願い

 その日は、五月とは思えない蒸し暑い日だった。山河は午前八時を指す時計を眺めながらリビングで冷水を飲んでいた。火照った体内が急速に冷やされていく感覚は顔をほころばせた。


 この日も山河は学校へ登校しなかった。昨日殴られた傷が癒えていないのも理由の一つだが、それ以上にクラスメイトの前で平静を保てる自信が無かったからである。男である以上、かっこ悪いところを見せたくない。そんなエゴが山河の心の中にあったのである。


「けど、このままじゃいけないよなぁ」


 山河はそう呟きながら水でコップを洗った後、銀色の桶に入れる。冷えた手をタオルで拭いた後、自室に戻る。扉を捻りガチャリと扉を開けた後、山河は自らのベッドに直行した。


 このままではいけないと山河自身も理解していたが、体は正直だった。

 スマホゲームをやる気力や勉強をやる気力、飯を食う気力すら湧かなかった。舞原が居なくなったことによる心の傷は山河が思っていた以上に深かったのである。


「どうすれば、いいんだろう」


 ポツリと一言呟いた後、山河は眠りについた。


 次に山河の瞳がとらえたのはスクリーンの中で走っている男だった。男は何かを呟きながら傷だらけの体で必死に走り続けている。鬱蒼とした森の中を走っているため正確には分からないが、何かに追われているような様子だった。


 数十秒経過した頃、男が唐突に転んだ。直後、無声映像の音楽が転調する。コミカルに刻まれた音楽が男の必死な形相と異なりユーモアを誘う感じになっていた。

 男の顔がどんどん大きく表示されていく中で、唐突に映像が切れる。


「楽しんでいただけましたか?」

「うわっ!!」


 同時に隣から声が聞こえてきた。山河が驚きながらも距離を取り人物を視認する。背丈百五十程度の小柄な人物が山河の隣席に座っていた。

 ローブを羽織っているが声色から女性ではないかと推測出来た。


「この無声映画、私が初めて作ってみたんです。楽しんでいただけましたか?」

「いや、あんまり楽しめなかったかな」

「そうですか……それは、残念ですね」


 山河が正直に返答するとローブを纏った女が下を向く。か細い溜息が聞こえた後、ローブの女が立ち上がり、山河の方を見る。


「一つ、質問させてください。もし一つ夢が叶うとしたら何をしますか?」


 唐突な質問に対し山河は答えることが出来なかった。会話の脈絡があまりにも無いからだ。ローブの女は山河の理解を無視し言葉を続ける。


「私の夢は、笑わせることです。笑ってくれる方がいたら嬉しいですからね。例えば、こういうのはどうですか?」


 ローブの女が両手を合わせた途端に映像が切り替わり、花畑で笑っている少女が映される。その少女を見た途端、山河は映像から目を離せなくなった。彼にとって一番大切な人が笑って生きていたからだ。


「香音! 分かるか、俺だ! 山河だ!!」


 山河は画面に右手を押し当てながら大声を出す。そんな山河のことに気が付いていない様子の香音は一人でお花を眺め続けていた。数秒で山河は声を荒げることを辞めた。彼女が動いている。それだけでも彼にとってはとても嬉しいことだったからだ。


「笑顔、浮かべてくれましたね」

「あぁ、ありがとう。良い夢……いや映像を見せてもらったよ」

「先程の質問をもう一度させていただきます。もし夢が叶うとしたら何を願いますか?」


「俺は――香音と一緒に生きていきたい。五年後も、十年後も、二十年後も――一生一緒に生きていたい」

「なるほど、それが貴方の願いですか。ずいぶんまぁ、ロマンチックですね。でもそういう夢の方が丁度いいですね」


 ローブの女は山河を見つめ一言呟いた。


「私が提示する条件はたった一つ。”AZUSAの悲劇”を潰してください」

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