【第二章】④

 それから二日が過ぎ、放課後。いそがしそうな担任をようやく捕まえた。

「なんだよ佐倉。テストの範囲なら授業でいったぞ」

「テスト範囲を聞き直さなくても普通に90点とか取れるんで……じゃなくて。その、ちょっと話があって」

「進路相談なら来月だぞ。用事がないならさっさと帰れよー」

「じゃあ帰る前に、担任がまともに話を聞いてくれない、って校長にいってきますね。じゃ、さよなら先生」

「待て待て、それだけはダメだ! 校長はダメだ! ほら、こっちの空き教室で話を聞こうじゃないか!」

 僕がくるりと背を向けると、担任は僕の腕を掴んで空き教室に押し込んだ。すごい態度の変わりようだ。ちょっと引く。

「で、話って?」

 教卓に立つ担任がいった。僕はその正面にある椅子を引き、そこに腰を下ろした。

「三年の秦野先輩っているじゃないですか。ちょっと気になる噂を聞いて……」

「噂っていうのはどんな?」

「……留年して二回目の三年生、だとか……」

「あー……」

 担任の顔が分かりやすく曇った。知っているけれど、いってもいいものかと悩んでいるような顔。

「……うーん、まぁ、そういう噂が出回ってることは俺も何となく知ってた。教員のあいだでもたびたび話題に上がるからな。成績は悪くないんだが……やっぱり本人がなぁ……」

「本人が?」

 思わず聞き返すと、「……あ」といって担任は目を逸らしながらぽりぽり頬を掻いた。うっかりいってしまったというような反応だ。

「なんかあったんすか? あの人」

「……」

 担任はがしがし頭を掻くと、観念したように深いため息を吐き出した。そして――。

「去年は佐倉の姉が秦野と同じクラスだったな……」

 さらに頭をがしがし掻くと、「誰にもいうなよ」と挟んで静かにいった。

「秦野はな、本当は去年で卒業できたんだ。でも、本人が急に『卒業したくない』っていいだして学校を休みがちになったり、テストの点が一気に落ちたりで……ガクッと単位を落としたんだ。テストもわざと間違えた答えを書いたりしてな。自分の名前だけ書いてあとは白紙、っていうのもあったぞ」

「それで……留年したんですか?」

「まぁな……俺も当時の担任としては複雑だったよ。校長にはめっちゃ睨まれるし、教頭からはあからさまに嫌味とかいわれるし」

 僕がいうと、担任は深いため息とともにそういった。

「先輩はなんで急に、そんなこと……」

「さあな。多感たかん時期じきだし女子生徒だからな。俺は担任だったが、秦野含めクラスにいる他の生徒のことを全部把握はあくできてたわけじゃない。放課後の部活なんかは特に担任の目から完全に離れるしな。去年、園芸部でちょっとした騒ぎがあったときなんかも、加賀見先生がおさめてくれたけど……」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。騒ぎって?」

「あれ、お前ねーちゃんから聞いてないのか? 俺も詳しくは知らないんだが、園芸部の部活中に秦野がちょっとやったらしい。それもあって、教師のあいだでも秦野はあつかいづらい生徒だっていわれてる。去年、秦野の担任だった俺としては複雑なんだけどなー。あ、ここだけの話にしてくれよ? お前はいいふらす友達とかいないだろうけど」

「ちょっと先生。僕にだって友達は……」

 といいかけて止まる。省吾以外の顔が浮かばない。いや、不必要ふひつよう上辺うわべだけの友達なんかいらないんだけど……あれ、なんだか悲しいぞ? これはもしかして、「陰キャ」とか「ぼっち」とかいうカテゴリーに入るのでは……?

「省吾にいっても仕方ないんで……。それに僕は、ちゃんと友達を選んでるだけっすから……」

「そうか。だったらその調子で屋上に行く時間帯もちゃんと選べよ。バレバレだぞ。あと、タバコ吸い終わったら校舎に入る前はにおいもしっかり消せよ」

「なにいってんすか先生。こんなまじめな生徒が立ち入り禁止の屋上でタバコを吸ってるとか、やめてくださいよー」

「うっわぁ、そんな派手な青い髪してる奴がまじめとかいってる……引くわぁ……」

「マジでドンきしないでくださいよ。泣きそうっす」

「いっても聞かねえ生徒ばっかりで俺のほうが泣きたいわ」

「担任が泣いてる動画、SNSに上げたらどれぐらい『いいね』もらえますかね」

「やめろ。マジで俺の人生が終わる。そのときは『未成年の喫煙』ってことでお前も道連みちづれにしてやるからな」

「先生、せっかく出会えたんだし仲良くしましょうよ。あ、タバコ吸います? 僕ライター持ってますよ」

「教師の俺もびっくりのひらがえしだな。オイルライターなんてしぶい物持ちやがって。清々すがすがしいくらい取り出すの早かったし」

「あんまりにおいのしないやつ吸ってるんですけどね。いつから知ってたんすか?」

「なんとなくそんな感じしてるなって思ったのは、春休みに入る前ぐらいからかな」

 なるほど。僕がタバコを吸い始めたのは高校一年の夏休みからだけど、高校二年に入る前の春休みに今吸っている銘柄めいがらに切り替えた。まさかそれで気づかれていたとは。

「屋上のすみに吸いがら捨てたらダメだろうが。鍵当番の俺がいつも掃除してるんだからな。感謝しろよ?」

「はは。いつもいつも助かりますぅ」

「あ?」

「すいません。気をつけます」

「頼むから面倒くさい問題とかは起こすなよー。俺以外の先生に見つかったら、間違いなく停学か退学たいがくだからな? よくても謹慎きんしんだ。どれにしても進学、就職には不利だぞ」

「そうっすね。気をつけます」

「気をつけます、じゃなくて『やめます』っていってほしいところだけどなぁ。俺が屋上に行くのはだいたい午後六時とかだから、来るならそのときに来い。わかったな?」

「了解っす」

「敬語な。せめて敬語は使え?」

「了解です」

「そういうときは『わかりました』とかなんだが……もういいか……。お前はそのときになったらちゃんとやるし」

 ため息のようにいって担任はがりがり頭を掻いた。担任のこういう部分が僕は好きだ。生徒に甘いとかっていわれたらなにもいえないんだけど。でも僕にとっては、怒鳴るようにガミガミいわれたり、すぐ大げさにするよりかはよっぽど信頼ができる。

「……っと。そろそろ職員室戻らなくちゃな。話って他にあるか?」

「いや、もうないっす。わざわざ時間取らせてすいませんでした」

「……急にまじめになるなよ気持ち悪いな……鳥肌が立ったぞ」

「それなんかの病気じゃないっすかね。検査したほうがいいんじゃないっすか? 頭の」

「お前のこと少しでも見直したのが間違いだったわ。あ、そうだもう一回いっておくが、今週の金曜日までにはその髪、黒にしておけよ。一応ピアスも全部外して登校してこい。あのハゲ教頭に怒られるのいやだからな」

「先生、本音がダダれっすよ。心の蛇口閉めてください」

「本音じゃない。ただの独り言だ。じゃあ俺は職員室戻るから、またなんかあったらいえよ」

「はーい」

「あ、そうだ。お前、神宮見てないか? あいつ成績ヤバいから補習の日程を決めたいんだが……」

「見てないっすね。『先に帰る』ってメッセージもないから、まだ学校にはいると思いますよ」

「あー、そうか……放送で呼び出してみるか……」

 僕がそういうと、担任はがりがり頭を掻きながら教室から出て行った。ガラガラと扉を閉める音のあと、廊下を歩く足音が遠ざかっていく。

 一人になった僕は、担任に聞いた話を頭の中で整理していた。

 どうやら秦野先輩は、去年卒業できたはずなのにそれをしなかったらしい。どうしてだろう。放課後の園芸部のときになにかがあったのは間違いなさそうだ。となると、加賀見先生が知っているだろうな。あの人は去年も園芸部の顧問だったとねーちゃんがいってたし。もしかしたら、ねーちゃんもそのことを知っているのかもしれない。

 聞いてもいわなかったのは……よっぽど大きな出来事だったんだろうか。なんだろう。

「……ともあれ、今日はかなり前進した、かな?」

 秦野先輩がどういう人か、どうして僕のことをおぼえていなかったのか。そのカギとなるのは、やっぱり去年の出来事にありそうだ。

 まだわからないことだらけだけど、なんだか秦野先輩に大きく近づいたような気がした。そう思うと、急に体がそわそわし始めた。

 椅子に座ってる場合じゃない気がする。僕は立ち上がって周りをうろうろして、また椅子に座った。座ったら座ったで落ち着かない。また立ち上がり、教卓の周りをうろうろする。それも落ち着かないからまた椅子に座る。じっとしていたら余計落ち着かない。また立ち上がり、うろうろ歩いて椅子に座り直す。それを何度も繰り返した。なにをやってるんだ僕は。

 僕はスマホを取り出した。すぐに画面を操作して耳に当てる。

『おう拓輝。どうしたー? 悪いけど、ちょっと急いでるからすぐ切るぜ』

「それはいいんだけど……。なぁ省吾。それ終わったらちょっと付き合ってくれ。なんかゲーセンでもいいから行きたくなった」

『なんかわかんねえけどわかったよ。俺らの教室で待ち合わせな。じゃ、あとで』

 ぶつ、と通話が切れる。スマホをポケットにしまうために立ち上がり、顎に手を当てて教卓の前をうろうろ歩く。本当に僕はどうしてしまったんだろう。ひどく体が落ち着かない。なんだこれ。

「……ん?」

 ふと窓から下に目を向ける。学校の中庭の所に一人の男子生徒がいた。背中しか見えないけど……ハーフアップに結んだ金色の髪……省吾だ。省吾の手にはちょっとした高級店の紙袋。派手な見た目でその高級店の袋を持っているのはひどく浮いていた。

 そんな省吾に一人の女子生徒が近づいてくる。リボンをゆるくめ、スカートをこれでもかと短くしている派手な女子。二年前に省吾が一目惚れして付き合い始めたという女子生徒だ。確か先輩と同じ三年生で……クラスは知らない。名前は……いっていたような気もするし紹介されなかったような気もする。とにかく、何十年と一緒にいる幼馴染の僕より優先する彼女だ。

 その女子が省吾の前で立ち止まり、二人は少しだけ話していた。そのあいだ省吾はひたすらモジモジして……突如、意を決したように持っていた紙袋をその女子に渡した。

 女子が紙袋を受け取って中をあさるが……うーん、省吾の背中が邪魔で中身はよく見えないな。多分、そろそろ付き合って二年とかいってたからそのプレゼントだろう。この前もなんかその話をしてたし。

『――二年二組、神宮省吾くん。多岐先生が呼んでいます。職員室まで――』

 校内放送が省吾を呼ぶ。それに気づいた省吾は紙袋を渡した女子に何か謝って――走って校舎に戻って行った。

 一人残された女子の手にはブランド物のバッグとハンカチがあった。学生のプレゼントにしては大げさなものだ。省吾がバイトを増やして買ったんだろう。その女子はスマホを取り出してバッグだけ写真を撮ると、スマホの画面になにかを打ち込む。すぐにその女子のスマホからひっきりなしに通知音が鳴り始めた。どうやらSNSにでも投稿したんだろう。省吾、やっぱりお前はその女と別れたほうがいいぞ、なんて窓からその女子を見下ろしながらふいに思う。秦野先輩とは大違いだ。あの人はきれいだし、見るからに派手な格好もしてないし……

「……って、なんでここで先輩が出てくるんだよ」

 一人でつぶやく。頭の中に浮かぶのは先輩の顔。首を振り、すぐさま頭の中に浮かんだ先輩の顔を消した。

 再び中庭に目を向ける。とっくにその女子……省吾の彼女はどこかに行っていた。代わりに、近くのごみ箱の中には省吾が渡したはずの紙袋とバッグやらがそのまま突っ込まれていた。

「……」

 僕はため息をつき、急いで空き教室を出た。

 あの女子、なにを考えてんだ。学校のごみ箱にもらったものを捨てるなんて。僕はちょっとだけ……いや、だいぶ、さっきの女子にイライラしながらごみ箱をあさっていた。はたから見れば明らかな奇行きこうだが、さいわいにも今の中庭には見る限り誰もいなかったのでひとまずは大丈夫そうだ。校舎から見られてたら何も言い訳できないんだけど。

「まったく……なんで別れないんだよ、バカが……」

 紙袋とブランド物のバッグ、同じくブランドの刺繍がついたハンカチをようやくごみ箱から引っ張り出す。どちらも洗わないといけないぐらい、すっかり汚れている。

「はぁ……」

 思わずため息が出る。よく知らないけど、なんとなくバッグもハンカチもそれなりに値が張りそうなものだと思った。両方の値段を合わせたら軽く一万は超えると思う。バッグもハンカチも、そこらで売ってる安っぽいものとは大違いだった。本当は僕には関係ないことだが、そのままにしていて省吾がこれを見つけたらひどく傷つくと思ったからだ。もちろん、僕としてもそんな省吾は見たくない。二年前……突然「好きな子ができたかもしれねぇ……」と服の上から心臓を押さえ、相談してきた省吾の姿を思い起こす。それから省吾はバイトを二つ増やし、彼女に会うため遅刻もなるべくしなくなった。「なんでそこまでできるんだよ」と聞くと省吾は「俺ががんばった分、彼女が喜んでくれるから。それが嬉しい」と笑った。当時も今も、僕にその感覚はわからない。

 いつかわかるときが来るのかな。そのときは……こないと思うけど。

 ポロン、とスマホが鳴って省吾からメッセージが来た。

『お前今どこにいんの? 俺、もう教室に来たけど』

 どう返事をするべきか一瞬考える。「お前のプレゼント捨てられてたぞ」……いや、さっき渡していた直後にいうべきじゃないな。僕にもそれなりの良心はある。僕は指を動かして『今から行く』と簡潔に返事を送った。

 制服の上着を脱ぎ、汚れた紙袋をその上着で隠すように包む。パーカーのままだと不自然だな……僕はさらに着ている服も脱いだ。久しぶりに学校のシャツ姿になって少し寒い。これだと教師に見つかっても言い訳はできるだろう。僕は上着で包んだ紙袋を持って、校舎に戻った。

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