【第二章】

【第二章】①

『そうだよ。このあいだの病院は、つむぎちゃんっていうあたしの友達に会いに行ってたの。その子の検査の付き添いね。あ、そういえばあの子、あんたの先輩になるんだよね。あの子は今年で二回目の三年生なんだけど……。それにしてもよくわかったねー。紬ちゃんのこと、あんたにいってないでしょ?』

 ねーちゃんの声が左耳から右耳へと抜けていく。

「今日の昼、園芸部のさ、手伝いに行ったから……」

『あ、そうなんだ。顧問は加賀見先生でしょ? みっちゃんは元気だった? 明日の放課後にでも会いに行ってみようかな。ドーナツでも買って……』

「ごめん、ねーちゃん。もう切るわ」

『そ。あんまり遅くならないようにね。お母さん怒るから』

「うん……」

 ぶつりとねーちゃんとの通話を切り、スマホをズボンのポケットにしまう。

 手に持っていたタバコの箱から一本取り出し、口にくわえて火をつける。

 味がしなかった。

「……」

 今は放課後。僕がいるのは学校の屋上だ。もう少ししたら部活を終えた省吾がやってくる。数時間前……昼休みでの出来事が、僕を見た『ハタノ先輩』の反応が頭から離れなかった。




「入部希望者ですか? 加賀見先生なら今、外で作業をしているんですけど……」

「あ、いや、えっと、そんなんじゃないんですけど……」

「……? じゃあ、どうしたんですか?」

「えっと……」

 なにか、彼女との会話が噛み合っていない気がする。

 彼女のことを屋上から見たのは昨日の午前。病院で会ったのは昨日の午後だ。一日しか経ってないはずなのに。それなのに……彼女は本気で僕のことがわからない顔をしている。

「あの……僕と会いましたよね? 病院で……」

 うっかり忘れていた、というのならばまだわかる。だけど僕は自分でいうのもアレだけど……かなり目立つ見た目をしているから、一度見たらなかなか忘れられない人間だと思う。

 でも先輩は、本当に僕のことがわからない顔をしている。 

「病院……」

 いいながら、先輩は机に置いていたノートをぺらぺらとめくり始めた。あるページで手を止めると、

「ここにあなたの名前、ありますか?」

 といってそのページを開いたまま僕に見せてきた。

『4月6日』……始業式の日で始まるその日記にはこう書かれている。


『火曜日。病院。今日はいつもより早めの検査。志織ちゃん(検査の時にいつも付き添ってくれる女の子)がたこ焼きを買ってきてくれた! すっごくアツアツでおいしかった! ありがとう志織ちゃん。志織ちゃんは私のお友達。大学一年生』


 それだけだった。僕の名前はない。

 僕とベンチで会ったことも、なにも。

「あなたと私……会ったことありますか?」

 彼女は少し困ったような顔で、病院のときと同じことを聞いてきた。

 どう答えればいいんだろうか。どういうのが正解なんだろうか。

「僕、その……」

 彼女は大きな目を向けて僕の言葉を待っている。

「……ごめんなさい。勘違かんちがいでした」

 混乱する僕の脳では、そう絞り出すのが限界だった。

「加賀見先生の手伝い頼まれたんで、ちょっと上着、ここに置いててもいいですか」

「……ああ、はい。軍手はそこに。作業が終わったら先生に渡してくださいね」

 彼女は見せてきたノートを引っ込めて、少し困ったように笑った。

 僕は袋から一人分の軍手を取り、『ハタノ先輩』がいる部室から出て行く。部屋の扉を閉めると同時、中からペンを走らせる音が聞こえてきたのは気のせいだろうか。




 タバコの灰がぽとりと落ちる。

 屋上の扉がいて省吾がやってきた。飼い主に会えた犬みたいな顔でぶんぶん手を振って。その手には焼きそばパンがにぎられている。

「お前さ、昼飯食ってないんだろ? 買って来たぞ」

 そういって省吾は僕の隣に腰を下ろす。

「僕、焼きそばパン苦手だっていったよな」

「いったな!」

「じゃあ、その手に持ってるのはなんだよ」

「焼きそばパンだ! しかもラスト一個だった!」

「そうかよかったな。僕のパンは?」

「ない! これは俺のだ!」

「お前マジでふざけんなよ……。健全な男子高校生が昼を抜いたらどうなるかわかってんだろうな……」

「タバコ吸ってる奴が健全なわけねーだろうが。そろそろやめねえと早死はやじにするぞー」

 もしゃもしゃパンを食いながら正論をいってきた。たまにこいつ、まともなことをいってくるんだよな。無意識だろうけど。

「そういやお前、今日、園芸部の手伝いしてただろ」

「なんで知ってんだよ……」

「放送部の部室から見えた。そんでさ、園芸部の部室から出てきたとき、ちょっと様子がおかしかったけどなんかあったのか? おばけが出たとか」

「おばけじゃねえよ……」

 僕はうなだれながらそう返す。からっぽの胃袋が「栄養をよこせ」と小さな音を立てた。「帰りにコンビニ寄ろうぜ」と省吾にいうと、省吾はパンをかじりながら首だけでうんうんと頷いた。まるで一生懸命ドッグフードを食べている犬みたいだった。

「……」

『ハタノ先輩』のことをいってみようかとふと思う。僕はそこまで隠し事が得意な人間じゃないから、黙っていてもいつかは省吾に話してしまうかもしれない。もしかしたら今日の夜にでも省吾に電話でいうのかも。自分のことはよくわかる。

「イチゴ牛乳ならあるけど、飲む?」

「……もらう」

 紙パックの飲み物を受け取り、ストローを差して一口飲む。そして僕は「あのさ……」と言葉を繋げた。

「昨日、お前が帰ったあと。ねーちゃんと病院に行ったんだ。ねーちゃんの友達……の付き添いみたいなのでさ」

「へえ。そうだったんだ。俺は『用事ができた』ってデートはナシになったよ。買い物行って終わりだ。あとで志織ねーちゃんに謝っとかねえとな。俺、帰るときにちゃんと挨拶できてなかったし」

「あー……そうか。お前の話はあとで詳しく聞いてやる」

「時間があるときでいいって。今はお前の話が先だし。で、続きは?」

 パンをもしゃもしゃかじりながら省吾はいった。僕は昨日の出来事を思い出しながら続きを話す。

「えーっと……その付き添いの友達っていうのが『ハタノ先輩』でな。僕もさっき知ったんだけど……。その前に、僕は病院の中庭っぽい所でその人と会ったんだけど……」

「へえ。なんか話したか? 始業式の日も会ったんだろ?」

「あれは『目が合った』だけだ。それに病院で会ったときも特に会話はしてない。というかちょっと、なんか引っ掛かるんだよな……」

「なにが?」

「今日の昼休みも『ハタノ先輩』と会ったんだけど……なんていうか……」

 タバコの灰を携帯灰皿に落としながら、僕は昼休みのことを頭に思い浮かべた。

『あなたと私……会ったことありますか?』

 眉毛を下げた困った顔。見せられたノート。ねーちゃんとのことしか書かれていなかったページ。まるで……。

「まるで僕と会った昨日のことを……きれいさっぱり忘れたみたいだった」

 今日の昼休み……『ハタノ先輩』と会ったあとからずっと胸に浮かんでいた一言ひとこと。それを僕はぼそりといった。

 屋上に風が吹く。舞い上がった桜の花びらがここまで飛んでくる。省吾が飲んでいる紙パックのジュースから中身がなくなった音が聞こえてくる。

「……先輩、二回目の三年生だっていってたよな?」

 タバコを携帯灰皿に押し込んで火を消し、僕は省吾に聞いた。

「ああ。俺も今の三年……前の二年生たちが話してるのをちらっと聞いたんだけど、授業にもほとんど出てないってよ。そんな人がいるなんて全然知らなかったよな」

「そう、だな……。僕もこの前の始業式の日に初めて知ったよ」

「お前は特に、去年はまともに学校来てなかったもんなー」

 そういって省吾は笑う。そのことは僕にとってはなんというか……黒歴史くろれきしの一つだ。去年の僕はほとんど学校に行かず好き放題していて、三か月のあいだに髪の色が四回変わったりもしていた。制服は二回も破れ、補導だが警察にお世話になったことも何度かある。それで母さんと大喧嘩おおげんかしたことも。そんな僕だったのだが、ある日急にそういうことをするのに飽きた。その結果、去年よりは学校に顔を出す日が多くなったと思う。まぁ、まだ授業を受ける態度が悪いやら学生らしくないやらと他の教師たちからにらまれてはいるが。

「……ねーちゃんなら知ってるかな」

 ねーちゃんは去年まで僕の学校にいた人だ。『ハタノ先輩』に会いに病院へ行っていたことといい、なにか知っているかもしれない。そういえば、うちの担任も去年はねーちゃんのクラスの受け持ちだったな。担任にも聞いてみるか。

「おいおい待てよ。そんなさ、人のことを勝手にコソコソ探るのって良くないと思うぜ」

「お前にしてはまともなこというなぁ、省吾。その考えはなかった」

「だからお前は性格が終わってるんだよ……っておいおい、待て待て! 殴ろうとするな! アイス買ってやるから!」

「……ちっ。しゃあねえな」

 僕は振り上げていた右の拳をゆっくり下ろした。いくらまでとはいわれてないから、店で一番高いアイスを買わせよう。ついでに腹も減ったからレジ横にある揚げ物も何個か買わせるか。

「なぁ拓輝、なんでそんなに秦野先輩のことが気になるわけ?」

 と、焼きそばパンを食い終わった省吾が聞いてきた。

「うーん……なんていうか……なんとなく気になるんだよね」

「なんとなく気になるって、恋かよ」

「そんなんじゃないよ。ほんとに、なんとなく気になるだけ」

「なんとなくかよ」

「そうだよ。なんとなく」

 そこでひとまず、僕の話は終わった。

「あー、そうだ。お前最近、デートがナシになるの多くないか?」

 別に順番ってわけじゃないけど、一区切りがついたから次は省吾の話だ。僕も気になるし。

「あー……そう、なんだけどさ……」

「別れたら? ばかにされてんだって。向こうにとってお前は尻尾振る犬みたいに思われてるんだって」

「……そういうことをすぐにいうのって、ほんとお前らしいよ……」

 と、省吾はいった。僕の言葉に対して「そんなことない」とはいわなかった。つまり、少なからず「そうされているんじゃないか」という考えはあるようだった。

「……」

 省吾は少し考えてから、

「ちょっと聞いてくれるか……」

 と話し始めた。

 内容はこうだ。

 最近デート代も省吾持ちで、一緒に出掛けるといっても近場が多くなったのだという。

 最初はネックレスやポーチなどの小物類を謙虚けんきょに「欲しい」といっていたのだが、最近はびっくりするぐらい高いバッグや化粧品を「買って」といわれるのだという。「今月厳しいから」と断ると「もういい!」と怒って帰ってしまうのだという。それに加え、買い物を終えたらすぐに「ごめん用事があるの思い出した。じゃあね」といって帰ってしまうのだとか。僕としては完全にクロだなと思ったけど、どうしたらいいのかと省吾は本気で悩んでいた。省吾はいろいろな部分が単純だから、こういうことですぐに悩む。それがこいつの短所であり長所なんだろうけど。

 つまり、最低でも三人以上と付き合ってきた僕にいわせればこういうことだ。

「別れろ」

 正直にいうと、うだうだいっている省吾の話は一分ぐらいでどうでもよくなった。「でも」とか「だって」を繰り返す女子よりかはマシだけど。

「幼稚園からの付き合いでいうぞ、省吾。そんな女はやめとけ」

「……それってお前の経験からいってる? ……あ、なんでもないです……」

 ぎろりと睨みつけると、省吾は目を逸らしながらそういった。

「とにかく、別れろ、としかいえない。付き合ってるのにどっちかがつらくなるのって、違う気がするし。いいづらいなら僕がその女にいおうか?」

「いや、それは自分でなんとかするよ。まぁその、ありがとな。考えとくわ……」

 僕としては、なにより省吾が疲れていくのは見たくない。二年前には「俺、彼女できたわ!」って笑っていた省吾が今はこうなるとは。

「……どうやったら仲直りできるんだろうな。なぁ、なんかいい方法知らね?」

「そんな方法あったら、世の中のカップルは別れたりなんかしてないだろ」

「それもそうだな……。バイト増やすか……」

「ところで省吾。今週の土曜日の買い物忘れてないだろうな。その日は僕の新しいピアスを一緒に買いに行く予定だろ?」

「あー、今週の土曜だろ。覚えてる、覚えてる……って……わりい、その日買い物に付き合ってっていわれてたんだわ……」

「お前、そんなになってるのによくその女と一緒に行けるな……。すげえわ……」

「彼女が『行こう』っていってるんだぜ? 断るほうがおかしいだろ?」

「お前ほんと……尊敬するわ」

「え? なに? それどういうことだよ」

 僕がいうと、省吾は目をぱちくりさせた。

「まぁいいよ、僕とはいつでも行けるだろ。その日は楽しんで来いよ」

「ほんとごめんな拓輝! サンキュー!」

 ちょっとした皮肉ひにくのつもりだったんだけど、どうやら伝わってなかったみたいだ。省吾はニカッといい笑顔を僕に向けた。こいつ、ほんとにいい奴だな……。なんていうか、こいつといると自分のひねくれた部分が改めてりになってくる感じがするぞ……。

「ごめんなぁ拓輝、今度、また一緒に行こうな」

「それはいつでもいいけど……省吾、そういうときは『ごめん』より『ありがとう』っていうもんだぞ」

「あ、それもそうだよな。ほんとありがとな拓輝。俺、お前が親友でよかった!」

「僕もお前と親友でよかったよ。その親友は幼稚園から一緒の幼馴染より、たかが二年付き合ってる程度の女を優先する奴だけど」

「ほ、ほんとごめんって……。今度、買い物行ったらお前が欲しいもん全部買うから……」

「そうか。よし、その言葉もう一回いってくれ。証拠として録音するから」

「うわ、スマホ出すの早いな……。なぁ拓輝。お前はモテるけど付き合った女の子が離れていく理由がわかったよ……。お前の性格が最低だからだ」

「最高の間違いだろうが。僕は頭もいいし顔もいい。そして性格もいい。まさに完璧だ」

「はいはいそうだな。そんなどうでもいい話より、俺は記念日のプレゼントを何にするのか考えねえと……」

 省吾はスマホを取り出してうーんと考え始めた。多分、いろいろネットで調べているんだと思う。

 省吾は意外とまじめだ。髪は金色に染めてるけど学校は一度も休んだことがない。授業は遅刻するし居眠りするけどちゃんと出席するし、バイトもちゃんとしてる。さらにいうと、そのバイト代の半分は母親と家に入れているのだというから驚きだ。去年のクリスマスなんかは「俺、そんなに欲しいものとか無いからなー」とかいって、貯めたバイト代でめっちゃデカいクマのぬいぐるみを妹にプレゼントしていた。クリスマスじゃなくっても「母ちゃんもたまには休めよ」っていって、母親に温泉旅館の宿泊券なんかをプレゼントしたらしいし。

 ちなみに省吾はそれらのことを自分からいわないので、この話は省吾の妹から聞いた。

 そんな省吾が、たかが一人の女のためにさらにバイトを増やすなんて。なんだろうな、寂しい……とは違う。なんだろう……ちょっともやもやするな。

「……どうせ別れるのに」

 思わずぼそっと本音が出てしまった。僕の悪い癖だ。

「た、高い……なんでこんなちっちゃいバッグがこんなに高いんだ……? ちっちゃすぎて何も入らねえだろこれ……何入れてんの……?」

 隣をちらっと見たけど、どうやらぶつぶついっている省吾には聞こえてなかったようだ。

 まったく、なんでそこまでするんだろう。僕にはわからない感覚だ。恋愛なんか面倒くさいだけなのに。当然ながら現実は漫画やアニメと違ってとんとん拍子びょうしにはいかないし、ましてや高校生のうちはもっとうまくいかない。それに、付き合うってことはそれなりに金もかかる。しかも女の子の機嫌きげん一つで予定がくるったりもする。最悪だ。それに今の世の中、女の子はなにかあったらすぐにSNSで拡散かくさんだ。男にとってはたまったもんじゃない。そう考えてしまう僕は間違いなくひねくれてるな。こんな僕にも、省吾みたいに相手のことに必死になれるときが来るのだろうか。その女の人のために……全力でなにかしようって思うときが来るのだろうか。……いや、無いな。そんなときはきっと来ないさ。ふ、と僕は口の端を吊り上げて自虐的に笑う。

 ばかみたいだ。たかが一人のためにそんなに必死になるなんて。省吾には悪いけど、ひねくれた僕には一生わからない感覚だよ。

 隣で一生懸命悩んでいる省吾を見ながら、そんなことを考える。もう何十年の付き合いになってた省吾が、たかが一人の女の子に一目惚れしただけで、僕よりそっち優先になるなんて。

 なにが恋だ。ばかばかしい。のろいの間違いだろう。一度それにはまってしまったらその人しか見えなくなる。その人のために一生懸命になって、その人のことしか考えられなくなる。どんな身分の人間でも逃げられなくて、お金や役職も関係ない。まさに呪いだ。一目惚れで相手の心にを植え付け、恋といういばらで脳みそを支配する。そして、心と頭をその人のことで埋め尽くすんだ。

「……はっ」

 なんて、そこまで考えて自分でも苦笑する。漫画や小説の読みすぎだ。中学生でもこんなこと考えないぞ。

 とにかく、明日から『ハタノ先輩』の情報集めだ。あの人がどういう人なのか、なんとなくだけど気になるんだ。




 それから時間は過ぎて。

「あのさ、ねーちゃん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「うん。なーに?」

 晩ごはんを食べ終わり、二人で食器の片づけをしている途中で僕はいってみた。僕の右側にはエプロンをつけたねーちゃんが立って食器を洗っている。

「この前病院に行ったの、ねーちゃんの友達の付き添いだっていったよね」

「うん。つむぎちゃん。会ったの?」

「会った、というか……」

「あの子、だいたい園芸部の部室にいるからね。今日、手伝いに行ったんだったら会ったのかと思ったけど」

 カチャカチャと食器を洗いながらねーちゃんがいう。やっぱり、ねーちゃんは『ハタノ先輩』のことを知っているみたいだ。

 流れ作業のようにねーちゃんから洗い終わった皿を渡される。僕はそれを受け取り、布巾ふきんで軽く水分をとったら食器乾燥機のかごに並べていく。

「あの人、留年して今も三年生なんだよね……?」

 大皿を拭きながら僕はいった。

「……うーん。まぁ、そうだね……」

 気のせいかな。明らかにねーちゃんの声と顔が曇った。

「そのこと、誰かに聞いた?」

「僕が直接聞いたわけじゃないんだけど……なんか、今の三年生が噂してるって。省吾がいってた」

「そうなんだ。噂とかみんな好きだもんね」

 食器の片づけが終わる。ねーちゃんは手を洗ってエプロンを脱いでいる。僕は皿やコップでいっぱいになったかごを食器乾燥機に入れてスイッチを押す。

 時間は夜の十一時。母さんは夜勤だから明日の朝……僕が学校に行く時間ぐらいに帰ってくる。

「はい。砂糖とミルクたっぷりのやつね」

 椅子に座った僕の前にねーちゃんがコップを置いてくれた。ねーちゃんは砂糖もミルクも入っていないブラックのやつだ。寝る前に少しだけ勉強をするらしい。

 ねーちゃんの夢は保育士だ。なんでも、「小さい子ってなにをやってもかわいいよね」ってことらしい。僕にはよくわからないけど。

「それで、つーちゃんがどうかした?」

 つーちゃん……ああ、「つむぎちゃん」をりゃくして「つーちゃん」か。少なくとも、あだ名で呼んでいるからそれぐらい仲が良いってことみたいだな。

「ちょっと、気になって。それだけ」

「……まさか、恋とか? 恋しちゃったの? あんた」

 疑いと軽蔑けいべつが混ざったような目はやめてくれ。そんなに僕が恋をするとおかしいのか。いや、恋じゃないんだけどさ。省吾といい、ねーちゃんといい、どうして僕が「気になる」といっただけですぐに「恋だ」と決めつけるんだろうか。

「……つーちゃんに変なことしようって考えてるなら……」

「いやいや、ない。ないから。ちょっとどんな人なのかなって気になっただけ」

「……ふうん」

 ひとまず誤解は解けた……かな? ねーちゃんの「とりあえず話を聞いてやるか」っていう表情が心に刺さって痛いけど。

 テレビからはお笑い芸人の突っ込みが聞こえてくる。観客席にいるお客さんの大爆笑。

 姉弟きょうだい二人で晩御飯を食べて、片づけをしたらそれぞれの時間を過ごす。

『お父さん』と呼ばれる男の人がいないだけで、佐倉家はいつも通りだ。

「……ただの興味本位でつーちゃんのことを知ろうとしてるなら、やめときなよ」

「え?」

 ねーちゃんがぼそりといった。僕は聞き返す。

「だから、ただの興味本位であの子のことをコソコソ探るのはダメだよ。あの子が可哀想だから」

 めずらしく、まじめな声だった。

「それでも知りたいなら、堂々どうどうと本人にいってきなさい。なにも悪いことしようとしてないんだったらできるでしょ? それなら、あたしもつーちゃんのことで知ってることを話してあげる」

「……本人に『あなたのことが知りたいです』って?」

「そう。とりあえず、あたしからはそれだけね。つーちゃんはすごくいい子だから、そういったら日記でも見せてくれると思うけど」

 コーヒーを飲み終わったねーちゃんは椅子から立ち上がる。

「ただでさえ、いろんな噂されてるんだったら本人に聞くのが一番早いよ。噂っていうのはたいがい悪いことしか出回でまわらないしね」

 なるほど。確かにねーちゃんのいうことは一理いちりある。回りくどいことをするより本人と会って話したほうが、出所でどころもわからない噂話より確実だ。

「あ、そうそう。話は変わるけど、その髪のことでお母さんめっちゃ怒ってたよ。不良ふりょうみたいだって。あたしは今どきの高校生っぽくていいと思うけど。ピアスも校則違反しない程度にね。あ、でも、その青色の髪はナイと思う。じゃ、おやすみ」

 キッチンの流しに飲み終わったコップを置くと、ねーちゃんは階段を上がって行った。

「……」

 ずず、と僕はすっかり甘くなったコーヒーを喉に流し込む。

 そんなに悪いかな、この髪色……。

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