第16話
湯上がりには浴衣が用意されてました。
「このほうが風情あると思て」
冴子はそう言うて笑いましたけど、うちとしてはちょっと困りましたね。当時うちは自分で着付けが出来へんかったんですから。
「ほんならうち、着せたげるわ」
冴子が浴衣をかけてくれて、帯を締めるのにうちの体に何回も腕を回しました。
その間、普通に話をしてたけど、うちはなんや甘酸っぱいもんが胸に込み上げてきてました。
やっと裸やなくなっていく安心感と、あの子の腕が何回もうちの体に巻き付く緊張感。真逆の感情みたいやけど、あの子に着せてもらうことで冴子に包容されていくような、そないな安堵感てイメージ出来ます?
花火のために縁側から庭へ出ると、ちょうど陽ぃが傾き始めた頃で、暑さも多少ましになってた。遠くの空が夕焼け色に染まってヒグラシの声が響いて、ちょっと物悲しいような、ええ雰囲気になってきてました。
冴子のお母さんが蚊取り線香と、スイカの切ったんを持ってきてくれました。
「これお上がりなさいね」
言うて、庭の木が影絵みたいに浮かび上がってるんを見て、
「ああ、ちょっとまだ花火には早い時間やろか。でもまあ始めたらええわ。今日は風もないし……ヒグラシもよう鳴いて」
お母さんはそこへ膝をついて表を眺めはりました。花火をするのんに縁側から続く座敷の灯りは、行灯みたいな形のスタンドぐらいに抑えてあったんやけど、そのオレンジ色の灯りを受けたお母さんは幻想的でねぇ……。冴子よりもねっとり濃い感じやの。
そしたらそこへ、美冴、美冴、呼ぶ声が聞こえてきて。どうやらお父さんの仕事部屋からのようやったわ。
「あん、もう、またやわ」
お母さんがちょっと呆れたみたいにそっちを見て言いました。
「何なん?」
冴子が聞くと、
「ほらお父さん、月曜日から取材旅行や言うてたでしょ? あれが急に明後日の出発になったんやて……」
「ええ……なんで? せっかくいずみちゃん来てるのに」
「なんでかは知らんけど、そうなったんやて。先方さんの都合なんやろか。いずみちゃんにはゆっくりしていってもろたらええんよ」
お母さんはそう言うて、廊下をパタパタとお父さんの部屋の方へ行きました。
冴子はちょっとの間、お母さんの後ろ姿を見送るみたいにしてましたが、お母さんの足音が聞こえへんようになるとこっちを向いて、
「しよか、花火」
言いました。
花火は普通に楽しめました。浴衣着て花火いうんがまた、ちょっと日常から解放されたみたいな気分にしてくれて、お風呂で直面したドキドキ感も紛れて平常心でいられました。
そう、いられたんやけど……。
うちらがそうやって花火してる間にも、お父さんがお母さんを呼ぶ声が何度か聞こえてましたわ。その度に、はいはい、言うて廊下を行くお母さんの気配があって、その度に冴子は頭はこっちに向けたまま、目ぇだけでそっちを気にしてる風やったの。身はここにあるのに気はそぞろやねん。
うちはそれが気になったから聞いてみたんよ。
「冴子のお母さん、さっきからお父さんによう呼ばれてるな」
すると冴子はうちの方は見んと、しゃがみこんで線香花火の導火線を蠟燭の火に差しながら、
「お父さん、出張行く前はいっつもあんなんやねん。お母さんのこと何回も部屋へ呼びつけるねん。荷造りもお母さんがおらんとようせえへんねんで。荷物のこだわりも強いさかいに、『美冴、あれはどうや』、『これはどないや美冴』とか聞くくせに、お母さんが何か言うと『いや、それやないわ』とか言うねん。そないな調子やから、前の晩にちゃちゃっと荷物詰めるいうことは出来へんの。下着がどんだけ要るかとか長袖は要るかとかを何回もやんねん」
そしてから、もう引火した線香花火の、チラチラと舞う火花をひたと見つめながら、
「お父さん、お母さんのことが大好きやねんで。うちが小さい時に、恋女房なんやて聞かされたけど未だにそうなんやわ。ほんまは一晩でも離れるんは嫌なんやて。せやから出張に行く前は、自分の留守中の注意事項とかを言い聞かすん。毎回毎回おんなじことばっか。お母さんも『正直もう、耳にタコやわ』て言うてるくせに、お父さんに呼ばれるとあないして行くんやから……。『それでお父さんの気ぃが済むんやったらええやないの』言うて……。ほんましつこいねん……」
て言う冴子はイライラしているようにうちには見えたわ。
やがて線香花火の最後の火の玉がジジジ、と落ちると、冴子は立ち上がってお父さんの部屋がある方を向いて、つぶやくように言うたの。
「……いちいちお母さんを煩わしてからに……ほんま、荷造りぐらい自分でやったらええんや」
あの子の顔は無表情やったけど、明らかに苛立ってました。
そういう場合、こっちは声かけるん憚られますやん? うちもやっぱり何も言えんとあの子の忌々しそうな横顔を見てるしかなかった。
あの子の苛立ちが、オーラになって立ち上ってるようやったわなあ。
というて時間にして二呼吸ぐらいの間やったと思うわ。
向こうを睨むみたいに見つめてるあの子の首筋に蚊が来たさかいに、うちがとっさに叩いたんやけど、それがあの子を我に返らせるきっかけになったようやった。まあ、我に返る言うたら少々大袈裟やけど。
冴子はちょっとくたびれたみたいな顔で笑てこっちを見て言いました。
「せっかくいずみちゃん来てくれてるときにごめんね。なんや落ち着かんと」
この時、冴子のツンとしたあの匂いを感じました。
日が暮れたとはいえ暑い時期のことやからまた汗ばんだせいか、苛立ちにかあーっとなったせいかはわかりませんけど。
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