【第四章】

【第四章】①

『神さま、私はなにか悪いことをしたのでしょうか。なんでこんな病気になっちゃったのかな』

『私の名前は秦野紬。私は記憶障害という病気を持っている。強いストレスを感じると、直前の記憶が飛んだり、自分が今どこにいるのかわかんなくなっちゃう』




 五月の……いつだったかな。すごい土砂降どしゃぶりの日だった。

「あ、つーちゃんおはよ。すっごい雨だよね。もうびしょれだよー」

「おはよう志織ちゃん。バスも人がいっぱいだったよ。人が多いからいつもより十分ぐらい遅れてるんだって」

 その日は昨日から続く雨で……ちょっとだけ早起きした日だった。いつもよりちょっとだけ急いで朝ごはんを食べて、いつもよりちょっとだけオシャレをした。いつもだったら後ろの髪を半分だけ結ぶんだけど、今日は軽く横の髪を三つ編みにしてから結んだ。志織ちゃんに「こうしたほうがもっとかわいくなるよ」って教えてもらったやり方。三つ編みハーフアップっていうみたい。

「放課後までにやんでくれたらいいんだけどね。あ……あの子、廊下で転んでる。雨ですべるもんね。つーちゃんも気をつけなよ」

「うん。ありがとう志織ちゃん」

 志織ちゃんと並んで歩きながら、三階にある教室を目指して階段をあがっていく。外は真っ暗だった。すごい雨が窓を叩いていた。ゴロゴロってかみなりも鳴ってる。

 いつもと違って廊下が濡れてて、歩くたびに上履うわばきがギュ、ギュ、ってなって滑りそうになる。志織ちゃんの言う通り、気をつけないと転んじゃいそう。階段をあがるのも一苦労ひとくろうだ。

「大丈夫? 手、引っ張ってあげようか?」

「ううん、大丈夫。ありがとう。やっぱり雨だから階段も滑るね。転んじゃいそう……」

 三階への階段をあがるとすぐ私の教室がある。志織ちゃんも同じクラスだ。担任の先生は数学も担当してる多岐先生。一週間前に彼女さんに振られたんだって。志織ちゃんや他の女の子たちは、多岐先生のことを「みっちゃん」って呼んでいる。

 はあはあ息を整えてなんとか三階まであがれた。滑らないようにって気をつけてたから、いつもより疲れちゃった。

「……大丈夫? ちょっと休んでから行く?」

 私の前にいる志織ちゃんが、そういって心配してくれる。

「ううん、大丈夫。ちょっと疲れちゃっただけ。待っててくれてありがとう。そろそろホームルーム始まっちゃうのに――」

 志織ちゃんがいる場所へ一歩踏み出したと同時、ギュって上履きの裏から変な音がした。足が滑って体が後ろに傾く。視界が一気に天井を向いた。

「あ……」

 急いでなにかを掴もうと手を前に出したけど……壁にもさわれなかった。

 一瞬ふわって浮いたような……変な感覚。そのあとすぐに視界が激しく動き回った。階段の壁、段差――体のいろんなところを打ち付けたみたいで……痛くて苦しい。濡れた床の感触……多分、階段のおどだと思う。

「つーちゃん!」

 志織ちゃんの声がして……バタバタっていう足音が近づいてくる。階段を急いでおりてきてくれてるみたい。危ないよ、転んじゃうよ……。

「ん……」

「だ、大丈夫⁉ 変なところ打ってない⁉ どっか痛いところとか、ない⁉」

 志織ちゃんが抱き起こしてくれる。肩とか背中が痛いけど、一番痛むのは――。

「頭、すごく痛い……」





 念のためってその日はそのまま学校をお休みして、担任の多岐先生の車に乗って、先生と一緒に病院へ行った。

 検査を終えた私の頭には、ネット型の包帯がかぶせられている。

「頭のケガなので念のため何日かは入院することになります。そのほかは全身の軽い打撲だぼくが見られますね。学校の先生と聞いていますが、親御おやごさんに連絡はできますか?」

「そ、それは私のほうから連絡したので、もうすぐいらっしゃると思います」

 私の横に座る多岐先生がそう答える。

「そうですか。親御さんがいらっしゃってからまた詳しい説明をしたいと思います。では、待合室でお待ちください」

『国立』って名札のついてる男の人は最後まで大きなモニターを見たままで、一度も私の顔を見てくれなかった。

 それから十五分後くらいにお母さんが来て、さらに三十分ぐらいしてお父さんが来た。外は大雨だったみたいで、二人は着ている服と髪がびしょびしょになっていた。待合室で座っていた私を見るなり、お母さんは苦しくなるぐらいギュッと抱きしめてくれた。

「おかあさ……く、苦しいよ。ずかしい……」

つむぎ! あ、あなた階段から落ちたって……だ、大丈夫なの⁉ ケガとかしてないの⁉ 痛いところとか……」

「頭を打っただけだよ。その説明をするって病院の先生がいってたから……」

「あ、頭をケガしたのか⁉ そ、それって大丈夫なのか⁉ 治るのか⁉ 障害しょうがいが残るとか、ケガのあとが残るとか……」

 お父さんは顔をさおにさせていた。待合室にいる他の人たちの視線が全部私たちに向いてて、かなり恥ずかしかった。

「本当に大丈夫なの?」「痛いところとか、他にないか⁉」と何度もいってくる二人に、

「本当にすみません。学校側の責任です」

 って多岐先生が、ばっと頭を下げた。苦しいぐらいに抱きしめてくれているお父さんとお母さんが、やっと私から離れた。

「……いえ、謝らないでください。ひとまず、あちらでお話を……」

「はい……」

「紬はお母さんといなさい。お父さんは先生と話してくるから」

「うん……。先生、連れて来てくれてありがとうございました」

「秦野さん、お大事に」

 多岐先生はそういうと、お父さんと一緒にどこかへと行った。多分、人が少ない場所に行ったんだと思う。

 それからさらに三十分ぐらいして、私の名前が呼ばれた。診察室に入ってまた同じ話を聞く。私にとっては二回目だけど、お母さんはハンカチを口元に当てて泣いていた。そのあと合流したお父さんにお母さんが話をして……私がしばらく入院することを伝えたら、お父さんはホッとしたように「……そうか」っていっただけだった。

 ちょうどお昼の時間になると雨はすっかり止んでいて、待合室の人もだいぶ落ち着いたみたいだった。案内された病室は四人部屋の窓側。制服のままで病院のベッドにいるのは、なんだかすごく変な感じだった。お父さんは安心したみたいで「一旦会社に戻る」っていって帰って行った。お母さんは入院に必要な荷物を持ってくるからって家に帰って行った。一人になったところに志織ちゃんから『大丈夫?』ってメッセージが来る。

『大丈夫だよ。しばらく入院することになっちゃったけど』って返信するとすぐに、びっくりしてる猫ちゃんのスタンプが返ってきた。

『入院するの⁉学校が終わったらお見舞い行くね!』

「『ありがとう』……っと」

『待ってるね!』っていってるウサギのスタンプを返すと、『あ、ごめん昼休み終わっちゃう。あとでね!』ってメッセージが送られてきた。当然だけど、私が病院にいるだけで志織ちゃんや他のみんなは普通に授業がある。いつもは学校にいる時間なのに、制服のまま病院のベッドの上にいるのがなんだか変だった。

「……ふふ」

 思わず笑ってしまう。みんなの心配も嬉しいけど、普段入ったことのない病室に、入院するってことに……私はちょっとだけワクワクしていた。



 志織ちゃんはほぼ毎日、お見舞いに来てくれた。

「今日は体育でバスケをしたよ。六限は数学だったんだけど、みっちゃんがまた自習にしてさー。どうせまた加賀見先生のケーキ食べに行ってたんだよ」

「ケーキ……って、加賀見先生の?」

「うん? そうだよ。先生が内緒で持ってきてくれてるじゃん」

「え……っと、そうだっけ?」

「そうだよ。忘れちゃった?」

「そう……かもしれない……。えへへ……」

 笑ってごまかす。そのときは、ちょっと忘れてるだけだと思った。

「でもさ、先生のケーキっておいしすぎてつい食べ過ぎちゃうんだよね。太っちゃう。ダイエットしなきゃ」

「志織ちゃんダイエットしちゃうの? 私、志織ちゃんがおいしそうにごはん食べてるところ、すごい好きなのに」

「な、なんでそういうこというかなあ。そんなこといわれたら……ええい! おと女心めごころまどわすのはこのくちか!」

「ほ、ほっぺたはやめてよー」

 左のほっぺたをつままれて横に伸ばされる。なんだかなつかしい気持ちになった。病室なのにまるで、いつもの教室にいるみたいだった。

「あらあら、元気いっぱいなのねぇ」

 向かいにいるおばあちゃんに、くすくす笑われてしまう。

「あ、すみません。うるさかったですか?」

「いえ、そんなことはないわよ。ああそうだ、お見舞いにみかんをもらったんだけど私一人じゃ食べきれなくてねぇ。よかったら食べる?」

「え、ほんとですか⁉ いただきます!」

 志織ちゃんはポニーテールを揺らしながら、おばあちゃんにみかんを受け取りに行く。

「……志織ちゃん、さっきダイエットしなきゃっていってなかった?」

「みかんは美容びようにいいから関係ないの! ダイエットは明日から!」

 おばあちゃんがまたくすくす笑った。

「つーちゃんもいっぱい食べな。肌にいいし、もっとかわいくなるからね」

 私の前にもらったみかんを六つ置いて、志織ちゃんはあっという間に三つ食べた。




 それから何日かして。今日は病室じゃなくて病院の中庭みたいな所のベンチに座っている。ここは建物の影になってるから、あんまり人が来なくて落ち着く場所。

「遅くなってごめんね。今日はバスケ部の助っ人に行ってたんだー」

「そうなんだ。お疲れ様」

 学校を終えた志織ちゃんが私の横に腰を下ろす。志織ちゃんは運動神経がいいからよく運動部の助っ人を頼まれる。ポニーテールを揺らしながら、一生懸命バスケの試合をしてる志織ちゃんはすごくかっこいい。先週は女の子からラブレターをもらったんだって。

「なんか顔色悪くない? 大丈夫? 病室戻る?」

「ううん……大丈夫」

 体調は大丈夫。だけどなんだか……頭が重い気がする。気のせいかな。寝たら治るかな……?

「なにかあったらすぐいうんだよ。わかった?」

「うん、わかった。あ、そういえば志織ちゃん。この前告白してきたっていう女の子はどうなったの? ラブレターをもらったっていう子とは別の……」

「あ、気になる?」

「ちょっとだけ……」

 タオルで首元を拭きながら志織ちゃんがこっちを見た。確かに、女の子でも好きになる気持ちは……ちょっとわかる。だって志織ちゃんはかっこいいんだもん。

丁重ていちょうにお断りしたよ。泣かれちゃった。勇気出してくれてありがとうっていったらもっと泣かれちゃった」

「そうなんだ……」

「意外だった?」

「うん……。受けるのかと思ったから」

「うーん……相手の子には悪いけど、あたし、恋愛対象は男の子だし。それに、そういう中途半端な気持ちで受けたらダメだと思うし。告白してくれた子には申し訳ないんだけど。というか、つーちゃんはそういうのどうなのよ?」

「どうって、なにが?」

「好きな人とか、告白されたとか、ないの?」

「えっ……⁉」

 いきなり聞かれて、思わず口に運んでいたジュースをこぼしそうになる。

「そ、そんなの、いないよぉ……」

 手をパタパタ振ってそういう。自分でもわかる。今の私は耳まで真っ赤になってるだろうなぁ。

「あ、そうなんだ。つーちゃんかわいいから、てっきりもう一人や二人には告白されたと思ってたのに」

「そ、そんなのないよぉ……」

 顔が熱い。両手をパタパタ振って顔の熱を冷ます。

「うちの弟なんか適当に告白受けるからすぐ振られててさ、どうでもいいって感じでデートも適当にしてて、あたしから見てもさ、相手の女の子がすごく可哀想になっちゃうんだよね。でも顔はいいからモテんのよ、あいつ」

「弟さんって……ヒロキくん?」

「そうそう。最近は髪を薄い青色にも染めててさ。いつの間にかピアスもいっぱいあけてんの。もうお母さんはめっちゃ怒ってて……ていうかそんな話はいいよ。つーちゃんはどんな男の子が好きなの?」

「えぇっ……」

 追い打ちのようにそう聞かれた。志織ちゃんはちょっと意地悪するときみたいな顔をしてる。

「そ、そんなのわかんないよぉ……。そういうの考えたことないもん……。みんな好きだよね、そういう話」

「そうだねー。みんな人の話は好きだからね。特に恋とかの話はさ。ってことで、白状はくじょうしちゃいなさい! つーちゃんはどんな男の子がタイプなの?」

「えぇ……タイプっていわれても……えっと……」

「うんうん」

「素直な人かなぁ……。自分の気持ちに素直で、正直に気持ちをいってくれる人がいいなぁ……」

「へー。いいじゃん。他には?」

「ほ、他になんてないよぉ……」

 思わず膝におでこをつけて下を見る。顔と体が熱い。

「もっと聞かせてよ。つーちゃん恥ずかしがってそういう話全然しないんだからさ」

「も、もうないってばー」

 手をパタパタ振っていう。病院なのに学校にいるみたいだった。

 去年は私が志織ちゃんのお見舞いに来ていたから、今は逆だ。志織ちゃんのお父さんとお母さんはケンカが多くて、去年の夏ぐらいに離婚しちゃったんだって。そのストレスで志織ちゃんはおなかが痛くなって、今の私と同じように二週間ぐらい入院した。そのときも、私は来れるときはほぼ毎日志織ちゃんのお見舞いに来た。園芸部で育ててるお花や、私が趣味のカメラで撮ってる写真を持ってきてたくさんお話した。志織ちゃんと弟さんはお母さんのほうに行ったんだけど、一学年下にいる弟さんは毎日夜遅くまで遊びまわってて家にも帰ってこないから、次はそれでお母さんの機嫌が悪くなっているんだって。「つらかったらいってね。なにもできないけど……」って私がいうと、志織ちゃんは「ありがとね。話を聞いてくれるだけでも嬉しいよ」っていって笑った。

「あ、そうそう。つーちゃん進路希望の紙まだ出してないでしょ? できたら第三希望まで書けよ、ってみっちゃんがいってたよ」

 ふと、志織ちゃんがそういう。

「そうなんだ。えっと……進路希望の紙……」

「これでしょ? 園芸部の部室に忘れたままだったよ」

「ありがとう志織ちゃん」

 志織ちゃんが鞄から一枚の紙を渡してくれた。それには『秦野紬』と書かれている。私の将来を決める大事な紙。第一希望から第三希望はまだ空欄くうらんのまま。自分がなにになりたくてどんな夢を叶えたいのか、たくさんありすぎて決められないままだった。

「つーちゃんはやっぱりカメラの学校とかに行くの?」

 私の顔を見ながら、志織ちゃんがそう聞いてきた。

「うーん……どうだろう。写真を撮るのも好きなんだけど、他のこともいっぱいやりたいし……」

「花の研究とか? 両手にフラスコ持ってあやしい液体を混ぜたりするの?」

「あ、それもおもしろそうだよね」

「……つーちゃんだったらほんとにそれ目指しそうでこわいよ……」

「志織ちゃんはやっぱり保育士さんになるの?」

「そうだね。今のところはそれが第一希望かな。子供は見てるだけでもかわいいし。あたしはそれだけだから、第二希望も第三希望もまだ書けてないままだよ。夢がありすぎて迷うっていう、つーちゃんがうらやましいよ」

「そ、そんなことないよ。私はほんとに『やってみたいな。なれればいいな』っていうだけで選んでるから、どこの大学に行くとか就職とか現実的なことは全然考えてないし……」

「それだけでもすごいことだよ。難しい本を読んで勉強したり、趣味に一生懸命になったりさ。普通の人はできないよ」

「そ、そうかなぁ……」

「自然保護管……だっけ? 自然が大好きなつーちゃんにはぴったりだと思う。それにあたし、つーちゃんの写真好きだし。もうさ、全部なればいいんじゃないかな。どれか一つを諦めるのはもったいないと思うし」

「花の学者で自然保護管で……森の中で写真を撮るの?」

「そうそう。つーちゃんならできるよ。きっとね」

「……ねぇ志織ちゃん、ちょっとおもしろがってない?」

「そんなことないよ。まじめにいってるよ?」

「……ちょっと笑ってる」

「笑ってないってばー」

 志織ちゃんも笑って、それにつられた私も思わず笑ってしまう。しばらく、私たちは笑い合っていた。

 その日の夜。

「……よし」

 シャーペンを握っている私は、文字を書き終えた紙から顔を上げる。進路希望調査票にある『進学/就職』の『進学』に丸をして、第一希望の枠の中いっぱいにはこう書いた。

『・植物学者(花)

 ・自然保護管

 ・写真家(風景写真家)』

 書いたのは第一希望だけ。第二希望と第三希望にはなにも書かなかった。

「……ふふふ」

 書き終わった紙を見て、なんだか小さく笑ってしまう。その全部を叶えられたら、どんなに嬉しいだろう。その夢を叶えるまでに、どんなことが起きるんだろう。どんな経験をするんだろう。どんな楽しいことが待ってるんだろう。楽しみだな。全部、叶えられたらいいな。

 ワクワクしながら、私は眠りについた。

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