それでも、僕らは。

萩月絵理華

【第一章】

【第一章】

「あのね、私ね」

 と、隣にいる彼女がいった。

「よくおぼえてないんだけど、多分、中学生か高校生のとき……誰かに告白されたんだよね。でも私、忘れちゃう病気だから、その人に『ごめんなさい』って断ったの。でもね、その子はそれでも私のことを大好きっていってくれたの。私が全部忘れてもずっと一緒にいるって、私が忘れても、僕は何度もあなたに告白しますっていってくれてね」

「そっか」

 まったく誰だろうな……そんな恥ずかしい告白をしたのは。彼女の話を聞きながら、僕はふと思う。本当に誰だろうな、彼女にそんな告白をしたのは。

 風が吹き、近くの河川敷で揺れるたくさんの桜の木からピンク色の花びらがここまで飛んでくる。

 あの日もこんな春だった。おぼえている。忘れるわけがない。僕は脳裏に、人生で最も忘れたくない大切な記憶を思い起こした――。


 ***


 けたたましいスマホのアラーム音で目が覚める。

 手探りでスマホを掴んで音を消し、目をうっすら開けて時刻を確認。今は朝九時を少し過ぎた時間。どうやらアラームじゃなくてスヌーズ機能だったみたいだ。さて、目覚ましを設定したのは午前八時だったんだけど……。

 ポロン、とメッセージが来た。省吾しょうごからだ。

『お前始業式からサボるの?笑』

 一瞬文章の意味がわからなかった。ぼうっとした頭でしばし考える。

「始業式……」

 そうつぶやきながら目を動かして部屋を見渡す。僕の机。壁に貼ってあるポスター。ハンガーにかけられた僕の制服。4月のカレンダー。『6日』は大きく丸で囲われ、『絶対起きてよ!』と母さんの字が書き込まれている。

 僕はもう一度スマホの画面を見た。今日の日付は四月六日。時刻は……もうすぐ九時十五分。確か……式が始まるのは三十分からって担任がいってたっけ。だから寝坊しても、最低でも九時には学校に来てろよって――

 次の瞬間。僕は急いで体から布団を引きはがし、最低限の支度したくをすると飛び出すように家を出た。




 それが、四十分前の出来事だ。

『……で、あるからして。上級生になった人は下級生の模範もはんになるように……』

 体育館から校長先生の声が聞こえてくる。話の内容は十分前から変わっていない。

 結論をいうと、僕は始業式をサボった。もっと細かくいうと、電車に乗り込んで席に座ったときに「あ、これ間に合わねえな」とあきらめた。自分でもダメな生徒だと思う。母さんに説教されることを考えると今からでもダルかった。今日の夜はネットカフェか漫画喫茶にでも行こうかな。夜の八時ぐらいだったら母さんは夜勤やきんだから家にいないだろうし。

 そんなことを考えながらタバコをふかす。今日はいい天気だから屋上は気持ちがいい。鉄の柵に背中をつけても冷たくないし、たまに風に運ばれた桜の花びらが飛んでくるだけだ。

 今、校舎には僕以外誰もいない。そう考えると変な気分だった。いつもは省吾と二人で来ているここも、今だけは僕一人だ。立ち入り禁止の屋上でタバコを吸ってる、なんてバレたら退学ものだけど。

 そこでまた、風が吹いて桜の花びらが飛んできた。何気なにげなく下に目を向ける。風で桜の木が揺れていた。さっきから飛んでくるのはそこの花びらだったのかと一人で納得する。

 うちの学校の裏には、何本かの桜の木とプランターがいくつか置かれている。どうやら園芸部の管轄かんかつらしく、部員らしき人たちが水やりしたり花の植え替えをしているのを屋上からときどき見かける。

 そんな裏庭に、一人の女の子が立っていた。こちらに背を向け、桜の木を見上げていた。

「……?」

 誰だろう。僕はその女の子の背中をじっと見つめる。わかるのは後ろ姿だけだ。背中の真ん中あたりまである長い髪。うちの制服を着ているということは、うちの女子生徒で間違いないはずだ。上級生か下級生だとしても、今は始業式の最中だから校舎には誰もいないはずなのに。……いや、僕がいえることじゃないんだけどさ。

 タバコの火を消して、僕は立ち上がる。そこで、ぎし、と鉄の柵が音を立てた。

 あ、やば。と思った。なにがやばいのかはわからないけど、焦ってしまってさらに柵が、ぎし、と鳴ってしまう。

 その音が聞こえたのか、下にいたその女の子がゆっくりと振り返って僕のほうを見た。

 そのとき確かに、その女の子と目が合った。

 彼女と目が合った瞬間。周りの時間がスローモーションになったような……そんな錯覚さっかくがした。風に流されていく桜の花びらも、風になびく彼女の髪も、自分の心臓の音すらもゆっくりになって……そして世界が一気にいろづいたような……そんな不思議な感覚。

 まるで目の前にかみなりが落ちてきて、視界いっぱいに眩しい光がはじけたみたいな……とにかくそのとき、言葉ではいい表せない感覚に僕は包まれたんだ。



『……というわけで、みなさんはここの生徒だという自覚をもって……』

 どれぐらいのあいだ、時間が止まっていただろう。ほんの数秒か。一分か。

 僕は校長先生の声でハッと意識を戻した。女の子はとうにどこかへと消えていた。

「誰だったんだろう……」

 僕は柵に背中をつけてその場に座り込む。なぜか心臓がドクドクと暴れていた。喉がキュッと締まってうまく呼吸ができない。ゆっくり肩を上下させて、なんとか息を整える。

「なんだこれ……」

 服の上から心臓を掴んでつぶやく。鼓動が段々と落ち着きを取り戻していく。

 このときのこれが一目惚れだというのを僕が知るのは、まだ先のこと。

 親友の恋が終わり、僕が――自分の気持ちを認めるときだ。




「お前さー、始業式からサボるとかやべえわ」

 隣の席に座っている省吾がそういう。

「……式が終わったあとの授業は来たじゃん」

 僕は唇を尖らせて、そういい返す。

「それでもやべえって。終わったあとの授業つったって、三十分ぐらいだけだったじゃん」

「……そうだけど」

「『なんで式に遅れたんだ?』っていってるときの担任、見た? めっちゃキレてたじゃん。そのあとのお前の言葉」

「……『道に迷ったおばあちゃんを助けてました』って?」

「そうそう! あれさー、俺、マジで笑いそうになるのめっちゃ我慢してさあ!」

 省吾は腹を抱えて大爆笑し始めた。

「このあとカラオケ行かない?」

「もっとさ、スカート短くしたほうがかわいいよ」

 なんていう派手な女子たちの声に混じって、

「……始業式から遅刻とかやばくない?」

「遅刻じゃなくてサボりらしいよ。やばいよね」

「やっぱりあんな派手な見た目してるから……」

 と、比較的大人しめの女子たちがひそひそはなしている。今日が始業式じゃなくて入学式だったら、僕は間違いなくこのあと不登校になっているだろう。

 今は式も終わってもう帰る時間だ。部活もないから残りたい人だけが教室に残っている。うちの学校は繰り上げ式だから、クラスの顔ぶれも去年とほぼ変わっていない。クラス表を見ても「あー、またか」って思うだけだ。さすがに幼稚園、小学校と中学校ときて、去年と今年。高校まで省吾と一緒のクラスだと、何らかの力が働いてるのかって感じるけれど。

「あーあー。笑った笑った。そうだ、このあとさ、どっか行かねえ?」

 笑いすぎて出た涙を拭きながら、省吾がそう聞いてきた。

「どっかって、どこ? 今はどこ行ってもうちの生徒でいっぱいだと思うけど」

「それはあとで考えるんだよ。来週記念日でさ、ちょっとプレゼント選びに付き合ってほしいっつーか」

「……あー、もうすぐ付き合って二年だっけ? よく続いてるよね」

「そこはほら、俺たちの相性ばっちりっていうか、そういうわけよ!」

「どういうわけだよ」

 僕は思わず突っ込んだ。省吾とは幼稚園からの付き合いだけど、たまに訳のわからないことをいう。あとプレゼントを選ぶセンスがない。正直にいって、顔と性格はいいのにとことん残念な奴だと思う。

「一目惚れ、ねえ……。本当にあるの?」

 疑いの目を向けて僕はいった。楽しそうに話していた省吾が固まり、周りをきょろきょろ見回し始める。そして口の横に手を当てて、小声で僕にいった。

「えっと……ひろごめんな。俺、彼女いるんだ……」

「お前じゃねえよ」

 すかさず突っ込む。僕を見てひそひそ話していた女子の集団が、なぜかザワザワし始めた。僕と省吾を見て「攻め」とか「受け」とかいっているのは聞こえないふりをする。

「……で、なんで急に? なんか奇跡が起きて彼女でもできたのか? それとも金払って彼女になってもらったとか……」

「そんなことしないし。ちゃんと健全な付き合いを申し込むつもりだ」

「『健全な付き合いを申し込むつもりだった。俺はやってない』などと供述きょうじゅつしており……」

「お前一発ぶん殴るぞ」

「腹ならえれる!」

「よーしわかった。顔にしてやろう。歯を食いしばれー」

「マジで殴ろうとするなって! わかったわかった! 俺が悪かった!」

 僕が軽く拳を作ると、省吾は慌てて降参のポーズをした。

「……それで、どうしたんだ?」

「そういや省吾、今の彼女に一目惚れして付き合い始めたっていってたろ? それ思い出して」

「ああ、なるほどね」

 僕の言葉も足りなかったけど、どうやら納得してくれたようだ。

「一目惚れって本当にあるのかなって思って」

「あるんだよ。俺も最初わからなかったけど、あれはすげえぜ。うまくいえないけどさ、すごいんだって」

「ふうん……」

 興奮気味に話す省吾の言葉を僕は適当に聞き流す。省吾はいつも興奮すると語彙力ごいりょくがなくなる。改めて、こんな省吾に二年も付き合っている彼女がいるのは奇跡だと思う。

「お前が一目惚れしたっていって相手を連れてきたら、俺、びっくりしてひっくり返っちゃうよ」

「昔のコントかよ」

「いやマジだって。お前さ、顔は悪くないのに性格がちょっと……いや、いい直すわ。かなり性格がクズじゃん?」

「いい直す必要なくね?」

「そんなお前に彼女できたら……まず金の関係を疑うわ。それか『なんか弱みでも握られましたか?』って聞くわ」

「そんなにか」

「そんなにだ」

 僕が真顔で聞くと、省吾も真顔で頷いた。




「まじめな話。お前さ、彼女とかどうなん?」

 とりあえず学校から出た僕たちは、ぶらぶらと歩いている。さきはあってないようなものだ。

「彼女ね……」

 僕はため息のように答える。

「今はそういうの、いいや。疲れるし」

「去年の冬に付き合ってた子は?」

「『私といても楽しそうじゃない』っていわれて、振られた」

「その前の、夏休み前に告白されたのは?」

「面倒くさくて連絡も返さなかったら、電話で『もう無理』って泣かれた」

「……高校一年になって最初のときのやつは?」

「……デート中に『香水のにおいがきついからちょっと離れて』っていったら平手打ちされた」

「だからあのとき、顔パンパンにらしてたのか……」

「そうだよ。まさか顔を殴られるとは」

 僕はため息をつく。「元気出せよ……」って省吾が背中をポンポンしてくれた。嬉しくない。

 なんでこんなアホなこいつに彼女ができて僕にはできないんだろう。コソコソタバコを吸ってるからかな? ……いやそれは普段まじめな反動であって、決して盗みとか暴力とかの犯罪行為は一切やってないし。

「……えーっと……。そんなに見つめられても、俺、彼女と別れるつもりないし……」

「そうじゃねえよ。ガチで照れんな」

 すかさず突っ込む。僕らはいつもこんな感じだ。

 そこでふと、始業式に見た女子生徒のことを思い出した。

「……なあ、始業式って生徒全員来てた?」

「うん? なんだよ急に」

「いやさ、屋上にいたとき、女の子を見てさ。うちの生徒だと思うんだけど」

「あー」

 と、省吾は声を漏らした。どうやら思い当たることがあるみたいだ。

「でもうちは繰り上げ式だから一年のクラスのままだろ? 見たことない子だったから誰だったのかなって」

「多分それは、『秦野はたの先輩』だな」

「ハタノ先輩?」

「うん。俺も体育館に移動するときに三年が話してるのを聞いただけなんだけど、三年にはその『秦野先輩』っていう人がいるらしい。その人、もう二回も三年生なんだってよ。今年で二回目。なんか、みんなが授業してるあいだも園芸部の部室にいるんだってよ」

「ふうん……」

 屋上から見た女子生徒……『ハタノ先輩』の姿をもう一度脳内に思い起こした。

 長くてきれいな黒髪と大きな目。大人しくて静かそうなイメージだったけど……。あの人、留年してるのか……。

 そんなことを考えていると。

「あれ、拓輝じゃん。始業式もう終わったの?」

 と、前から聞き慣れた声がした。顔を向けると、僕のねーちゃん……佐倉さくらおりが立っていた。

「省吾くんも一緒か。こんにちは」

「こんにちは志織ねーちゃん。今日大学は休みなんすか?」

「午後からの授業はとってないのよ。だから休みといえば休みだね。あ、たこ焼き食べる? ちょうどそこで四つ買ったんだけど」

「いただきます!」

 二人はさっそく話し込んでいる。昔からの付き合いだからもう慣れたもんだけど……僕にも食べるかどうかは聞いてほしいな。

「ちょっとねーちゃん、そういうのは弟である僕にも聞いてほしいところだけど」

「はいはい。あんたのもちゃんとあるよ。こっちね。今食べる?」

 ねーちゃんは持っている袋を見せてきた。さっき省吾と「どっかで昼でも食うか」って話していたところだからありがたい。だけど、この辺は座る所がないから今はいいかな。外で食べるのも寒いからいやだし。

「いや、あとで食べるよ。それで、ねーちゃんはなんの用なの? たこ焼き買いに来ただけ?」

「ちがうちがう。ちょっとね、通院してる友達の付き添いっていうか。そんな感じ」

「付き添い?」

「うん。検査が終わったらたこ焼き食べたいって電話でいわれたから、あんたらの分もついでにね」

 僕はねーちゃんの手にある袋に目を向ける。確かに袋の中には三人分の船が入っている。僕の分とねーちゃんと……その人の分だろう。

 ねーちゃんは去年まで僕の通っている高校にいた人間だ。僕と違って友達も多かったし、当時は部活動の助っ人もたくさんしていたらしいから、その友達の付き添いっていうのも、そういう繋がりの誰かなんだと思う。

「あんたらはどこ行くの?」

「俺らはその、ぶらぶらしてるだけっす。拓輝にプレゼント選び手伝ってもらおうかなって思ったんですけど……」

 ハフハフたこ焼きを食べている省吾がそういう。そこでピロン、と音がした。省吾は「あ、すいません」といってからスマホを見る。こういうところはちゃんとしている奴なんだ。

「……っと、ごめん拓輝。今からちょっとデートしてくるわ。また明日な! たこ焼きありがとうございました!」

 若干早口でそういうと、省吾は手にたこ焼きの船を持ったまま走り去っていった。

「……あの子、彼女いるんだ」

「そうなんだよ。顔がいいからね」

「あんたもさ、早く彼女作りなよー。顔はいいんだから」

「僕は性格で選んでくれる人と付き合いたいんだけど」

「あ、それは無理。絶対ない。そんな人を連れてきたら、お姉ちゃんびっくりしてひっくり返っちゃうよ」

「そうですか……」

 どこかで聞いたような台詞せりふだ。

 ともあれ省吾との予定がなくなったので、僕はねーちゃんに付いて行くことにした。今から家帰っても暇だし、なにより母さんと鉢合はちあわせる。始業式に遅刻してそのままサボった身としては、それはものすごく面倒くさい。




 消毒液の匂い。きれいに掃除された白い廊下。白衣を着た医者と看護師さん。

 病院は少し苦手だ。一番苦手なのは消毒液の匂いだけど、それに混じる人のにおいと受付のザワザワする感じもあいまって、僕は病院という場所全体が苦手である。何度ここに来ても慣れない。

「じゃ、あたしはちょっと付き添いの子の話聞いてくるから。あんたはどこにいる?」

「ちょっとタバコ……じゃなかった。ジュース飲みたいかな……」

「あ、そう。喫煙所の近くなら自販機があるかもね。終わったらメッセージ送るから。一人で大丈夫?」

「子供じゃないんだから大丈夫だよ」

「あっそ。じゃあねー」

 ねーちゃんはそういうと受付のほうへ行ってしまった。僕も背を向けて自販機……もとい喫煙所を目指す。途中の案内板で場所を確認し、この病院には喫煙所が三か所あることがわかった。三階に一つと受付から離れた場所に一つ。あとは……一階の中庭か?

 パタパタ忙しそうに走っている看護師さんの横を通り、まずはエレベーターで三階に行ってみる。箱が到着して扉がひらいた瞬間、

「ちょっと一服いっぷくどうですか?」

「いいですねぇ。あれ、銘柄変えたんですか?」

「そうなんですよ。家内かないがタバコくさいって怒るもんで」

「見舞いに来てくれるだけいいじゃないですか。うちなんて……」

 と、入院着を着たおじいちゃんたちがぞろぞろ左から右へと流れて行った。喫煙所に向かっているんだろう。僕はため息をつき、そのままボタンを押してエレベーターの扉を閉めた。

 一階の受付近くも同じように人でいっぱいだった。疲れた顔のサラリーマン。くたびれたおじさん。おじいちゃん。濃い化粧をした女の人、電話しながら二本目に火をつけている男の人。さすがに、制服のままでその中に混ざる勇気は僕にはない。僕は二度目のため息をつき、家まで我慢するかとその喫煙所に背を向ける。



 歩きすぎて足が疲れた……。なんでタバコ一本吸うのにこんなに歩かなきゃならないんだ。まぁ……「タバコやめろ」って話だけどさ。そして当然ながら、ここは病院だからどこに行っても人がいる。手を引かれながら一生懸命歩いているおじいちゃん。「この病室に行きたいんですけど」と看護師さんに聞いているおばあちゃん。「ありがとうございました」って何度もいっているおばさんとその家族。僕はウロウロしているあいだ、もれなくその全員からの視線をびることとなってしまった。目立つのは制服を着ているからだけじゃないんだろうけど。

 僕をちらっと見てはひそひそ話している人たちの横を通り過ぎる。実をいうと、僕は人からじろじろ見られることも苦手である。それをいうと、省吾には「じゃあ髪なんか染めるなよ」といわれ、ねーちゃんには「あんたそんな見た目してんのに?」といわれる。そういわれたときは決まって「ほっとけ」と二人には言葉を返す。

 とにかく、そういうこともあって僕は人込ひとごみにはなるべく行きたくない。省吾がいなきゃ間違いなくこもりになっていただろう。本当は家から一歩も出たくない。ただ、髪を染めたり服の組み合わせを考えたりすることは好きなので、自分の物を買うための外出は誰よりも準備が早かったりする。省吾との待ち合わせも一時間前には先についている。我ながら本当に面倒くさい性格だ。

 と、そんなことを考えているといい感じのベンチを見つけた。近くには灰皿が置かれている。しかも、そこでタバコを吸っている人は誰もいない。

「……」

 そこのベンチに座ろうかと一瞬思うが、なにか勘違いされるといやなので他の場所はないのかとあたりを見回してみる。なんかもう、タバコ吸うとかもどうでもよくなってきたし。今は座って休みたい気持ちのほうが大きい。

 キョロキョロしていると、建物の影に隠れているベンチを見つけた。影に隠れて半分しか見えないが、見た感じは誰もいないように見える。僕はやっと座れるかと、疲れた足に気合を入れてそこに向かう。人と話すのがそれほど得意じゃない僕にとっては、ちょうどよさそうな場所だ。

 そこへ行く途中、次第に建物の影で見えていなかったベンチのもう半分が見え――

 ……うわ、マジかよ。

 そこにはすでに先客がいた。思わず僕の足が止まる。

 座っているのは髪の長い女の子だ。制服を着ているから僕と同じ高校生かもしれない。下を向いてなにかを読んでいる。

 もちろん僕は初対面の人の隣に座る勇気など持ち合わせてはいない。あきらめて建物の中に戻るべきか。それともさっきのベンチで我慢するか……どうしよう。ねーちゃんに「大丈夫だよ」っていった以上は、『まだ?』って僕から連絡するのはなんだかしゃくだな。

 というかこの子……屋上から見た子だ。確か名前は。

「……『ハタノ先輩』?」

「はい?」

 女の子……『ハタノ先輩』は顔を上げて僕を見た。控えめにいっても、その……美人だなと思った。ぼんやりとした大きな目と整った他のパーツ。クラスにいる女子とは違う雰囲気を感じた。

「あの……なにか?」

「あ、えっと……」

 彼女にそういわれ、僕は焦ってしまう。声に色がつくなら、きっとこの人の声は透明だろう。それぐらいきれいで、すぐ他の音に消えそうなほど細かった。

『ハタノ先輩』の大きな目が、僕の顔をまっすぐに見つめている。

「あなた……」

『ハタノ先輩』は僕を見て、こういった。

「あなた……私と、どこかで会ったことありますか?」

「……え?」

 意外な言葉だった。屋上で目が合ったのは今から数時間前のことだ。あのとき、彼女も僕のことに気がついていたはずだ。

 それなのに。

 彼女は本当に僕のことがわからない顔をしている。どういうことだろうか。

「あ、えっと、僕は……」

 始業式をサボって屋上でタバコを吸っていたとき、あなたを見ました。と正直にいえばいいのだろうか。……いや、明らかに怪しい。そもそも彼女に「私と会ったか?」と聞かれても微妙なところだ。僕は彼女と話してもいないし、もっというと目が合っただけだし。

「……」

 言葉が出ない。自分でもわかる。今の僕は明らかに不審者ふしんしゃだ。彼女は大きな目で僕を見つめて、ただ静かに僕の言葉を待っている。

 やめてくれ。そのまっすぐな視線が痛い。僕は思わず顔を地面に向ける。視線を向けられると、なんだか刺されているように感じてしまってうまく話せなくなる。つくづく、人付き合いには向いてない人間だなと自分でも思う。

「あ……ごめんなさい。そろそろ行かなくちゃ」

 突然、彼女はそういいながら立ち上がった。そのとき、彼女の手にある本のようなもの……どうやら小さなノートだったらしい……のページに書かれている文字が目に入った。


『私の名前は ハタノツムギ

 病院で急にわからなくなったら看護師さんを探す。それか、スマホの電話帳の一番上にある子に電話する。自分の名前を言えば大丈夫』


 どういうことだろう。それを考えていると彼女はそのノートをパタンと閉じた。

「それじゃ、また」

 そういうと彼女は病院の中に戻って行った。

 多分ノートに書かれていたのは彼女自身の名前だ。でも、どうしてだろう。自分の名前を書いておくなんて何か理由があるのだろうか。

 三十分後。ねーちゃんから『もう帰るよ』とメッセージが送られてくるまで、僕は彼女がいたベンチに座ってうーんと考えていた。




「あれ、どうしたの。そんな難しい顔して」

 病院からの帰り道。ねーちゃんが僕にいってきた。

「なんかなやごと? タバコ吸ってるのがバレた、とか」

「それはまだバレてないけど……」

「あ、そう。バレたらいろいろと面倒くさいんだから、そこは気をつけてよね」

「わかってるって……」

「うん。それで、なんかあった?」

「……」

 先輩のことを、彼女が持っていたあのノートのことを、いうかどうか僕は少し迷う。

「……ねーちゃん、病院で誰に会いに行ったのかって……聞いてもいい?」

 まよったすえに遠回りの質問しかできなかった。こういうときに一発で聞けない自分の性格にちょっとうんざりする。

「友達だよ。女の子」

 と、ねーちゃんはいった。

「……それだけ?」

「ん? それだけだよ。なに?」

「あ、いや、えっと……」

「そんなに気になるならあんたも会ってみる? 多分……嬉しいと思うよ」

「そう、かなぁ……」

 女の子にはいい思い出がない。それもあるし、正直、性別も違う相手とどう関わっていいのかわからない。

「今度ね……」

 情けないことに、僕はそう返事するしかできなかった。




 次の日。僕は遅刻もせずに朝のホームルームからきちんと席に座っていた。なんなら教室に入ったのが一番乗りだった。チャイムギリギリで登校してきた省吾に、

「おっ。今日はサボりじゃねえのか。めずらしい。雨でも降るんじゃね?」

 といわれたので、とりあえずあいつにはあとでパンチを食らわせておこう。

 ともあれ、久しぶりに早起きしたのでちょっと疲れた。担任が来るまで休憩するかと僕は机に突っ伏し――チャイムが聞こえたので机から顔を上げると……あっという間に昼休みになっていた。教室内にはわいわい楽しそうに話している女子と、数人の男子がグループになって弁当をつついたり購買のパンをかじっている。

 どうやら誰も僕を起こしてくれなかったらしい。目をこすりながらスマホを見ると、『俺、今日は放送部の打ち合わせあるから昼飯は部室で食うわ』と省吾からメッセージが入っていた。おい省吾、そういうまじめなところがあるなら、僕を起こしてくれたっていいだろうが。

「……弁当……忘れたな」

 がたりと椅子から立ち上がると、近くで机を向かい合わせていた女子の一人がびくっと体を跳ねさせた。なにもしやしないのに。そういう反応をされるのはちょっと傷つくぞ。

 わいわい楽しそうに話しながら昼食をとっている男子グループの横を通り、廊下に出て一階の購買へと向かう。 

「あ、始業式からサボったっていう……」

「あの髪やばいよね……」

「ピアスもめっちゃ開けてんじゃん……やっばぁ……」

 廊下を歩いているだけで、そんな女子たちのひそひそした声が聞こえてくる。もう慣れたもんだ。

 確かに僕は学生服の下にパーカーを着てるし、制服のボタンは一つも閉めてない。髪もちょっと青いぐらいで、両耳合わせてピアスを六個してるだけだ。うちの学校はそんなに校則が厳しくないからこれぐらい普通だろう。違反してるのはたまにタバコを吸ってることだけだ。それを抜いても、もっと派手な化粧をしてる女子たちだっている。それに比べたら、髪がちょっと青くて制服を着崩きくずしてるだけで、僕はなにも校則違反はしてない。病院に行ったときといい、どうして廊下を歩くだけでそんなにひそひそいわれなくちゃいけないんだろうか。

「おい、佐倉さくら! 佐倉さくらひろ!」

 と、遠くから僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。周りにいる他の生徒たちの視線が一気に僕のほうへ向く。廊下の真ん中で足を止めて振り返ると、担任がネクタイを揺らしながら僕に向かって走ってきていた。

 担任は僕の前に来ると、ぜえぜえ肩を上下させて呼吸を整える。三十代なんだからあんまり無理しないほうがいいのに……。

「先生、なんすか? 廊下は走っちゃダメっすよ」

「なんすか、じゃない! 敬語を使え! お前のその頭こそなんだ⁉」

 担任はびしっと僕の頭を指さした。

「黒に染めてくるよう三日前にいったよな⁉ なんでやってないんだ」

「あー……めんどくさ……いや、えっと金がなくて……」

「お前なぁ……!」

 担任は頭を抱えてしまった。周りをきょきょろして膝を折り、僕と目線を合わせると小声でいった。

「お前な……いくら校則がゆるいからって、その頭はダメだ。俺が生活指導の先生に怒られるんだ。三十四にもなって怒られる俺の気持ちも考えてみろ。俺が可哀想かわいそうだと思うだろ?」

「確かに。その歳で彼女の一人もいないのは可哀想だと思います」

「そうじゃねえ……! 彼女がいないのは出会いがないからだ……! 出会いさえあれば俺だって……」

「先生。女子生徒に手を出すのは犯罪ですよ」

「それはちゃんと卒業してから付き合う……じゃなくて! とにかく明日までにその髪なんとかしておけよ。金は神宮じんぐうにでも借りろ」

「省吾はデートのしぎで金欠きんけつらしいっす」

「そうか……。うらやましいな……。俺もデートとかしてえよ……!」

「ねーちゃんだったら紹介できますが」

もとおしと休日にデートするのはアウトな気がするし俺の良心りょうしんえられない」

「で、本当はいつまでに髪色を戻せばいいんすか?」

「これはただの独り言だが、来週の金曜日が職員会議なんだ。うちのクラスには派手な子がいっぱいいるけど、特に目立ってる男子生徒がいるからなー。髪色を戻せっていっても直さない、髪が青い奴がいるからなー。そのままだとそのことをいわれるかもしれないなー。怒られるのいやだなー」

「了解っす。来週の金曜日までに戻せばいいんすね」

「ただの独り言だ。ともかく、本当に頼むぞ」

 担任は僕の肩をポンポン叩いた。今年で三十四になる担任が禿げてる生活指導の先生にペコペコ頭を下げているのを想像したら……ちょっとおもしろいな。

「……おい、なにニヤニヤしてんだよ。俺が怒られてるの想像して、ちょっとおもしろいとか思っただろ」

「まったくもってその通りっす」

「そうか……」

 担任は長いため息を吐き出した。それからもう一度周りをきょろきょろして、僕にいった。

「このままかえすのもなんかアレだから、えーっと、園芸部の手伝いにでも行ってこい。さっき加賀見かがみ先生が肥料ひりょうとか運んでたから」

「昼飯まだなんですけど……」

「俺もまだ食ってない。手伝ったら加賀見先生がケーキとかくれるかもしれんぞ。園芸部の部室には冷蔵庫もあるからな」

「なんでそれ知ってんすか? 先生の授業がやたら自習多かった理由って、まさか……」

「いっておくが、別にサボりの目的で園芸部を手伝っていたわけじゃないぞ。大人はこうやって息抜きするんだ。いっておくがサボりじゃないぞ。お前らのためだ。お前らのために自習にしてたんだ。サボりじゃないぞ」

 担任は念を押すように僕の肩を両手でぐっと押さえた。

 来た道を戻って行く担任の背中を見ながら、大人って大変なんだなって思った。




 校舎裏にある花壇に行くと、スコップを片手にしゃがんで作業をしている女の人がいた。倫理りんり担当と園芸部の顧問である加賀見先生だ。三年生の担任でもある。授業をする格好じゃなくって、まさしく庭いじりをするときみたいな格好で全身を固め、軍手をはめて日よけの帽子までかぶっている。

「あら、佐倉くん。どうしたの?」

 額の汗をぬぐいながら加賀見先生が振り返る。少し太った体をした上品な先生だ。歳は『秘密』で三つ年上の旦那さんと中学生になる息子がいるらしい。

多岐たき先生から手伝うようにっていわれて……」

 多岐先生はさっき会った僕のクラスの担任のことだ。多岐たきみつる。三十四歳。担当教科は数学。一年前に彼女に振られたらしい。クラスの女子たちは担任のことを「みっちゃん」などと呼んでいる。

「手伝いに来てくれたのはとても嬉しいけど、お昼休みなのに大丈夫?」

「それは大丈夫っす。購買も人がいっぱいだったんで」

「あらそう。あとで行こうと思ってたけど……その調子だとパンも残ってなさそうね……」

 人がいっぱいだった、というのはうそだ。購買には行ってすらいない。本人を前に、加賀見先生のケーキ目当てで手伝いに来たんで、なんていえるはずもないし。

「それじゃあ軍手とスコップは部室にあるから取ってきておいで。制服も脱がなきゃ汚れちゃうわよ」

「わかりました。ちょっと行ってきます」

 僕は近くにある『園芸部』というプレートがついた小さな建物の扉を開ける。

 事務机といくつかの椅子。すみにあるのは冷蔵庫だろうか……それらが置かれている園芸部の部屋に――あの人がいた。

『ハタノ先輩』は椅子に座って静かに書き物をしていた。

「あ……」

 僕に気づいた『ハタノ先輩』は、長い髪を耳にかけながら僕のほうを見た。

 ぼんやりとした大きな目と整った顔立ち。屋上から目が合ったときと病院で見かけたとき。そのときからなにも変わっていないように見えた。……髪を切ったとかならまだしも、たった一日でそこまで外見が大きくは変わらないだろうけど。少なくとも、僕から見て彼女は昨日と同じに見えたんだ。けれど――。

「初めまして。入部希望者ですか? 加賀見先生なら今、外で作業をしているんですけど……」

 彼女は僕の顔を見て……そういったんだ。

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