第5話

 で、ある日。そう、ちょうどGWが終わったばっかりの時やったわ。


 うち、英語の宿題を間違てしもて提出が遅なってしもたことがあったんよ。

 正しいとこを放課後にやってそのまま職員室へ持って行ったん。

 当然もう校舎にはほとんど人もいてへん。

 職員室から出て、何の気なしに中庭へ行ったら、藤棚の下に冴子がいてたんです。

 そこで何か読んでたんよね。


 あの子や、て確信した途端、うちは急に心臓が早鐘打ち始めたんがわかりました。チャンスや思いました。

 話しかけるんやったら今や! て。


 ちょっと怖いいう気持ちも一緒に上がってきました。無下にあしらわれたり冷たい反応されたらどないしよう、いう。


 あの子は寂しげではあったけど物欲しそうな、とか、人恋しそうな風では全然なかったからね。

 それでも、これを逃したらもう後はないいうぐらいのつもりで、無い勇気を振り絞ってドキドキしながら近づいて行って、


「藤川さん」


 て声をかけました。


 あー! 今思い返してもヒヤヒヤするわあ! こういう場合て、相手の反応次第でものすごう凹んだりしますやん? あの時、うちの声も震えてました。


 で、意を決して声をかけたわけやけど、冴子がうちに気づいて、


「え?」


 て顔を上げた時、うち、あの子の読んでたもんにちょうど目がいって、緊張がほんの一瞬ほぐれたんよ。

 うちの視線の先とうちの顔を、あの子はソワソワした感じに交互に見ました。


「それ……」


 うちは緊張も忘れて冴子のひざに乗ってる本を指差しました。それは、あの頃ちょっと流行ってたサブカルの漫画雑誌やったんです。

 わかります? サブカルの漫画て、こう、なんや得体の知れへんみたいな、背中が薄ら寒うなるみたいな、ズレたみたいなもんも多いでしょ? それを冴子が読んでたいうことに毒気を抜かれてしもたみたいになってなぁ。


「あ、これ?」


 言うて冴子は雑誌の表紙をこっちに見せてくれてにやっとしました。


 その顔見て、うちがたまらん気持ちになったん、わかりますやろ? 胸の中がこう、ふわー溶けていくみたいな……。


「中野さん、やんね? おんなじクラスの」


 冴子が言いました、ちょっと笑って。


 あの子の笑うのん見たのもその時が初めてやったさかい、どぎまぎしてねえ。


「うん」


 うちは言いました。


「そういえば喋るん初めてやね」


 冴子が言うて、


「よかったら座らへん?」


 石のベンチをちょっと横にズレてくれたんで、うちは言われるとおりにしました。ドキドキしてました。


「藤川さん、そんなん読むんやね……」


 冴子のこと呼ぶのもそれが初めてやったから照れくそうて照れくそうて。


「んー、そうやなあ。けっこう好きやよ。言われてみたら毎号買うてるかも。なんで? 意外?」


「うん……ちょっとびっくり。もっとこう、純文学とか読んだはるイメージやったから」


 うちがそんなこと言うたら冴子はけらけらと声を立てて笑うて、


「それは中野さんの勝手な想像やわあ」


 うちは冴子がうちの名前やとか存在を認識してくれてたことにまた感激してしもて、


「名前、知っててくれたんや。嬉しい」


「そりゃ知ってるよぉ。同じクラスやのに。よその中学から来はったんやね」


 やっとここでうちは冴子の顔をまともに間近で見たんです。それまではなんか気恥ずかしいてね。


 改めて思わずほれぼれしてしまいました。ニキビの花盛りの年頃やのにあの子にはそれが無うてつるっとしてたから余計にそう見えたんかもわからん。


「中野さんは漫画て読まへんの?」


「あ、うちも読むよ、漫画大好きやもん。色んなの読む」


 そう言うたらあの子の顔がぱっと輝きました。あ、意気投合したな、いう感触があって、うちは思わず調子づいてしまいました。


「藤川さんはサブカルのどこが好きなん?」


 嬉しい気持ちが前のめりになって、聞きました。だってそうちゃいます? さっきも言いましたけどサブカルて……ねぇ。ひとによったら背中が薄ら寒いもんを感じたりしますでしょ。


 冴子はちょっと考えてから、


「そうやなぁ、なんていうんやろ。わかりやすいものだけが真実とは限らへんいうか、善の顔したもんが必ずしも正しいんやないいうか、正解に見えるもんが正義とは言い切れへんいうか……不条理なことの肯定みたいな、そういうとこかなあ……」


 て、なんやうっとりした顔して言うてました。

 正直言うて、うちはこの時、冴子の言う意味があんましピンと来いひんかったんです。後になってから思い出して納得することになるんやけどね。

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