【第二章】②

 次の日は一限目から数学の小テストだった。聞いてない。

「あと五分な。名前、書き忘れんなよー」

 腕時計を見ながら担任がいう。高校二年生にもなって、テストで自分の名前を書き忘れる奴なんているはずがないだろう。成績が悪すぎる省吾でも自分の名前は一番に書くぞ。……まぁ、省吾は自分の名前を一番に書いて終わりなんだけど。

 最終問題の数式を解き終えた僕は、暇になったので適当にペンを回して遊んでいた。頭に浮かぶのは『ハタノ先輩』のことだ。

 さて、今日の放課後にでも担任に聞いてみるか。園芸部顧問の加賀見先生も先輩のことを知っているかもしれない。三年生の担任だから加賀見先生のほうが詳しいかな。とりあえず、放課後になったら職員室を覗いてみるか。

 そこで僕は、隣の席にちらりと目をやった。隣では省吾が机に突っ伏して堂々と居眠りをしている。テストなんてお構いなしというような、ものすごく気持ちよさそうないい顔で。小さく開いた口の端には、省吾のチャームポイントである八重やえがちらっと見える。両腕で枕を作っているので、その下にあるテスト用紙がぐしゃぐしゃになっている。よだれを垂らしていることを除けば「イケメン」というくくりに入るだろうに。顔はいいのに頭が悪くて子供っぽい。こいつの悪いところはこういうところだ。顔はいいのに、本当に残念な奴だと思う。

 省吾が夢の世界に行くのはいつもの光景なので誰も気にしていない。担任すら「あと一分だぞー」なんていっている。しかも今はテスト中だ。いくら僕の隣の席だろうが声をかけるわけにもいかない。

 この学校に入るときは少なからず入試や面接がある。僕は余裕だったけど。幸せそうに寝ている省吾の顔を見ながら、二年生全員の中で三位以内の成績に入る僕ですら思う。

 どうしてこいつは、この学校に入れたのだろうか。




「お前だろ。これ」

 放課後である。僕がいるのは職員室。先にいっておくと別に問題を起こしたわけじゃないし、タバコがバレたわけではない。髪を染めて制服を着崩しているだけで、他の派手な生徒に比べると僕は大人しいほうだ。

 下校前のホームルームで担任に呼び出されたので何事かと思ったけど、職員室について行くなり、椅子に座った担任から僕のテスト用紙を渡されただけだった。

 採点が終わった紙の右上には大きく『98』と書かれている。うーん、あと2点だったか。どっかの数式が間違ってたかな。

「お前これ、名前書いてないから0点な」

「はい?」

 思わず聞き返す。よく見ると……名前の欄にはなにも書かれていない。なるほど、字でわかったのか。さすが担任。

「クラスの中で最下位だ。ってことで今から再テストな。自分の教室で待ってろ」

「い、いやいや、ちょっと待ってくださいよ。高校生にもなって名前を書き忘れて0点って……すごいバカじゃないですか。省吾でもやりませんよそんなこと」

「そうだな。神宮でもしっかり自分の名前を書いてから居眠りしてたぞ。3点だったけどな」

 あいつ、高二の数学で3点も取れたのか。すげえ……。

「再テストは一年と三年も一緒にやるから、俺が行くまで勉強でもしてろ。やるのは同じ数学だ。次は名前書き忘れんなよ」

「今日は部活の練習試合がありまして……」

「お前、部活入ってないだろうが。サボってもいいが、親御おやごさんに『おたくの佐倉拓輝くんですが、欠席と遅刻が多いのでそろそろ留年が確定しそうですよ』って連絡しないといけなくなるぞ。それでもいいのか?」

 う、それは面倒くさい。

「……教室で待ってます」

「勝手に帰るなよ。あと三十分後……夕方の五時になったらやるからな」

 名前が書かれていないテスト用紙を受け取り、僕は職員室をあとにした。

 屈辱くつじょくだ。やってしまった。

「お、拓輝。お前も再テストなの?」

「うるせえ話しかけるな」

 自分の席で頭を抱え、机に突っ伏している僕は隣にいる省吾にそう返す。

 別に再テストになったことはどうでもいいんだ。ただ、『高校生にもなって名前を書き忘れて0点になった』という事実がショックだった。しかもそこそこにいい点……あと2点で満点だったのに、名前を書き忘れたせいでなかったことになるとは……。ねーちゃんにいったら大爆笑されるだろうな……。

「今回のテストは難しかったよなー。俺、3点も取れてたぜ。妹と母ちゃんに自慢じまんしねえとな。みっちゃんが『喜べ、今回はお前よりバカな奴がいたぞ』っていってたけど誰だろうな」

「うるせえ黙れ」

「なんでそんなに怒ってんだよ。さてはお前、カルシウム足りてねえな?」

 のんきな省吾の声を無視する。こいつ、あとでぶん殴ってやる。

「よし。お前ら始めるぞー。机の上の物、しまえよー」

 ガラガラと扉を開け、テスト用紙を持った担任が教室に入ってきた。僕はため息をつきながら顔を上げる。

「50分間な。名前とか書き忘れるなよー」

 おいみっちゃん。ちらっと僕の顔を見ながらいうな。二回も自分の名前を書き忘れるバカがいるわけないだろうが。

「名前さえ書いてりゃ、とりあえず1点ぐらいは入るだろ! な、拓輝」

 そんなわけないだろうが。こいつ、本当に再テストの意味を知ってるのか? 当然だが名前だけ書いても1点さえ入らないぞ。……本当に、なんでこいつこの学校に入学できたんだろう。

「お前、なんでこの学校に入れたんだよ……」

 そういいながら僕は顔を上げる。このとき、ずっと机に突っ伏していた僕はようやく教室内を見たわけで。僕の他に座っている生徒は省吾を入れて七人。その中で知っている顔は省吾を含めて三人。あとの四人は知らない顔だった。三年か一年だろう。

 その中に――あの人がいた。

 長くてきれいな髪。後ろ姿でわかった。

『ハタノ先輩』だ。

「秦野はこれな。テスト終わったらちょっと残っててくれ」

「わかりました」

 相変わらずきれいな声でそういって、『ハタノ先輩』は渡されたテストを静かに解き始めた。

「……おい、佐倉。堂々と正面を見るな。再テストだからってカンニングはダメだぞ」

 担任が視界に入ったことで僕はハッとする。どうやら無意識のうちに『ハタノ先輩』を見つめていたようだ。

「……カンニングしなくても頭いいんで」

「そうか。なら、その青い髪も黒くしたって成績落ちないんだよな?」

「この色は気に入ってるんで、せめて卒業するまでは見逃してもらえませんかねぇ……」

「ばかいうな。さっさとテストやれ」

 机の上に今日の一限目でやったものと同じ紙を置かれる。書いてある問題文も朝にやったものとまったく同じだった。それらの問題文にいったん目をやってから、僕は一番上にある空欄に『佐倉拓輝』と確実に自分の名前を記入する。あとはあせらなくても余裕でける。自分でいうのもなんだけど、学年三位の成績は伊達だてじゃない。ちらっと隣を見ると、省吾はさっそく机に突っ伏して小さく寝息を立てていた。渡されたテスト用紙には『神宮省吾』とだけ書かれている。こいつめ、本当に自分の名前しか書いてない……。3点取れたのはマジの奇跡だったんだな。まぐれでもヤバイわ……。

 過ぎていく時間に合わせて解答を進め、ペンを回して時間をつぶしたり、外を眺めてぼーっとする。

 担任に『ハタノ先輩』のことを聞いてみようかと思ったけど、今日はちょっと忙しそうだな。園芸部の加賀見先生ならいてるかもしれない。見かけたら先輩のことを聞いてみようかな。園芸部の顧問だったら、部員である先輩のことは担任より知ってるかもしれないし。

『それでも知りたいなら、堂々と本人にいってきなさい』

 ねーちゃんに昨日いわれたことが頭をよぎる。

『それなら、あたしもつーちゃんのことで知ってることを話してあげる』

 いやいや、ねーちゃん。こんな、ピアスを六個も開けて髪を青くしてる奴が「君のことが知りたいから教えて」って、それはちょっと無理があるんじゃないかな。一歩間違えたらおまわりさんが飛んできそうだよ。コンビニに行こうかと外を歩いてるだけで「ちょっと時間大丈夫? 学生さん?」って警察官に声をかけられて、「あー、また君かぁ」っていわれる弟の気持ちもちょっとは考えてほしい。

 でも……逆をいえば「本人に聞いたら教えてくれる」ってことだよな。初めから断られるとわかってて、ねーちゃんはあんなこといわないだろうし。そこも先輩となにか関係があるのかな。

 ねーちゃんは、先輩のことをどこまで知ってるんだろう。先輩は、どうしてあんなことを……。

 まるで、僕と初めて会ったみたいな……。

『あなたと私……会ったことありますか?』

 僕のことを、なにもおぼえてないみたいな……。

「……」

 どうしてだろうか。先輩の困った顔を、耳に残ったあの透明の声を思い出すたび、胸の奥……そこがギュッとして苦しくなる。担任にバレないよう服の上から心臓を掴んでも、キリキリした痛みが消えなくて苦しい。なんだこれ。なんだ、これ……。

「あと五分だぞー」

 担任の声で慌てて意識を戻し、ペンを手に取って急いで残りの問題を解いていく。

 書きなぐるように数式を解いていくことで、くっきりと頭に浮かんでいた先輩の顔を無理やり脳内から消した――。




 グラウンドでは野球部の掛け声が聞こえてくる。

 その声を聞きながら園芸部の部室を開けると、「あら」と顧問である加賀見先生が顔を向けてくれた。

「どうしたの? 佐倉くん。忘れ物?」

 椅子に座っている先生が僕にいう。近くには湯気が立つコーヒーカップ。休憩中だったのだろう。先生はどうやら、僕がこの前手伝いに来たときになにか忘れ物をしたのかと思っているようだった。

「いや、あの……」

 僕は部屋を見回しながらいう。部室に先輩の姿はない。当然か。担任から「テスト終わったら残っててくれ」っていわれてたから、まだあの教室で担任となにか話しているのかもしれない。もしかしたら、もう家に帰っているのかも。どちらにせよ、あと三十分ぐらいで完全下校の時間になる。今日はもう担任に先輩のことを聞く時間はなさそうだ。

「ひとまず、外は寒いでしょう。中においで」

「あ、はい……」

 僕はとりあえず部屋の中に入って扉を閉める。加賀見先生は立ち上がって電気ケトルのスイッチを入れた。

「コーヒーしかないけど……飲める?」

「はい。大丈夫です」

 座布団が敷かれたパイプ椅子に座ると、目の前にケーキの乗った皿がコトリと置かれた。

「はい、フォーク。久しぶりに作ったらちょっと形が悪くなっちゃったけど……捨てるのももったいないから食べちゃって」

「え、これ……作ったんですか?」

 僕は皿に乗ったチョコレートケーキを見ながらいった。

「そうよ。あんまりたくさんは作ってきてないから、皆には内緒でお願いね」

 加賀見先生はそういって笑いかけた。

 皿に乗ったケーキはとても趣味で作ったとは思えないほどのクオリティだ。形が悪いといわれたけど全然そんなことないし。

「じゃあ……いただきます」

 コップとコーヒーを準備する加賀見先生にいい、ケーキを一口食べる。

「……めっちゃうまいっす。え、これ本当に趣味で……?」

 食べる手が止まらない。ケーキ、めちゃくちゃうまい。なるほど、これだけうまいと担任も授業を自習にしてまで食べに来るのは納得だ。教師が勝手に受け持ちの授業を自習にするのはどうかと思うけどな。

 僕はあっという間にケーキを完食した。あれならあと三つは余裕で食べられそうだし、先生の手伝いも余裕でできる。

「あら、もう食べちゃったの。きれいに食べちゃうなんて嬉しいわ。私の家族は甘い物が苦手だから作り甲斐がいもないし……」

 いいながら、加賀見先生が僕の前にカップを置いてくれた。中にはさっき淹れてくれたコーヒーが入っている。

「おいしそうに食べてくれるとこっちも嬉しいわ。つむぎちゃんも毎回喜んでくれるから……あ、砂糖とガムシロップはそこにあるわ。好きなだけ使って」

 僕はスティックシュガーを二本とガムシロップを一個、出されたカップの中に入れた。黒かったコーヒーがカフェオレの色になった。

「去年だったら、佐倉くんのお姉ちゃん……志織ちゃんも来てくれたわね。紬ちゃんと多岐先生と三人で私の作ったケーキを食べて、志織ちゃんなんて『先生のケーキめっちゃおいしいから、太っちゃいますよ』っていってね。にぎやかだったわ。今でもたまに多岐先生は来てくれるけど」

「ハタノせんぱ……ハタノさんは、その……仲が良かったんですか? 姉と」

「ええ。最初はお互いそんなにって感じだったけど……自然と仲良くなったみたい。一緒に遊びにも行ったりしてたみたいよ」

「そうなんですか……」

 初耳だ。それもあってねーちゃんは『ハタノ先輩』の付き添いに行っているんだろうか。

「そういう話はしないの?」

「そうですね……。多分、聞いたら教えてくれるんでしょうけど……」

「お姉ちゃんの学生生活を聞くのも、なんだか恥ずかしいものね」

 そういって加賀見先生はフフと笑った。目立たない先生だけど、この人がたくさんの生徒から好かれている理由がわかる。

「ハタノさんって、どんな人なんですか? この前見かけて……」

「そうねぇ……」

 加賀見先生は頬に手を当てると、なにかを思い出すように話し始めた。

「私から見てだけど……大人しい子よ。集団に混ざってワイワイするよりは、一人で本を読んだりするのが好きみたい。花や自然も好きで、去年は自分のカメラを持ってきてそこの花壇の写真をたくさん撮ってたわ。花の学者になろうか自然に関わる仕事にこうかって、志織ちゃんとたくさん話してたわね。自分の夢がたくさんあって、自分の将来のことを……未来のことを、すごくワクワクしながら話してたわね」

「そうなんですか……」

 意外だった。僕から見た先輩は……もっとおとなしくて、全然目立たないような印象だったのに。そうか、そんな人だったのか……。

「意外だった?」

「え?」

「そんな顔をしてたから」

 ふふ、と加賀見先生は笑った。どうやら考えていることが顔に出ていたらしい。僕は素直にうなずいた。

「そうですね……ちょっと意外でした」

「去年はね、あの子『学校が楽しい』っていって、毎日本当に楽しそうだったのよ。でも今は……そんなこといわなくなったわね。いつも一人でいて、休み時間はなにかを読んでるか、ここに来ているか。二回目の三年生をしていることもそうだけど……クラスの子たちや他の部員の子たちに馴染なじんでいるとは……いえないわね」

 加賀見先生は少し悲しそうにいった。ぼかしたいい方だったが、先輩はクラスでも部活動でも浮いているということを僕はさっした。無理もないだろう。進級した先に留年した先輩がいるんだ。みんな、どう関わっていいかわからないというのが本音だろう。

「そういえば、どうして紬ちゃんのことを聞くの?」

「え? えっと……」

 なんとなくですっていったら変に誤解されるだろうな。ここは正直にいったほうがいいだろう。

「この前、たまたま病院でハタノさんと会ったんです。病院に行く途中だった姉に付いて行って」

「病院……それって始業式の日じゃない? お昼を過ぎたぐらい」

「はい、そうです。そのときに先輩を見かけて……」

はなした?」

「え?」

「紬ちゃんと、なにかはなした?」

「あ、えっと……はい。少しだけ」

「そう……」

 加賀見先生はなにかいいたげな顔をして黙ってしまった。まずかったかな。先輩のことを聞くのがいきなりすぎたかもしれない。

「他に……病院で会うまでに、紬ちゃんと会ったりした?」

 ぽつりと、加賀見先生は聞いてきた。僕は数秒の沈黙を挟んで、始業式からのことを正直に答えた。ややこしくなるので、もちろん遅刻して始業式をサボったことと屋上でタバコを吸っていたことはいわなかった。

「病院で会ったときも、そのあとにこの部室で会ったときも、僕、彼女から『私と会ったことがあるか』って聞かれたんです。それまでに僕は彼女と会って少し話したりもしたのに、まるで僕のことをおぼえていないみたいな感じで……」

「……」

「先生。なにか、知ってますか? 知ってたら教えてほしいんです。ただの好奇心とかそんなんじゃなくて、知りたいんです。先輩のこと」

「……その様子じゃ、志織ちゃんからなにも聞いてないのね。紬ちゃんのこと。もしかして担当医の先生からも、なにも聞いてない?」

「はい……。僕は姉に付いて行っただけなので……」

「そう……」

 加賀見先生は、ぎゅっとコーヒーカップを両手で握った。いおうかどうしようかと悩んでいるような顔。そして……。

「ごめんなさいね……。なにも聞いていないのなら私からはいえないわ。また今度、紬ちゃんに会ったらたくさん話してあげてね。あの子、きっと……喜ぶから。お願いね」

 そういって加賀見先生は微笑ほほえんだ。けれどその顔は、まるで悲しみを誤魔化しているような――僕にはそんな風に見えた。

「……はい。わかりました」

 加賀見先生には先輩のことをそれ以上聞けず、この日はこうして終わった。

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