【第三章】③

 土曜日が過ぎて、日曜日が過ぎて、月曜日になった。僕は相変あいかわらず停学中で、ねーちゃんの家でだらだらしている。もらったプリントも全部やってしまったので、本当にもうやることがない。

「あれ?」

 朝、大学に行く準備をするねーちゃんがいった。

「あんたこれ、つーちゃんのノートじゃない? どうしたのこれ」

「え?」

 目を向ける。ねーちゃんは僕のショルダーバッグを指さしていた。その中から一冊のノートが顔を覗かせている。

「これ……」

 取り出してみると、表紙には『私の日記 秦野紬』と書かれている。そういえば病院で国立先生に「返しておいて」と渡された物だ。省吾に紙袋を渡したあと家に帰ってそのまま寝たから、そのときからすっかり忘れていた。

「今すぐ返してきな。つーちゃん、それがないと困るから」

「え、でも学校……」

「いいから早く。あんた、つーちゃんの家知らないでしょ? 園芸部の部室にでも置いてきな。じゃ、あたし大学行ってくるから。さっさと返してくるのよ。行ってきます」

 ねーちゃんが出て行き、バタンと扉が閉まる。

「……」

 僕は手にある先輩のノートを見つめてしばし悩む。少し悩んだすえ、先輩のノートをショルダーバッグにきちんとしまい、身支度を整えて念のために帽子をかぶる。そして、ねーちゃんの家を出た。




「現代は国民が主権を持っていましたが、中世まではどの国も王が主権を持っていました。これが民主主義といいます。現代の民主主義はホッブス、ロック、ルソーが大まかな原理を考え、ロックとルソーの思想はフランス革命やアメリカ独立宣言などにつながります。現代社会の原型はこのあたりでひとまず作られたわけですね」

 どこかの教室から、倫理の授業をしている加賀見先生の声が聞こえてくる。裏庭にいる僕は、つい数日前まで自分がいた校舎を見上げた。一週間ぐらい前、始業式の日は屋上から僕が今いる場所を見下ろしていたのに。今ではその逆だ。あの日の先輩の姿を、先輩と目が合ったときを思い出し、すぐに頭を振ってそれを消し去る。

「園芸部……置いといたらいいか」

 僕はぶつぶついいながら数メートル先にある園芸部の部室を目指す。園芸部は顧問である加賀見先生が昼休みに草引きをすることがあるから、朝に鍵を開けて放課後までそのままだと聞いたことがある。鍵が閉まってたら……職員室の窓からでも投げ入れるか。

『園芸部』というプレートがついた小さな建物。ドアノブをひねると、ガチャという音とともにあっさりいた。不用心だな、と思いつつも中に入る。長机といくつかの椅子。すみにある小さな冷蔵庫。なにも変わってない。その中に……あの人がいないだけ。

 僕は机の上に先輩の日記をそっと置いた。やることはこれで終わりだ。早く帰ろう。誰かに見つかったら停学が延びるかもしれない――。

 そのとき、窓から入ってきた風が、先輩の日記をめくった。

 風がやみ、あるページで日記が止まる。そこには――。


『どうしよう。病院で私と会ったことがあるっていう男の子が部室に来た。でも私、書くの忘れちゃってたみたい。悪いことしちゃったなぁ。

 でもね、その子を見たとき、心臓がすっごくドキドキしたの。初めてなんだけど、ずっと前にも会ったみたいな感じで。どうしたんだろう。その子の顔を見るとね、うまく言葉が出てこないの。病院で相談してみよう。志織ちゃんにもいってみようか』


 そう、書かれていた。日付は……始業式の次の日。四月七日。僕が……この部室で先輩と会ったときだ。

 散りかけていた桜の花びらとともに、また風が数ページ先の日記をめくる。


『もう一人男の子と会った 青い髪の男の子』


 その二行下に僕が書いた『佐倉拓輝』という字が残っている。さらにその下に二行空け、こう書かれていた。


『この気持ちも全部忘れちゃうのかなぁ。いやだな、忘れたくないな。

 私は病気なんだって。青い髪の男の子 志織ちゃんの弟さん。私に会いに来てくれた男の子。私のことを知りたいんだって。でも私が病気だっていったら、あなたのことも忘れちゃうかもしれませんっていったら……それだったら、最初からお友達にはならないほうがいいよね。本当にごめんなさい。お友達になれなくてごめんなさい』


 その次のページが風でめくられる。まるで僕に読ませるように。


『始業式の日に佐倉くんは私のことを見かけた。※始業式は4月6日。佐倉くんは志織ちゃん(ときどき検査の付き添いに来てくれる女の子)の弟さん

 4月13日 私のことをいろいろ聞いて回っているっていう男の子 佐倉拓輝くんとお話しした。佐倉拓輝くんは青い髪の男の子。志織ちゃんの弟さん。

 立ち入り禁止の屋上に入ったり、いろんなことを知っている

 佐倉くんからライターをもらった! すっごくうれしい! 

 初めて校則違反しちゃった』


 そこにはあの日――僕と屋上に上がった日のことが書かれていた。書かれている文字だけなのに、そこからは彼女の嬉しさと喜びがあふれていた。僕の手は無意識に伸びていた。ハッとした時には次のページをめくっていた。悪いと思いつつも目を逸らそうとするけれど――そこは白紙のページだった。

「……?」

 その次をめくる。次も白紙だった。その次も、その次のページも。三ページほどなにも書かれていない白紙が続き、ようやく日記の続きがあらわれた。

 日付は……4月21日だ。僕が付き添いに行った日。先輩が検査をする金曜日。


『なんだか最近調子がいいみたい。頭の中がすっきりしてよく眠れる。毎日楽しい。

 新しいこと 新しい景色 新しい勉強 全部忘れたくないな。ヒロキくんとも、また話せるかな。話せるといいな。お友達に……なれるといいな。なれるかな?』


 そこで、日記は終わっていた。

「なにをやっているんだ……僕は」

 一人でつぶやく。

「……早く帰らなきゃな」

 誰かに見つかる前に学校を出なければ。背を向けて部屋を出ようとしたとき――机の上になにかが落ちた音がした。

 僕は振り返って机の上を見る。そこには一冊のノートがあった。色あせていて、少しの埃がついているノート。顔を動かす。どうやら近くの棚にしまっていたのが机の上に落ちたようだった。

 ノートの表紙は白紙だった。

「これ……」

 考えるより前に、僕はそのノートに手を伸ばしていた。おそらくこれは先輩が一番最初に書いた日記だろう。ノートは軽く、中のページがだいぶ減っていた。破り捨てたか千切ったか……わからないけど、かなり薄くなっていた。本来の半分もページが残っていなかった。

 もう片方の手が、ノートを掴む。勝手に見ちゃダメだと思うのに……ここで見なきゃ後悔すると、僕の心がいっている。

「……ごめんなさい、先輩」

 ぺらぺらめくりながら独り言で謝る。先輩の困った笑顔が頭に浮かぶ。恥ずかしいな、という声が聞こえた気がした。それは僕の勝手な想像で、幻聴げんちょうで。実際に先輩はここにはいない。わかってる。


『急にいろんなことがわからなくなる

 今が何日で何曜日なのか、何時なのか、自分が今どこにいるのか。でも、この日記を見れば大丈夫。私はそういう病気だから。急にわからなくなったらこの日記を見て。

 火曜日と金曜日は病院に行く。検査をする。お母さんの電話番号と病院の電話番号を書いておくから、この日記を見てもわかんなくなったら病院に電話をしてね。

 私の名前は秦野はたのつむぎ 急にいろんなことを忘れちゃう病気を持っている。

 お友達の志織ちゃんにはいわないほうがいい。心配をかけるし、いったことも、相談したことも忘れちゃうかもしれないから』


 僕は、次のページをめくる。


『全部忘れちゃう。それがいつかわからない。だったら、勉強したって意味がないじゃん。

 まだ、学校だったらなんとかなると思ってた。でも、もうだめみたい。つかれちゃった。

 卒業してどこにいくっていうの? 私なんかが一人で生きていけるわけない。全部忘れちゃうのに。もういいよ、つかれちゃった。なにもおぼえていられないのに、夢なんか叶えられるわけない。もういいよ……』


 その文章は……雨に濡れたみたいになっていて、ところどころの文字はにじんでしまっていた。

 僕は、加賀見先生が話してくれたことを思い出す。

『急に卒業したくないっていって――』

 ああ、そうか。わかってしまった。先輩が去年、急に「卒業したくない」と言い出した理由が。

 彼女はあきらめたんだ。なにもかも。

 自分の夢、自分の好きな物、好きだった物。楽しかったこと、いやだったこと。それら全部をいつ忘れてしまうかわからない。彼女は……それがこわいんだ。大事な思い出がいつ消えるかもわからないことに。それを、おぼえていられないことに。その病気を持って社会に出ることに。これから先……高校を卒業してから、自分がうまく生きていけるかわからないことに。

 この日記に書かれているのは、彼女が忘れたくなかったことじゃない。いつ忘れても大丈夫なようにっていう記録じゃない。彼女が……誰にもいえなかった本心だ。誰かに相談してもそれを忘れてしまうから。だったら誰にもいわないほうがいいと彼女は思ったんだ。それで迷惑をかけるなら、最初から誰にも……。

 そう思った彼女は、そのことをいつ忘れてしまうかわからないこわさや苦しさを一人で抱え込んで、ここに全部書いてたんだ。一瞬でも思った全部を。忘れても……そのときの自分がそう思っていたんだって、わかるように。でもそのほとんどは……破り捨ててしまったんだろう。

 僕は次のページをめくる。そこもページの根元から破られた跡があった。破ったページに先輩はなにを書いたんだろう。今となっては……誰にもわからない。本人にさえも。

「……ん?」

 隣のページに何かが書かれてある。長い文ではなく、サッと書いたような文章だ。


『好きな人のことも忘れちゃうのに、もう無理だよ。だったら、一人のほうがいいよ。みんな忘れちゃうんだもん』


「好きな……」

 バッともう一つの日記を手に取る。半分は無意識だった。だけど、それに書かれていると思った。なぜかそう、確信したんだ――。


『そっか。あのときのあれが一目惚れだったんだ。志織ちゃんが、それは恋だねって教えてくれた。そっか、私、一目惚れをしたんだ!』


 やっぱりあった。先輩がいつも持ち歩いていたノート。始業式の日の日記だ。屋上にいた僕と、桜の木の下にいた先輩が……初めてお互いの顔を見た日。


『始業式の日、屋上にいた男の子。あの子と目が合ったとき、心臓がすごくギュッてなったの。周りの時間が止まったみたいでね、すごくふしぎだった。ビビッてきたっていう感じなのかな。雷が目の前でバチバチッてなったみたいにね。すごくふしぎだったの!』

『でも、』


 その文章を追う僕の視界がにじみ始める。視界が水浸しになり、しずくが文字の上に落ちていく。『でも、』の先を読みたくないのに、目が勝手に文章を読んでいく。


『でも、忘れちゃうんだよね、この気持ちも。いやだな、忘れたくないな。

 初めて好きな人ができたのに。初めて一目惚れをしたのに。忘れたくないな。どうやったら治るのかな。どうしよう、どうしたらいいのかな。いっぱい話したいのにな』


 そこで、文が終わっていた。文章の上にたくさんの雫がれて文字がぐしゃぐしゃににじんでいる。ボロボロ落ちた僕の涙だ……。

「そうか……。そう、だったんだ……」

 僕はつぶやいた。脳裏に浮かぶのはあのときのこと。始業式の日、見下ろした先で先輩と目があった瞬間のこと――。

 ああ、そうか。

 僕はやっと、自分の気持ちを言葉にする。本当はわかっていた自分の気持ちだ。ばからしいと目をそむけていた感情に、僕はようやく向かい合う。

「あれが一目惚れだったんだ。あのときに僕は……先輩に恋をしたんだ」

 ねーちゃんに、省吾に、そう指摘されて否定していたけれど。本当はわかっていたんだ。本当は……あの日からわかってたんだ。ずっと。あの人を見たときから……あの人と、目が合ったときから。

 僕はあの瞬間に、彼女に恋をしたんだ。

 本心を言葉にした瞬間、涙がさらにあふれてきた。胸の奥がギュッとなって苦しいのは、先輩の顔を思い出して泣きそうになるのは……彼女に恋をしていたからだ。ばからしいと目を背け、むだな遠回りをしていただけだったんだ。「……はは、」と思わず笑ってしまう。ばかなのは自分だった。まったく、どこまでひねくれてるんだ、僕は。

 でも、彼女は。

 僕はぐい、と服の袖で涙をぬぐい、書かれている文章をもう一度目で読む。


『初めて好きな人ができたのに。初めて一目惚れをしたのに。忘れたくないな。』


 彼女は自分でこの文章を書いたことも、そのとき自分がどういう気持ちだったのかも忘れてしまうかもしれないんだ。それは明日か、明後日か。それとも……この日記を取りに来たときかもしれない。この日記ごと、急に忘れてしまうかもしれない。僕のことも、僕と屋上で話したことも。「僕」という人間と会ったことさえも。

「……っ!」

 また涙があふれてくる。僕は近くに転がっていたボールペンを手に取り、もう片方の手で数ページ戻す。いつぞやの、この日記に僕が自分の名前とふりがなを書いたページ。

 先輩が僕のことを忘れてしまっても、この日記は見てくれる。そう信じて。

 僕は、自分の名前の横にこう書き加える。


佐倉さくら拓輝ひろき』『僕は、あなたのことが好きです』


 文字の上に僕の涙がボロボロ落ちる。ぬぐってもぬぐっても止まらない。ボールペンを持つ手が震える。


『あなたにひとめぼれをしました。あなたが すきなんです』


 ボロボロ落ちた雫が文字ににじんで、とても読める状態じゃなくなる。それでも僕は書き続ける。


『あなたが、おぼえてなくてもかまいません。ぼくが』


 頭の中の文章と手の動きが追い付かない。それがとても口惜くやしい。

「ぼくが、ずっと……」


『あなたが、おぼえてなくてもかまいません。ぼくが ずっと』


「僕が、ずっと……!」

 だから「今」だったんだ。あの日、一緒に屋上に行った日。次の日にしようといった僕に先輩はいった。「今」がいいと。「今」じゃなきゃダメだと。その約束も……約束したこと自体も、忘れてしまうかもしれないから。

 病院で国立先生にいわれたことを思い出す。彼女の症状の一つは過去のことを忘れてしまうこと。それで……彼女は突然、自分が持っている思い出をすべて忘れてしまうかもしれない。忘れたことも忘れて、ぽっかりと抜け落ちた思い出しか残らなくなるのかもしれない。それがいつのタイミングで訪れるのか、本人ですらわからない。そしてそれを気にして……またストレスにより記憶が消える。悪循環あくじゅんかんだ。そしてそのことを書いても……本人には実感がない。書いたこともおぼえていられないから、またストレスで記憶が抜ける。それの繰り返し。彼女がなにもかもをあきらめてしまうのも……当然かもしれない。それでも彼女は……誰にも相談せずに一人で毎日を過ごし続けてきたんだ。相談してもそのことを忘れてしまうかもしれないから。それで迷惑をかけてしまうかもしれないから。それでまたつらい思いをするかもしれないから。

「う……ああ、あああああ!」

 ノートの上にして声を上げる。涙をボロボロこぼして叫んだ。誰かに見られても構わなかった。教師を呼ばれても構わなかった。

 遅すぎたんだ。なにもかも。彼女には……僕が好きになった人には、「今」しかなかったのに。

「ごめん……! ごめんなさい……! ばかなのは僕だった! 僕だったのに……!」

 視界がぐしゃぐしゃに濡れる。彼女のノートが僕の涙で水浸しになっていく。鼻水が喉に入って咳き込んだ。苦しさよりも彼女への想いが止められなかった。涙がどんどんあふれてきて止まらない。

「わかったのに、今になって、やっとわかったのに……! 遅かった、遅すぎたんだ……!」

 せきを切ったように彼女への感情があふれる。これが「好き」っていうことか。これが……。

 省吾がいっていた通りだった。なにが呪いだ。僕は認めたくなかっただけなんだ。こんな自分が「一目惚れ」をしたなんて認めたくなくて、その気持ちに目を背けていただけだったんだ。

「あ、ああ、あああ……! あああああ!」

 僕がもう少し素直になっていれば。さっさと自分の気持ちを認めていれば。その後悔は、もう二度とあの日の、あの瞬間の「彼女」には届かない。彼女には……「今」しかないのだから。

 僕はノートに突っ伏して泣き喚いた。その声を聞いた教師に見つかり、僕の停学はさらに一週間延びた。

 そして五月に入るまで……僕は一度も先輩と会うことはなかった。

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