなさい。心の中でそう謝る。ごめんなさい、ごめんなさい……。




「つーちゃん、写真撮ってよ。あの夕日きれいだよ」

「あ、うん……」

 カメラを構える。オレンジ色のきれいな夕日と、それを指さす志織ちゃん。でも……どうやって写真撮るんだっけ……。どうやってピントを合わせるんだっけ……。やり方、どうだったっけ……。

「あ、夕日沈んじゃった。また明日、写真撮ろうね」

「う、うん……」

「どしたの? 大丈夫?」

「大丈夫だよ。また明日、夕日を見ようね」

 ドクン、ドクンって心臓が大きく鳴ってる。大丈夫、大丈夫、きっと治る。大丈夫……。




「大丈夫、大丈夫……」

 数学の教科書をめくる。確かに習った場所だ。自分でノートにも書いている。だけど――。

「どうしよう、全然わかんない……」

 休み時間。私の周りでは他の子たちがおしゃべりしたりスマホで動画を撮ったりしている。私のつぶやきは聞こえてない。

 予鈴が鳴って、多岐先生が教室に入ってくる。

「授業始めるぞー。今日はこの前習った積分法の復習だ。まず積分の計算方法は、基本的には去年やった微分の逆で――」

 どうしよう、先生のいっている言葉もわかる。教科書に書いてることも、ノートに書いてることもわかるのに……。

 だけど……なんだろう。なんていっているのか、その「意味」がわかんない……。

「――じゃあ秦野。教科書にある問5の説明式を黒板に書いてみろ」

「え、あ……」

 顔を上げる。でも、どうしよう。どうしたらいいのかな……。

「……わかりません……」

 そういうしかできない。

「じゃあ代わりに……近藤、書いてみろ」

「はい」

 横の席にいる近藤くんが黒板の前に行き、さらさらと黒板に公式を書いていく。私はただ……その子にすごく申し訳なかった。




「紬、なんだか最近元気がないみたいだけど……本当に大丈夫?」

 お弁当を作りながら、お母さんが聞いてくる。

「大丈夫……大丈夫だよ。大丈夫……」

 テレビを見ながらそう答える。もう五月も終わる。私の体はちっともよくなってない。それどころか……ひどくなってる気がする。「うっかり」じゃ、すまなくなってる気がする。今日は……何日だったかな。何曜日だったかな……。

「……」

 じわ、って涙があふれてきた。どうしよう、止まらない……。ボロボロこぼれて、涙が止まらない。

「お母さん……」

「なに、紬……え⁉ ど、どうしたの⁉ 大丈夫⁉」

 キッチンにいるお母さんがギョッとする。

「お母さん……私、大丈夫じゃないかも……」

 涙がボロボロこぼれる。お母さんは私のお弁当箱をひっくり返すと、エプロン姿のまま私を病院に連れて行ってくれた。

記憶きおく障害しょうがい一種いっしゅですね。ちょっきんの情報がおぼえられない病気です。認知症に近いものと思ってもらってかまいません」

 診察室には前と同じで、また国立先生が椅子に座って大きなモニターを見ていた。

「記憶障害……そ、それって治るんですか?」

 私の隣に座るお母さんが、国立先生に聞き返す。国立先生はモニターから顔を外して、お母さんのほうを見た。

「……残念ですが、認知症と同じで記憶障害も完治が難しい病気です。病気を遅らせたりすることはできますが、完全に治るというわけにはいかないでしょう」

「そんな……」

 お母さんはハンカチを口元に当てて、小さく泣き始めた。私はというと、目の前のことが自分のことじゃないみたいに……ただ椅子に座って国立先生の話を聞いていた。

「そして紬さんの場合ですが、三週間前の頭を打ったことが直接の原因かと思います。そのときにも血がたまって記憶障害の症状は出ていましたが、手術をしたので一旦は落ち着いたのでしょう。しかし、もともとストレスに対する耐性が低かったのでしょうね。日常や学業のストレスなどが一気にたまった結果、今回の記憶障害が起こったと考えられます。過去の記憶が失われることと、物事ものごとを新しく記憶できないことの二つの症状が出ています」

 それを聞いてお母さんはさらに泣き始める。私は自分でもびっくりするぐらい、ただ淡々と国立先生の話を聞いていた。

「おそらく一瞬でも強いストレスを感じた瞬間、記憶が飛んだり消えたりすると考えられます。そのことも忘れてしまう可能性も――」

 国立先生の声が遠くなる。椅子に座ってるはずなのに……自分の体から魂が抜けていくみたいな変な感覚。

 夢を否定されたこと。勉強に追いつけないこと。入院する前と退院してから。できてたことができなくなったこと。いつもと違う授業、いつもと違う学校が……ちょっとずつ重なったイライラが、私の頭の中をおかしくしてたんだ。

 その日から、私は日記をつけるようになった。大事なことを忘れないために。忘れても……思い出せるように。

『――完治が難しい病気です。病気を遅らせたりすることはできますが、完全に治るというわけにはいかないでしょう』

 忘れないようにって書いても、それを思い出せるときなんて……ないかもしれないのにね。

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