【第二章】③

 次の日の放課後。帰りのホームルームが終わると同時、教室を出て行こうとする担任を捕まえようとしたが……。

「えーっと……職員会議の資料作りと運動部の予算表の作成、校舎の見回りと清掃。あとは授業計画か……あ、お疲れ様です加賀見先生。今から進路相談ですか? 三年は大変ですよねー」

 なんだか忙しそうだったので時間を改めることにした。今日の完全下校までには落ち着いてるといいんだけどな……。

 それまで僕は校舎の中をうろうろしたり、図書室で時間をつぶそうとしたんだけど……座って本を読んでいるだけで「ヤンキー」だの「不良」だの「ヤバイ」だの小さな声でいわれるのにはさすがの僕もイラついていた。

 別にヒソヒソいわれるのはいつものことだからいいんだ。自分でいってても悲しくなるけど、そういわれるのはもう慣れた。だけど、どうして図書室でもいわれなくちゃいけないんだろうか。人を見かけで判断するなと僕の斜め後ろでボソボソ喋ってる女子二人にいいたい。僕の後頭部を見ながら、ときどきクスクス笑ってるのも聞こえてるからな。『図書室では静かにしましょう』って張り紙、見えていないのか? 目が悪いなら眼鏡をかけろ。

「……ね、ちょっと写真撮ろうよ。あの頭ヤバイって」

「動画撮ってネットに上げようよ。バズるかも」

 いや、それはダメだろ。僕の個人情報とか、許可もなく勝手に人を撮るなとかあるじゃん。それで学校が特定されて騒ぎになる可能性だって…………ああもういいや、面倒くさい。

 バン! と僕は思いっきり机を叩いて立ち上がった。周りにいた人がビクッと体を跳ねさせる。僕を見てヒソヒソ話していた女子二人を一瞥いちべつし、肩に鞄を引っかけながら出入り口に向かう。カウンターの横を通り過ぎながら、内側にいる図書委員の男子生徒に「うるさくしてすいません」といって、僕は図書室を出た。

「……なに今の」

「ビックリしたぁ……」

 背中越しに小さなざわめきが聞こえてくる。騒いでるのはほとんど女子だ。……あぁ、これでまた変な噂が広がるだろうなぁ……。まあ、いわれるだけでなにもされないからいいんだけどさ。

 さて、これで校舎の中はちょっと居づらくなったな。担任の予定が空くまでどこで時間をつぶそうか。省吾は再テストの再テスト……ってことで居残りだし、加賀見先生は昨日会ったからあれ以上先輩のことは聞けそうもないし。そもそも進路のことで忙しい三年生の担任を、二日連続で僕なんかのいち生徒に付き合わせるのは申し訳ない。

「園芸部の部室……行ってみるか」

『ハタノ先輩』がいるかもしれない。もしいたら……今度こそ本人に聞いてみよう。




 園芸部の部室。扉をガチャッと開けると。

「あ、こんにちは。入部希望者ですか? 加賀見先生は今日いないんですけど……体験入部ならできますよ」

 いつぞやと同じようなことをいわれた。

「あ、ええ、と……」

 まさか本当に部室にいるとは思わなかったので、僕は一瞬驚いて固まってしまう。

 先輩は前と同じように椅子に座って書き物をしていた。机の上にはノートと教科書が開かれた状態で置かれている。どうやら勉強中だったようだ。

 不思議そうな顔をする先輩を見ながら、僕は一旦深呼吸して息を整える。ひとまず「……座っていいですか?」と先輩の向かいの椅子を指さした。「どうぞ」と先輩が返し、僕はパイプ椅子を引いてそこに腰を下ろした。

「体験入部の紙を出しますね。そこに名前とクラスを……」

「あの、ハタノさん」

「? なんですか?」

 彼女が首をかしげる。大きくてきれいな目で、僕の顔を見つめてくる。

 僕はごくりとつばを飲み込んでいった。

「あの……僕、この前ここであなたと会ったんですけど……おぼえてないですか? その前にも病院で会いましたよね?」

「えっと……」

 彼女は自分の鞄から一冊のノートを取り出し、パラパラとページをめくり始めた。

「その前っていうのは……いつですか?」

 この前と同じ困った顔でページをめくりながら、彼女がいった。

「四月六日の始業式の日です。時間は……午後二時ぐらいだったと思います」

「始業式……」

 彼女はあるページで手を止め、さらに困った顔をした。

「この日は志織ちゃん……私の友達が検査の付き添いに来てくれたときですね。あなたは、えっと……」

「僕、その佐倉志織の弟で佐倉さくらひろっていうんですけど」

「サクラヒロキくん……。ここに、あなたの名前はありますか?」

 といって、一ページ戻したそのノートを僕に見せてきた。そこには女の子らしい丸っこい字でこう書かれていた。


『毎週火曜日と金曜日は病院に行くこと。病院までは加賀見先生(園芸部の顧問。私のクラスの担任の先生)が付き添ってくれる。17時から検査なので16:30までには待合室にいること。わからなかったらナースステーションで自分の名前をいう。私の名前は秦野紬(はたの つむぎ)

 検査をしてくれる男の人は渡辺(わたなべ)さん。お話をしてくれる看護師さんは吉井(よしい)さん。私の担当の先生は国立(くにたち)先生。

 ときどき検査に付き添ってくれる女の子の名前は佐倉志織(さくら しおり)ちゃん。

 検査は一時間ぐらい。書き取りをしたり図形を描いたりする。今、私がどこにいてどんな気持ちなのか聞かれると思うけど、慌てずに正直に答えること。ウソはいわない! 今の体調がどうか、聞かれても正直に答える』


『ハタノ先輩』……秦野はたのつむぎ先輩。ようやく僕は、ここで彼女のフルネームを知った。

「ここには……書かれてないです……。僕の名前……」

 なぜだが彼女にそういうとき、ひどく悲しい気持ちになった。どうしてだろうか。

「……そうですか。書き忘れたのかもしれません。ごめんなさい」

 ノートを彼女に戻すと、彼女はかわいらしい筆箱からシャーペンを出して次のページをめくる。そこには前に見た……ねーちゃんがたこ焼きを買ってきてくれたとか……の文章が書かれている。その下のぎょうに『もう一人男の子と会った。青い髪の男の子』と書いていく。

「名前の漢字はどう書くんですか?」

「……名字は姉と一緒で、名前のほうは魚拓ぎょたくの『たく』っていう字と『輝く』っていう……僕が書きましょうか?」

「お願いします」

 ペンと開かれたノートを差し出され、僕は『もう一人男の子と会った 青い髪の男の子』の文の二行下に『佐倉拓輝』と書き、その上にふりがなを書いていく。

「……書けました。どうぞ」

「ありがとうございます」

 ノートとペンを返すと、先輩は嬉しそうに僕の名前をじっと見つめた。そしてその下に『志織ちゃんの弟さん。私に会いに来てくれた』と書き加える。

「それで、えっと……体験入部しますか?」

「え?」

 突然そう聞かれ、僕は思わず聞き返した。

「……園芸部の入部希望者じゃないんですか?」

 先輩はきょとんとしている。どうしよう。タイミングが急すぎんだろ。まったく心の準備ができてなかった。

「ちょうどよかった。裏庭の掃除をしないとねって加賀見先生と話していたところなんです。今日は先生がいないから明日にでもしようって……」

「あ、あの! 違うんです、そうじゃなくて!」

 思わず声を荒げてしまう。彼女はぼんやりとした目を見開かせて僕を見つめ返している。

「そうじゃなくて……あなたのことが知りたいんです」

「え?」

 今度は先輩が聞き返した。

「私の、こと……?」

「……はい。そうです」

 なんだか改めて本人にいうとめちゃくちゃ恥ずかしいな。もしかして、もうちょっと仲良くなってから聞いたほうが良かったんじゃ――

「……帰って」

「え?」

「……ごめんなさい。帰ってください」

「あ、その、会ってからそんなに仲良くもないのに、急に変なこといったのは謝ります! でも僕はあなたのことが――」

「ごめんなさい。そういうの、いらないんです。お友達になれなくてごめんなさい」

「……」

「私は……一人がいいんです。私は……一人でいいんです。だから、ごめんなさい」

 他の音に消えそうな透明の声が、はっきりと僕を拒絶した。僕はなにもいえなくなり……部室から出て行くしかできなかった。




 その日の夜。

「なんかあった? 落ち込んでるっぽいけど」

「なにも……なかったよ。落ち込んでもないし、別になにも……」

「うそばっかり。バレバレだよ。このお姉さんに話してみなさい」

「だからなにもないって……」

「あっそ。じゃ、これ見てもそんなこといえる?」

 向かいに座るねーちゃんが小さな卓上鏡を見せてきた。そこには――。

「……うわ、ゾンビみたいな気持ち悪い男のれいが映ってる。ねーちゃん、このいえおばけいるよ。おはらいしなきゃ」

「ばか。鏡に映ってるのは落ち込んでるあんたでしょ。自分の顔も忘れたの?」

「なにいってんだよ。僕はもっとカッコイイし。こんなに気持ち悪くない」

「ばかいわないの。じゃあなんで彼女の一人もいないのよ。よっぽど性格になんありってことよね」

「う、それは反則だって。そういうならねーちゃんだって彼氏いないじゃ……いって!」

 見せてきた鏡の角で思いっきり頭を叩かれた。頭の芯まで痛みで痺れる。

「あたしはね、あえて彼氏とか作ってないの。そういうの今はいらないし」

「あの派手な彼氏に振られたくせに……」

「振られた、じゃない! 振ったの! あたしが向こうを振ったの!」

「そんなにいわなくてもわかったって。ねーちゃんだって、顔はそこそこいいのにやっぱり性格が悪いから……いって! なんでまた殴るんだよ!」

 頭頂部を押さえながらいい返す。今度は明らかにゴツンっていう音が脳の奥まで響いた。めっちゃ痛い。これ、頭へこんだんじゃないか?

「すぐ暴力振るう! そういうとこだぞ!」

「なにもしてないってば!」

 ねーちゃん。思いっきり卓上鏡を振り上げてる体勢で「なにもしてない」は無理があるよ。

「……で、なにがあったのよ。明日は朝早いから、三十分だけなら話聞いてあげる」

「いやだからなにもないって……」

「つーちゃんのことでしょ。どうせ」

「どうせってなんだよ……」

 うわ、いきなり核心を突いてきやがって。さすがねーちゃん。

「ふぅん。適当にいったけどやっぱりつーちゃんのことだったんだ。それで? なにか聞けたの? ちゃんと本人に『あなたのことが知りたいです』っていった?」

「いったんだけど……帰れっていわれた。なにも話してくれなかった」

「……ふぅん。それで?」

「それでって……それだけなんだけど」

「なるほど。それで、しょんぼりして帰ってきたってわけね」

「別にしょんぼりはしてないし」

「ほんとにー? あ、もしかしてさ、つーちゃんのこと好きになったの? あの子かわいいもんね。で、どこが好きなの?」

「あのさ……そろそろ本題に入っていい?」

「あ、話してくれるんだ」

「……やっぱやめる。省吾に相談する」

「ごめんごめん! ほら、お姉ちゃんにいってみなさい」

 ガタリと椅子から立つとねーちゃんが慌てて止めてきた。僕は半分浮かせた尻を仕方なく椅子に戻す。

「……ねーちゃんはさ、先輩のこと、やっぱりなにか知ってんの?」

「まぁ、ね……」

 明らかにねーちゃんの声が曇った。前のときと同じ反応だ。

「去年……あたしが三年生だったとき。同じクラスだったんだもん。最初はあんまり関わることもなかったんだけどね。一緒に受験勉強しよって誘って友達になったんだよ。うちにも来たことあるよ。あんたは去年遊びまわってたから知らないでしょうけど」

「う……それは、そうだけど……」

 ねーちゃん、それは反則だよ。確かに僕は去年……高校一年のときはほとんど遊びまわってて、ろくに学校にも行ってなかったし、この家にもあんまり帰ってなかったけどさぁ。

「……それで先輩と友達になって、園芸部の手伝いをしたり?」

「そうそう。加賀見先生が作ってくれたケーキを食べたりね。誰かに聞いたの?」

「加賀見先生に……」

「あ、そうなんだ。去年も園芸部の顧問だったからね、あの先生」

 ねーちゃんは、ずず、とコーヒーを一口飲んだ。それからなんとなく、話が続かなくなって沈黙が広がる。カチ、カチと壁掛け時計の針の音だけがリビングに響く。

「あ、そうだ。今度さ、あんたも一緒に病院行く?」

「え?」

 突然、ねーちゃんがそういった。

「だから、つーちゃんの付き添いに。無理にとはいわないけど、どうする?」

 前にも聞かれたことだ。

 でも、先輩に会ってなにを話せばいいんだろうか。そもそも、あんなにはっきり拒絶されたのに会ってもいいんだろうか。

「ま、次にあたしが行けるのは……来週の金曜日だから今すぐ決めなくてもいいよ。もし行くっていうならあたしに電話して。学校まで迎えに行ってあげる」

「迎えには来ないでよ。変な噂されたらたまんないし」

「そんな派手な髪してるのに噂とか気にするんだ。まぁ、わかった。とにかく学校が終わったら電話して」

「わかった。それまでには考えておくから」

「うん、お願いね。じゃ、おやすみ」

「おやすみ」

 コップを片付けたねーちゃんが二階に上がっていく。

 一人になった僕の頭に浮かぶのは、やっぱり先輩のことだった。

『私は……一人でいいんです。だから、ごめんなさい』

 今にも泣きだしそうな彼女の顔を頭に浮かべると、また心臓の奥がキュッと苦しくなった。今日あったことを思い出すだけで、なんだがすごく悲しくなるのはどうしてだろう。

 僕はしばらく先輩のことを考えてから、眠りについた。

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