第19話 燃える灰 3

 全身を覆う黒は、霧によるものではない。その大きな体は錯覚などではない。その存在は現実である。現実に存在する悪夢、恐ろしい化け物がそこにいた。


まず最初に目に入るのは顔。グチャグチャにかき混ぜたようなその顔は、かろうじて目だけが唯一認識できる部位である。


強調されたその目は、より不気味で、睨まれればその場から動けなくなってしまうだろう。


体は黒い毛に覆われており、魔獣のような見た目をしている。そこから伸びる右腕は長く、筋肉質で、強さと不気味さを感じ取ることが容易い。


その逆に、左腕は人のそれでしかなく、強さこそ感じられないものの、右腕との不均一さが一層不気味さを際立たせている。


そんな不均一な上半身を支える両足は人間の足であり、右腕の重さに震えているようだ。


「それが…月喰げっしょくか。そんなものを許容できるなんて…狂っているな。」


カイナの頬を汗が伝う。霧の晴れた箇所からカイナの姿を認識したレインがニタァっと笑う。


「狂ってなどいません。私は月に尽くしているだけです。あなた方が民の守護に尽くすように、負けられない戦いに死力を尽くすように、この空を雲が覆い尽くすように、それは当たり前のことなのですよ。ただ理解し合えないだけなのです。人が異物と捉える多くは、いつも理解の外側からやって来ます。それを受け入れれば世界が広がるということを、あなたには知っていただきたい!」


その言葉と共に、真っ黒な風の槍をカイナへと飛ばす。


カイナはそれを避ける事なく、真正面から叩き斬った。


「見聞を広めることは良いことだ。しかし、危険思想で広げられる世界など、百害あって一利無し。認めることなど無い。」


風だけでなく、レインの言葉までも斬り伏せた。会場に蔓延していた霧は徐々に晴れていった。カイナの視界が先程よりも確保され、その視界に、会場の隅で立ち尽くす青年を捉える。


「な、一般人…!?」


カイナが驚いた声を上げ、それにレインも気付く。


「おやおや、あの霧の中で動けたのですか。光色の力の持ち主か、それとも魔力量がそもそも低いか…。まあ、どちらでもいいでしょう。喰ってみればいいのですから!」


膨張した右腕で地面を蹴るレイン。凄まじい勢いで、会場の壁に寄りかかるユウヒへ迫る。


ダンダダン、ダンダンダダン


両腕両足を使って移動するレインの歩行は不規則なリズムで音を鳴らし、黒い霧を払い、砂埃を上げている。


「しまった!」


カイナは、レインが地面を蹴ってから数秒遅れて、そちらの方へ走り出す。


未だに視界がゆらりと揺れ、安定しないユウヒが、レインの襲撃に気付いたのは、カイナの反応よりも後だった。


「…あ?」


そんな間抜けな声を上げて、寄り掛かっていた壁を思い切り押し、自立する。


「避けろ!魔力を喰われるぞ!」


そんなカイナの叫び声が聞こえ、レインがユウヒに飛びかかる。


ふらつく足になんとか力を入れ、ユウヒは回避行動をとる。


飛びかかる化け物の足下、正確にはユウヒから見て北東に向かって思い切り飛び込む。


ユウヒが飛び込んだと同時に、先ほどまでユウヒの寄り掛かっていた壁が大きな音を立てて破片を散らす。レインが壁に衝突したことによる現象であるが、その衝撃により、飛び込んだユウヒが吹き飛ばされる。


「ぐわっ!」


宙を舞うユウヒをカイナが左腕で受け止める。


「よく躱したな。大丈夫か?」


倒れかけるユウヒを抱き抱えるような形で、カイナが声をかける。


「あ、あぁ、まあ、なんとか。あいつは?」


先ほど自分のいた場所の惨状を眺めながら、ユウヒは答える。それと同時に、あの化け物は何なのか、カイナへ問いかける。


「決勝を台無しにした『月』の衛星だ。」


(じゃあ、そいつがあんな化け物になったってか?さっきのハゲももしかして…)


スノウが最後にしようとした行動を思い出す。もしかしたら、あんな化け物になっていたのかもしれない。そんなことを考える。


(いや、今はこっちに集中だ!)


ユウヒはカイナの腕から離れ、立ち上がる。


さっきの衝撃のおかげか、ユウヒの体は少しは安定してきたようで、ふらつく感覚は感じられないようだ。


「君、名前は?」


「…ユウヒです。」


カイナの質問から2秒ほど遅れて答える。


「ふむ。では、ユウヒ。何故君がここに?一般人は避難したはずだ。」


当然の疑問をカイナは投げかける。この疑問は騎士団にとってはとても重要なことである。仮に、興味本位でユウヒがこの場にいるのなら、一般人の避難誘導自体には問題は無い。ユウヒ1人を注意すればいい。


しかし、その避難誘導に問題があったのなら、それは騎士団の失態である。騎士団の仕事は民を守ること。今回の作戦は、民を危険に晒すものであるが、それは町の被害を最小に留めるための苦肉の策。その代わりに会場の一般市民は絶対に安全に避難させるという決意を彼らはしていた。


それは、とても簡単なことではないが、彼らが自分らの実力を信じ、誇りを持っていたからこそ決意出来たことなのだ。故に、ユウヒへ投げかけられた質問の返答によっては、騎士団の今後が左右されるかもしれない。


…ユウヒはそんなこと分かってはいないだろうが。


ユウヒが返答しようとしたそのとき、黒風の槍が飛んできた。ユウヒとカイナはお互い反対の方向へ回避し、槍を逃れた。


カイナは会話の邪魔をしたレインに剣を構える。


「ユウヒ!話は後だ。今の回避で、君がある程度戦えることがわかった。本来なら、私は君に避難を促さねばならない立場にあるが、恐らく奴は君を逃がさない。今は、背中を向けることの方が危険だ!言いたいことは分かるな!?」


ユウヒの背筋がビリっとした。騎士団の副団長が共闘を?


(ヤイチなら喜んだだろうな。)


「分かりました!足手まといにはならないので安心してください!」


ビシッと背筋を伸ばして答えるユウヒ。


「期待はしていない。危なくなったら、全力をもって逃げろ。倒そうと思わなくていい。時間稼ぎが出来ればいいんだ。」


カイナは、共闘なんてものは望んでいない。ユウヒがユウヒ自身を守るために戦うことを望み、そして、ユウヒの隙を自分が埋めつつ、レインを倒すための一撃を繰り出すための準備をする。ユウヒに望むことは、ただ生き延びることのみだった。


時間稼ぎが出来ればいい、とカイナは言っているが、きっとこれはユウヒに対して、ささやかに期待していることを伝えるための言葉に違いない。ユウヒを戦力外として見てはいないという、表面的な、優しさ故の期待。


その程度にしか、カイナはユウヒを見ていないということである。


対するユウヒは、そんなカイナの意図が伝わるどころか、言葉すら聞いていなかった。


(あのハゲは気絶しちまったからな。『月』のこと、奴の掌のについて、聞けるのはこいつしかいない。)


拳を握り、戦闘態勢に入る。ユウヒは、この闘いに勝つつもりでいる。


「あー、貴方、魔力切れですよねぇ?すれ違い際に風で触りましたが、全く魔力を奪えなかったので。そんな方が私と戦って生きていられますかねぇ?」


魔力切れ。その言葉を聞いて、カイナの表情が強張る。


(やはりそうか。元より期待する気はなかったが、魔力切れか。)


カイナがチラリとユウヒを見る。ユウヒの目は真っ直ぐレインへと向けられている。魔力切れを見抜かれても、動揺の一つもしない。そればかりか、今にも突っ込んでいきそうなくらいの気迫である。


魔力無しでも闘志が萎えないユウヒを、カイナは不思議と大丈夫な気がした。おかしな話だ。共に戦う味方が、力を使えない者だと知ったことで安心を覚えるなんて。


期待しなくて済むから、という安心ではない。彼は元々期待などしていない。だからこそ、おかしな話なのだ。


レインは、こちらに向かってきそうなユウヒをニヤニヤと見ている。グチャグチャの顔面が更に歪む。


「愚かです。非常に愚かです。副団長、貴方のせいですよ?貴方のせいで、彼は闘うことを決めてしまったのですから。そして、死ぬことが決まってしまったのですから。」


右腕に力を込め、更に闇の風を周りに発生させる。迎撃の準備は万端、だというのに、ユウヒはそのど真ん中、レインの顔面を睨む。


「死ぬことが決まっている?ふざけんなよ?俺は負けないし、死なない。でっかい目的が出来たからなぁ!」


魔力切れのはずのユウヒから熱を感じる。


カイナが、ユウヒがど真ん中に突っ込もうとしていることに気付き、慌ててユウヒを止めに行く。


「よせ!」


手を伸ばすが、ユウヒまでは距離がある。カイナが一歩目を踏み込む。


ユウヒの体が沈む


レインの右腕が軋む。


ユウヒの周りを陽炎が揺らぐ


黒風がユウヒに向かって飛ぶ。


そして、ユウヒが唱える




「―燃える…灰に―」




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