【第二章】⑤

 次の日の放課後。帰ろうと教室の扉を開けた瞬間。

「佐倉拓輝くん……いますか?」

 なんと、そこには秦野先輩が立っていたのだ。あまりのことに僕の心臓が跳ね上がる。

「私、三年三組の秦野っていいます。佐倉くんって、まだ帰ってないですか?」

「佐倉拓輝は僕ですけど……」

 僕がそういうと、先輩は「えっと……」って慌てながら手にあるノートと僕の顔を見比べた。

「青い髪の男の子……志織ちゃんの弟さん……あなたが佐倉拓輝くんで合ってますか?」

「合ってます。先輩、二年生の教室まで来てどうしたんですか?」

「あなたにお話があって……ちょっといいですか?」

「あー……いいですけど」

 ちらっと後ろを見ると、僕の後ろにいる省吾がなにやらニヤニヤしていた。前に立っている先輩にバレないよう右腕の肘で省吾の腹をぐっと押す。「ぐえっ!」と省吾は小さく声を漏らし、大げさに腹を押さえた。

「あの……大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫っすよ。えーっと、じゃあ、どっか人がいない場所……」

「大丈夫ですかって聞いたのは後ろの人なんですけど……」

「あ、こいつは頑丈がんじょうなんで大丈夫っす。なぁ省吾」

「お、おう……」

 僕が聞くと、省吾は残った手で力なくグッと親指を立てて見せた。違う言葉をいったらもう一発肘をきめてやろうかと思ったが、こういうときにいう言葉はわかってるみたいだな。よしよし。

 ともあれ、話ができそうな場所……今は放課後になったばかりだからなぁ。どこ行っても人がいるような……。

「あ、園芸部の部室とかはどうですか? 先輩が良かったら、ですけど」

「今日は加賀見先生が進路相談だから園芸部はお休みなんです。なので、部室はちょっと……」

「そうなんですか……って、それなら、なおさら時間大丈夫なんですか? 先輩も進路相談があるんじゃ」

「私の番は一番最後なので大丈夫ですよ。みんなが終わったら先生に放送で呼び出してもらうので」

 そういってにこっと笑った。ひかえめだけど優しい笑顔で。僕の心臓が一瞬ドクンと大きく跳ねる。……なんでだろう。先輩の顔をまともに見られない。服の上から心臓を掴み、思わずサッと先輩の顔から目を逸らした。

「あ、えっと……じゃあどこかいい場所……」

 いいかけた途中でハッと気がつく。あそこがある。他の生徒は絶対にいない。うーん……でもなぁ。先輩を「校則違反の生徒」ってイメージにしちゃうのはけるというか……。

「人がいない場所、あるにはありますけど……」

「どこですか? 学校の外だと、ちょっと……」

「えっと……屋上です」

 僕は声を小さくさせていった。先輩は相変わらずぼんやりした大きい目で僕を見ている。

「屋上って……立ち入り禁止ですよね?」

 なにかを察したのか、先輩も声を小さくさせていった。その顔には不安がちょっぴり浮かんでいる。

「そう、ですね……。でも、僕が屋上の鍵の複製ふくせいを持ってる、っていったらどうします?」

「……校則違反ですよね」

 先輩の顔に浮かぶ不安が強くなる。まるでおびえる小動物みたいだ。先輩を動物に例えると、真っ白なウサギがぴったりかもしれない。

「そうですね。思いっきり校則違反です。バレたらやばいです」

 僕と省吾は今まで何度も立ち入り禁止の屋上に通ってるから、ぶっちゃけ先生たちにバレてもいいんだ。でもまじめな先輩が校則違反したとなれば話は別だ。先輩は受験生だし、就職や進学するにしても良くない印象になってしまう。

「あと一時間もしたらどっかの教室が空くと思うんですけど……でも、それだと先輩の時間が無くなっちゃいますよね。僕は明日でもいいですけど……」

「いえ、行きましょう」

「え?」

 先輩が、僕の腕をぎゅっと掴んだ。心臓が跳ね上がるほど、驚いた。服の上から伝わる先輩の温度に、感情をあらわにした先輩の声に、表情に――なぜか喉の真ん中あたりに物がつっかえる感じがしてうまく声が出せなくなる。

「今日じゃダメなんです。せっかくあなたを見つけられたので、今日じゃないとダメなんです」

 それは、どういう意味だろう。先輩は、何のことをいって――。

「それに校則こうそくやぶるって、ちょっとワクワクするじゃないですか」

 そういって――またニコリと笑った。





「屋上……初めて来ました」

「そうなんすね。あ、そこ段差あるんで気をつけてください」

 僕と先輩は屋上にやってきた。時刻は午後五時になろうとしている。季節的には春なのに、吹いている風は少し冷たい。屋上に誘ったのは間違いだったかなとちょっと思う。でも先輩は長い髪を耳にかけながら「もう桜もほとんどないですね」なんて裏庭にある桜の木を見下ろしながらいっている。どうやら寒いとかは気にしてないみたいだ。

 僕はフェンスの近く……いつもタバコを吸ってる場所に腰を下ろす。すると先輩も僕の左側に腰を下ろした。

 ちなみに省吾は「じゃあな」といってさっさと帰って行った。

「ここにはいつも来てるんですか?」

「……まぁ。そうっすね」

 つとめて平静に返す。心臓がバクバクして、声が上ずっているのがバレやしないかと心配になる。

 なんでこんなに緊張してるんだ、僕は。

 女の子と久しぶりに話すからか? この数日、知りたいと思っていた人が隣にいるからか?

 ……ばからしい。彼女も周りにいる女子生徒と同じじゃないか。なにも違うことなんてない。そう、なにも……。

「この前は、わざわざ私に会いに来てくれたのに……ごめんなさい」

 風に流されないよう長い髪を手で押さえながら、先輩はいった。僕の頭に先日のことが思い浮かぶ。園芸部の部室で、本人に「あなたのことが知りたいんです」といい、「ごめんなさい」と拒絶されたこと。そのことを思い出すと、胸の奥がズキリと痛んで苦しくなった。服の上から心臓を掴んで、キリキリ痛む心に落ち着けと言い聞かせる。

「それで……話っていうのはなんですか?」

 目線を地面に向けていう。どうしてか、隣にいる先輩をまともに見ることができない。

「あ、そ、そうですね。えっと……」

 先輩はノートを開きながらいった。

「あなたが私のことをいろいろ聞いて回ってるって、加賀見先生が教えてくれて……どうしてですか?」

「あー……」

 うん、まぁ、話というのはそれだろう。だいたい予想はしてた。先輩が所属する園芸部の顧問も加賀見先生だし、確か先輩のクラスの担任もその先生だ。本人に伝わることもなんとなく想像できる。

 しかし……どう返事をしたらいいんだろうか。僕が少し考えていると、先輩も困った顔で笑って、僕の横顔を見つめてきた。

「その……えっと……」

 なんだか気まずくて、そんな場をつなぐ単語しか出てこなくなる。先輩はひたすら待っていて、僕はどういうべきかと言葉を探している。変な状況だ。

「……なんて説明したらいいのかわからないんで、どこから聞きたいですか?」

 われながら変なかえしだ。これはさすがにひどい。めちゃくちゃだ。でも先輩は僕の顔を見て、

「最初からお願いします。全部、聞きたいです」

 といったんだ。

 そしてノートの新しいページを開き、いつの間に持っていたのか、いつぞやの筆箱からシャーペンを一本取り出して書く準備をし始める。

「もしかして、僕の話を全部書くんですか? 一応いっておくと、最初からだとかなり校則違反してるようなこともあるんですけど……」

「……いやですか?」

 先輩はすごく困った顔で笑った。

「これは私の日記です。私だけが見る物なんですけど……いやなら、やめますね……」

 先輩は僕から見てもすごくしょんぼりしながら、持っていたシャーペンを筆箱にしまおうとする。

「い、いやいや! そんなつもりでいったんじゃないっす! 全然、いいっすよ!」

 僕は両手をぱたぱた振ってそう返す。「よかった。ありがとうございます」といってニコリと笑った先輩の笑顔に、また心臓がドクンと大きく跳ねた。なぜだか先輩のその笑顔を向けられると、心臓がキュッとなってすごく苦しくなる。病気かこれ?

「どうして、私のことを聞いて回ってるんですか?」

 先輩がいった。

「えっと……」

 んん、とわざとらしく咳払いして、僕は記憶をさかのぼりながら口を動かす。

「実は始業式の日に、ここからあなたを見かけたんです。でも式には全校生徒が出席してるはずだから、誰だろうってなって……それが最初です」

「し、ぎょう、しき……四月六日ですね」

 先輩は口を動かしながらノートに『始業式の日に佐倉くんは私のことを見かけた。※始業式は4月6日。佐倉くんは志織ちゃん(ときどき検査の付き添いに来てくれる女の子)の弟さん』と書いていく。

「……でも、式には佐倉くんも出席しなきゃいけないはずですよね?」

「恥ずかしながら、遅刻しちゃいまして……。ここでサボってました」

「ふふ。そうだったんですか。悪い生徒ですね」

 先輩はまたクスと笑った。その笑顔がなんというか……なぜか、すごくドキッとする。

「佐倉くんはここが好きなんですか?」

「好きというか、落ち着きますね。みんなが授業や部活をしてるあいだ、ここでぼーっとしたり昼寝したり、面倒くさい授業のときは大抵たいていここでサボってます」

「慣れてましたもんね。さっきだって一緒にここに上がったとき、扉の鍵を閉めたりして」

「一応、鍵も閉めとかないと誰か来ちゃいますから。閉めてると時間じかんかせぎができるんですよ。そのあいだにがらを適当に捨てたりして…………あ」

 しまった。つい、口がすべった。

「……タバコも吸ってるんですか⁉」

 先輩はただでさえ大きな目をもっと見開かせて驚いていた。

「え、あ……はい……」

 うっかりでいってしまったとしても……ここから誤魔化ごまかすのも不自然だしもう遅いだろう。僕は小さな声で返事をしながら、上着の内ポケットからタバコの箱とオイルライターを取り出して見せた。

 なんていう致命的ちめいてきなミスだ。僕がこんなミスをするなんて。

「うわぁ。カッコイイ! 私、タバコもライターも初めて見ました。さわってもいいですか?」

 先輩は目をキラキラさせて聞いてきた。まるで新しいおもちゃを渡された子供みたいだ。

「……火傷やけどしたら危ないんで、ふたを開けるだけならいいですよ。そこの丸い歯車みたいなやつを回したら火がつくので、そこだけ触らないようにしてくださいね」

 わかりました、と先輩は小さな両手をおわんのような形にした。どうやらそこに置いてくれという意味らしい。はい、と手の平の上に置くと、先輩は「うわぁ」とか「すごい……けっこう重たい……」とかいいながら、そのライターをじっと観察し始めた。なにがそんなにおもしろいんだろう。

「これ、どういう仕組しくみなんですか?」

「そこの歯車の下にフリントっていう発火はっかいしが入ってるんです。それで、上の歯車を回転させて火花を起こして……えーっと、つまり火打ひうちいしみたいなもんです」

「へー。歯車ってこれですか?」

「あ、ちょっ、危ない危ない! 鼻が燃えますよ!」

「えっ?」

 慌てて止めると、きょとんとした顔でこっちを見た。先輩は蓋を開けたライターに顔を近づけ、あろうことか丸い歯車のヤスリを右手の人差し指で回そうとしたのだ。止めなかったらマジで危なかった……。

「いろんなことを知ってるんですね。佐倉くん」

「知らなくていいことばっかっすよ」

 先輩からライターを返される。それを受け取り、上着の内ポケットに戻しながら僕はいった。先輩は開いたノートに、


『4月13日 私のことをいろいろ聞いて回っているっていう男の子 佐倉拓輝くんとお話しした。佐倉拓輝くんは青い髪の男の子。志織ちゃんの弟さん。

 立ち入り禁止の屋上に入ったり、いろんなことを知っている』


 と書き込んでいた。

「……ライター、もっと見たいならあげますよ」

「え?」

 先輩の大きな目が僕を見返した。僕はそこでハッとする。どうしてそんなことをいってしまったのか、自分でもわからない。

「でもそれは、佐倉くんが使うんじゃないんですか? 私にあげたら困るんじゃ……」

「ちょうどオイルが切れたやつがあるんですよ。それは歯車を回しても火がつかないので、よかったら……」

 僕は内ポケットからもう一つオイルライターを取り出して先輩に渡した。銀色の、ひどく地味じみでなんの飾りもないただのライター。オイルが切れてからどこに捨てようかとずっと持っていた物だ。家だと母さんにバレるかもしれないし、学校なんてもってのほかだし。なんだかんだ捨てられずにずっと持ち歩いていた物。

「いいんですか? うわぁ、すっごく嬉しいです……!」

 それでも、ただの火のつかないライターをぎゅっと握りしめて、先輩は本当に嬉しそうだった。そしてさっそくさっき書いた文章の下に、


『佐倉くんからライターをもらった! すっごくうれしい!』


 と書き込んでいた。そこでふと、僕は思った。そういえば。

「そういえば、どうして先輩も始業式に出てなかったんですか? 裏庭にいましたよね? ほら、桜の木の近くに……」

 僕はいった。先輩は文章を書きこみながら、

「そうなんですか? 私、始業式の日はそこにもいたんですね」

 そういったんだ。まるで自分のことじゃないみたいに。他人事たにんごとみたいに。

「……え? どういう……」

 聞き直そうとしたとき、ガチャっと屋上の扉の鍵が開く音が聞こえた。思わずそっちに顔を向ける。最悪、先輩は僕が無理やりここに連れて来たことにしよう。そうすれば、少なくとも悪いのは僕になるし、先輩の評価はそんなに悪くならないはず――。

「……またお前かぁ、佐倉」

 扉を開けて現れたのは、僕の担任だった。僕はホッとする。

「なにホッとしてんだよ。いっておくが、ここに生徒が来ると校則違反だからな。わかってるのか?」

「わかってますよ。生徒手帳に書いてるんですから」

「あのなぁ……わかってるなら校則破るな……って秦野までいたのか。お前ら……」

 タバコを口にくわえた担任は、がりがりと後頭部を掻きながら深いため息をついた。

 そんな担任と僕の顔を見た先輩は「えへへ」と笑うと、ノートに『初めて校則違反しちゃった』と書き込んだ。




 先輩と話せたことに。先輩の意外なじゃさに。あの笑顔に――。

 正直にいうと、僕はがっていた。

 その日の夜。布団に入ったはいいが、なかなか眠れない。まるで遠足に行く前日みたいに心臓が高鳴って、ひどくソワソワする。日付ひづけが変わっても一向に眠気ねむけは来なかった。スマホゲームを二時間ぐらいポチポチやって、ようやくまぶたが落ちてきた。

 うとうとしながらスマホに充電器じゅうでんきを差して目をつむる。眠りに落ちる直前の感覚が、脳と体全体を覆ってくるのがわかる。

 段々意識が落ちていく。明日も先輩と話せるだろうか。会えるだろうか。そんなことを考えながら眠りに落ちる。

 次の日。もはや僕にとって当たり前になっていた行動が、改めて「退学」の二文字をつき付けてくるなんて知らずに――。

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