【第四章】②

 次の日になった。えっと……何曜日かな。なんだろう、頭が重たい……。朝起きてベッドから出た……のはおぼえてる。ここはどこの廊下だろう。……わからない。左足がうまく動かせない感じがする……。

「ちょっとちょっと、そこのお嬢ちゃん、スマホ落としたよ!」

「え?」

 振り向くと、男の人が私のスマホを持っていた。

「あ……すみません、ありがとうございます……」

 スマホを拾ってくれた男の人にお礼をいって、廊下を歩いていく。

「あ、秦野さん。ちょっといいですか?」

 また、声をかけられた。

「この鍵拾ったんだけど、心当たりとかないですか?」

 ウサギのキーホルダーがついた鍵の束。見た覚えが……あるような……。

「……あ。私のです、この鍵。ずっと探してて……」

「そうなんだ。いやー、持ち主が見つかってよかった。貴重品は落としたら危ないですから、気をつけてくださいね」

「はい……すみません……」

 男の看護師さんから鍵を受け取って、また自分の病室を目指して歩き出す。

「頭、痛い……」

 転んだときに打ったところがズキズキして……重たい感じがする。

 自分の病室に辿り着いてベッドの上に行くまで、すごく疲れた。眠たいのに頭が痛くて眠れない。国立先生にいって、お薬をもらおうかな……。

「紬ちゃん、調子はどう?」

 夕方になって、看護師の吉井さんが来てくれた。まだ頭がズキズキして重たい。

「ん……ちょっと頭が痛くて……」

「どんなふうに? ぼんやりする感じ?」

 吉井さんはベッドの横にしゃがんで、私と目を合わせてくれる。

「重くて……ズキズキする感じです……」

「紬ちゃん、今日が何日の何曜日か、わかる?」

「えっと……」

 今日って何日だっけ……。五月……だった気がするけど、何曜日だったかな……。

「……わ、わかりません……」

「そっか。わかった」

 吉井さんは服のポケットからメモ帳とペンを取り出して、なにか書き込んでいる。

「今日は五月九日の火曜日よ。ほかにどこか痛いところとかはない?」

「それはないです。でも、最近よく物を落としたりしてるみたいで……」

「そっかそっか。自分が今いる場所がわからなくなったり、っていうのはある?」

「たまに……。なんでここにいるんだろうって、ぼんやり思うことはあります」

「わかった。頭のケガだったからね。国立先生にいって検査してもらおうか」

 そういうと、吉井さんは立ち上がった。



 次の日の朝一番に、私は頭の検査……MRIっていうのをした。

慢性硬まんせいこう膜下血腫まくかけっしゅといって、脳と脳を覆う硬膜の隙間に血がたまる病気です。それにより、認知症の中核ちゅうかく症状しょうじょうのようなものが出ています」

「そ、それは治るんですか……?」

 診察室で、私の横に座るお母さんが顔を真っ青にさせて国立先生に聞いた。

「症状が出ている以上、手術をしなければいけません。頭蓋骨に小さい穴を開け、そこからたまった血を吸い出します」

「そんな……」

 お母さんの顔が、さらに真っ青になった。

「通常は局所麻酔をして一時間程度で終わります。なので今日の午後か夕方にはもう始めようかと思っているので、それまでにお母さんには手術同意書に目を通していただいて――……大丈夫ですか?」

 顔を真っ青にさせたお母さんは、「……はい、わかりました……」ってうなずくだけだった。

 それからはあっという間だった。吉井さんが私の病室に来てくれて、午後二時から手術をすることになったと教えてくれた。

「こわい?」

「ちょっとだけ……」

 そう答えると、吉井さんは「大丈夫。起きたら全部終わってるよ。がんばろうね」って励ましてくれた。

 お昼ごはんを食べてちょっとしたら、大勢の看護師さんたちにストレッチャーに乗せられて、そのままゴロゴロ運ばれる。『手術室』って書いてあるプレートが見えたときは……やっぱりちょっとだけこわかった。

 でも本当に、起きたら全部終わっていた。まぶしい手術台から、いつものベッドの上に戻っていた。

「秦野さん聞こえますか? さっき手術が終わったので、明日は安静に。しばらく様子を見てから退院の日を決めましょう」

「はい……」

 小さな声でそういってうなずく。まだ頭がぼんやりするのは……麻酔のせいって国立先生がいってた。時間が経てば治るんだって。頭はもう重くなかった。ズキズキもしなかった。

 よかった。これで治るんだ……。そう思いながら、私はまぶたを閉じて少し眠った。



 退院はそれから三日経ってからだった。その次の日は日曜日だったから、結局のところ……私はまるまる二週間も学校を休んでいた。

「本当に大丈夫? 今日も休んだほうがいいんじゃない?」

 お弁当を作りながら、キッチンにいるお母さんがそういってくる。

「大丈夫だよ。これ以上休んだら勉強についていけなくなっちゃうし。それに私、受験生だよ。もう休めないよ」

「そうだけど……。本当に大丈夫? 無理しなくていいのよ?」

「大丈夫だって。しんどくなったら保健室に行くから」

「そう……?」

 準備したお弁当箱を持って、お母さんがリビングにやってくる。私は朝のニュースを見ながらパンを食べていた。

「あ、そうだ紬。進路希望調査の紙あるでしょ? もう書いたの?」

「うん。もう書いてるよ」

 鞄から紙を取り出してお母さんに渡す。第一希望に夢を全部書いた大事な物。

 その紙を受け取った瞬間、お母さんが顔をしかめた。

「植物学者……自然保護管……写真家……。なぁに、これ? あなたまじめに書いてるの?」

「う、うん……まじめに書いたよ」

「あなたの夢は応援したいけど……もっとよく考えたほうがいいんじゃない? これ全部叶えるのにどれだけの努力をすればいいかわかってるの?」

「わ、わかってるよ。でも、進路希望なんだから私の夢を――」

「あのね、紬。夢だけじゃ食べていけないの。それだけじゃ生きていけないのよ」

「……」

「あなたの夢は応援したいわ。でもね、もうちょっと現実を見なさい。ほら、電車で行ける女子大があったでしょう? そこだったらお母さんも――」

「ご、ごめん、バス来ちゃうからそろそろ行くね!」

「あっ! 紬、お弁当!」

「行ってきます!」

 早口でそういいながら、テーブルの上にあるお弁当箱を鞄にいれる。バタバタ飛び出すようにして、私は家を出た。



「……そうだよね。もっと現実を見なきゃいけないよね……」

 最寄りのバス停から学校までの道のりをとぼとぼ歩きながら、私はため息をつく。一本早いバスに乗ったから、まだ学校に向かってる生徒は私以外に誰もいない。志織ちゃんは電車通学だから学校に行かなきゃ会えない。

 お母さんのいってることもわかるけど……あそこまでいわれるとは思ってなかった。朝からいやな思いしたなぁ……。胸の中がもやもやする。

「はぁ……」

 確かに、お母さんの言う通り、現実的に見て私の夢は叶えられる確率はかなり低いと思う。そもそも、全然違う三つの職業をどう叶えるかっていう問題が出てくるんだけど……。はぁ、なんだか朝から疲れちゃったな……。

「あそこまでいわれるなんて……ちょっとびっくりしちゃったなぁ……。お父さんに相談してみようかな、でも、またあんなこといわれるのいやだなぁ……」

 そんなことをぶつぶついいながら、私は一人、とぼとぼ学校へと向かう。



 久しぶりの学校。登校するなりいろんな人に「大丈夫⁉」って声をかけられた。

「もう大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」

 その頃にはすっかり朝にあったいやなことも忘れていて、久しぶりに会うお友達と楽しくしゃべっていた。

「はいはい。そんなにいっぱい聞いたらつーちゃんがつかれちゃうでしょ。もう授業始まるんだから、みんな席に戻りなー」

 志織ちゃんがいうと「あとでね」っていって、みんなぞろぞろ自分の席に戻って行った。

「ほら、つーちゃんも授業始まるよ」

「う、うん」

 志織ちゃんは私の前の席。予鈴が鳴って「授業始めるぞー」って担任の多岐先生が教室に入ってきた。

「お、秦野久しぶりだなー。休んでるあいだに小テストがあったから、今日の放課後にでもやるか」

「はい」

「あと朝のホームルームでもいったが、進路希望調査票は来月までだからな。書いてない奴はさっさと書けよ。じゃ、授業やるぞ。数学の教科書ひらけよー」

 久しぶりの授業。一限目は多岐先生の数学。休んでた分は志織ちゃんに教えてもらおう。そういえば、入院する前は裏庭の桜の木の手入れをするって加賀見先生がいってたから、できてなかった園芸部のお仕事もしなきゃ。

「今日から微分法ってやつをやるぞ。このへんは複雑で難しいからしっかりおぼえとけよー」

 多岐先生が片手に教科書を持っていう。数学はちょっと苦手。教科書を見てもほとんど数式ばっかりだから、なんのことをいっているのかわからなくなる。

「まず微分っていうのは、ある関数の導関数を求める演算のことだが――」

 どうしよう、もうわからない……。まるで呪文だ……。

「ここの微分は去年でもちょっとやったな。微分・積分、おぼえてるか? 秦野」

「あ、えっと……」

「あー、すまん。秦野は先週休んでたな。じゃあ前の席の――……佐倉、答えてみろ」

「えぇ⁉ あたし⁉ 全然わかりません……」

「ちゃんと復習しとけよまったく……。えーっと、じゃあまずおさらいだ。微分っていうのはあるものの微小な変化を追うもので、積分っていうのは――」

 入院する前と変わらない教室の雰囲気。でもなんだろう……自分がひとりぼっちみたいな……そんな感じがする。気のせいかな……?




「紬ちゃん退院おめでとう。今日はちょっぴりがんばってみたわ」

「うわぁ、チョコレートケーキだ! 加賀見先生、あたしダイエット中なのに太っちゃいますよ」

「あら、じゃあ志織ちゃんは食べるのやめておく?」

「う……ダイエットは明日からにします!」

 放課後。加賀見先生が焼いて来てくれたチョコレートケーキをみんなで食べる。多岐先生は屋上の見回りをしてからこっちに来るっていってた。屋上の鍵当番なんだって。

「ところで紬ちゃん、退院したばっかりですぐに通常授業だけど……体調は大丈夫? しんどくない?」

「あ……えっと、ちょっと疲れたけど大丈夫ですよ」

「倫理の授業でも答えられないところがあったけど……」

「ちょ、ちょっと授業の内容を忘れちゃってて……」

「そう? わからないところがあったらいつでも聞きに来ていいからね」

「はい。ありがとうございます」

 大丈夫……。倫理の授業でされたけど答えられなかったのも、うっかりしてただけ。勉強したら取り戻せる……。みんなに、授業に追いつける。大丈夫、大丈夫……。

「あ、先生。あたし倫理でここわかんないんですけど、これってどういう意味ですか?」

「ああ、ここね。これは――」

 志織ちゃんと加賀見先生が話している。二人の会話の内容も――なんか変に聞こえる。なんだろう、ちょっとおかしい気が……

「つーちゃん?」

「……え? な、なぁに、志織ちゃん」

 ハッとなって横を見る。志織ちゃんが心配そうに私の顔を覗き込んでいた。

「大丈夫? なんだかぼーっとしてるよ?」

「だ、大丈夫だよ」

 私と志織ちゃんは横に並んで、横断歩道で信号が青に変わるのを待っている。ここの交差点は車がビュンビュン通ってて危ない。あれ……? いつの間にここにいるんだっけ? なんだか頭がぼんやりしてて……よく思い出せないや……。

「……ほんとに大丈夫? 昨日も一日ぼーっとしてたし、明日、学校休んだほうがいいんじゃない?」

「……え?」

「ん?」

 志織ちゃんが聞き返す。

「昨日って……あれ……? 昨日、なにしてたっけ……?」

 昨日……昨日の記憶が思い出せない。加賀見先生のケーキをみんなで食べた。でもそれは……いつのことだったっけ……?

「あはは、ちょっと、つーちゃんどうしちゃったの? 昨日はつーちゃん一人で帰っちゃったじゃん。桜の木の下を一緒に掃除しようっていったけど、いつの間にか帰ってたじゃん。昨日はなんか用事とかあったの?」

「そ、そうだっけ……。用事、あった、と思う……」

 急いで帰る理由があったような気もするし、無かったような気もする。なんだろう、頭がぼんやりしてよく思い出せない……。おかしいな、私、さっきなにしてたんだっけ……? 昨日の私、なにしてたんだろう……。頭がぼんやりして……記憶が抜けてる感じがする。

「……ほんとに大丈夫? このまま病院行ってみる?」

 志織ちゃんが心配そうな顔で私の顔を覗き込んでくれる。私はハッと慌てて――

「だ、大丈夫だから。ほら志織ちゃん、今なら車が通ってないよ。早く渡ろう」

 ちょうど車がいなくなった横断歩道に一歩踏み出す。その瞬間、

「危ない! つーちゃん!」

 ぐいっと腕を引っ張られた。大きなトラックがクラクションを鳴らして私の目の前を通り過ぎていく。引っ張られて後ろに尻もちをついた私はなにが起こったかわからないまま、車がビュンビュン走る道路を見つめていた。

「つーちゃん、信号まだ赤だったよ!」

「え、あ……うん……」

 歩行者用の信号が……今さら青に切り替わる。

 顔を後ろに向けると……私の後ろに立っている志織ちゃんが、はあはあ肩で息をしていた。志織ちゃんの顔は真っ青になっていて、私の腕を掴んでいる志織ちゃんの右手は小刻みに震えていた。

「うっかりにしても危ないよ! 轢かれるところだったんだよ!」

「うん……。ごめん……」

 チカチカ点滅する歩行者用の信号を見て、志織ちゃんの顔を見上げて……私はそう謝るしかできなかった。

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